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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

カーディ(法官)とは わかりやすい世界史用語2338

著者名: ピアソラ
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カーディ(法官)とは

オスマン帝国におけるカーディーは、単なるイスラム法(シャリーア)の裁判官にとどまらず、帝国の広範な統治機構において中心的な役割を担った極めて重要な官職でした。 その職務は司法の領域をはるかに超え、行政、社会、経済の多岐にわたる分野に及んでいました。カーディーは、イスラム世界の初期から存在する役職であり、預言者ムハンマドの時代からその起源を遡ることができますが、オスマン帝国においてその権限と責任は独自の発展を遂げ、帝国の地方統治の根幹をなす存在となりました。



カーディーの起源とオスマン帝国における制度化

カーディーという役職は、イスラム共同体の黎明期に、共同体内で発生する紛争を解決するために設けられたのが始まりです。 イスラム法学が体系化される以前の初期のカーディーは、クルアーンの教え、地域の慣習、そして自らの公正感覚に基づいて裁定を下していました。 イスラム法学が発展するにつれて、カーディーは特定の法学派(オスマン帝国では主にハナフィー派)の法解釈に基づいて判断を下すことが求められるようになりました。 オスマン帝国が勃興し、その領土を拡大していく中で、カーディー制度は帝国の統治機構に不可欠な要素として組み込まれていきました。オスマン帝国の初期の支配者たちは、征服した地域にカーディーを任命することで、イスラム法に基づく公正な統治を確立し、帝国の支配を正当化しようとしました。 特に、1453年のコンスタンティノープル征服後、メフメト2世は帝国の法制度を体系化し、カーディーの役割をより明確に規定しました。 彼は、シャリーアに加えて、スルタンの勅令であるカーヌーン(世俗法)を制定し、カーディーはこれら両方の法源に基づいて裁定を行うことになりました。 このように、オスマン帝国のカーディーは、純粋な宗教的裁判官ではなく、スルタンの権威を代行する帝国官僚としての性格を強く帯びるようになったのです。

カーディーの任命と階層構造

オスマン帝国において、カーディーはウラマー(イスラム学者)階級から選ばれ、スルタンの勅令(ベラート)によって任命されました。 この任命プロセスは、帝国の官僚制度の中で厳格に管理されていました。初期には、カザスケル(大法官)が大宰相に候補者を推薦し、大宰相がスルタンに上奏して承認を得るという手続きが取られていました。 16世紀半ば以降は、シェイヒュルイスラーム(イスラム長老)が上級ウラマーの任命に関して大宰相に候補者を提案するようになり、その影響力が増大しました。
カーディーの階層は、その俸給や任地の重要性によって細かく定められていました。 最も下位のカーディーは、地方の小さな町や村(カザー)を担当する「カサバート・カーディー」と呼ばれました。 彼らはマドラサ(神学校)を卒業後、すぐに安定した収入を得られる職に就くことができましたが、高位の役職への昇進の道は限られていました。 一方、より高い地位を目指す者は、マドラサで教職に就くことからキャリアを始め、徐々に昇進していく「モッラ」と呼ばれるエリートコースを歩みました。 このコースを歩む者は、俸給の高い重要な都市のカーディー職(メヴレヴィイェト)に就くことができ、最終的にはカザスケルやシェイヒュルイスラームといった帝国の最高位のウラマー職に到達する可能性がありました。 イスタンブール、エディルネ、ブルサといった帝国の主要都市や、メッカ、メディナ、カイロ、ダマスカスといった聖地や主要な地方都市のカーディー職は、特に高い地位と権威を持っていました。
カーディーの任期は一般的に短く、特にイスタンブールのような重要な役職では平均して1年程度でした。 これは、より多くの有能なウラマーに昇進の機会を与えるとともに、一人のカーディーが特定の地域で権力を持ちすぎることを防ぐための措置であったと考えられます。 しかし、16世紀後半になると、有資格者の増加に対して役職が不足するようになり、昇進や罷免に関する規則がより厳格に運用されるようになりました。 また、政府高官の子弟がイルミエ(学者・司法官僚機構)内で優遇される傾向が強まりました。

司法官としてのカーディー

カーディーの最も基本的な職務は、その管轄区(カドゥルク)内で発生する民事および刑事事件を裁くことでした。 カーディーが主宰する法廷はシャリーア法廷と呼ばれ、イスラム教徒だけでなく、非イスラム教徒(ズィンミー)や外国人にも開かれていました。 オスマン帝国は、非イスラム教徒の共同体(ミッレト)に対して、彼ら自身の宗教法に基づく自治的な裁判を認めていましたが、多くの非イスラム教徒が様々な理由でカーディーの法廷を利用することを選択しました。 例えば、ユダヤ教徒がオスマン帝国内のカーディー法廷で紛争を解決しようとした事例が記録されています。
カーディーの法廷では、結婚、離婚、相続、後見といった身分法に関する問題から、負債、商取引、財産争いといった民事事件、さらには窃盗や暴行といった刑事事件まで、幅広い事案が扱われました。 裁判のプロセスは、シャリーアの原則に基づいて行われ、原告は証人を立てるか、被告が宣誓を行うことで判決が下されました。 カーディーは、ハナフィー派法学の権威ある見解に基づいて判決を下すことが期待されていましたが、必要に応じてムフティー(法解釈官)にファトワー(法的意見)を求めることもありました。 特に、カーディーと地方のムフティーの意見が対立した場合には、帝国の最高法解釈権威であるシェイヒュルイスラームに最終的な判断を仰ぐのが慣例となっていました。
カーディーの判決は個別の事件に対するものでしたが、その判例の積み重ねは、オスマン帝国の法解釈や法慣行の形成に大きな影響を与えました。 例えば、利子や高利貸しとの関連で問題視されていた現金ワクフ(寄進財産)について、カーディーが下した一連の判決は、最終的にその慣行を正当化する一助となりました。 このように、カーディーはスルタンの権威に従いつつも、一定の自律性を保ちながら法の発展に寄与していたのです。

行政官としてのカーディー

オスマン帝国におけるカーディーの役割は、司法の領域にとどまりませんでした。 むしろ、地方行政において中心的な役割を果たしており、その管轄区であるカザーの長として機能していました。 この点で、オスマン帝国のカーディーは、他のイスラム王朝のカーディーとは一線を画す存在でした。
カーディーの行政上の職務は多岐にわたりました。
市政の監督: カーディーは、市長のような役割を担い、都市の公共サービスの責任者でした。 市場の監督、物価の統制、度量衡の管理、道路や橋の修繕、公共の衛生管理など、都市生活のあらゆる側面に関与しました。 これらの職務を遂行するために、スバシュ(警察長官)やムフテスィブ(市場監督官)といった下級の役人がカーディーを補佐しました。
ワクフ(寄進財産)の管理: カーディーは、モスクやマドラサ、病院などの宗教・慈善施設を維持するために寄進された財産であるワクフの管理監督を行いました。 これは、ワクフがイスラム法に基づいて運営されることを保証するための重要な職務でした。
後見人としての役割: 孤児や未成年者、精神的な障害を持つ人々など、自らの財産を管理できない者の法定後見人として、その財産を保護する責任を負っていました。 また、後見人のいない女性の結婚を監督する権限も持っていました。
公証人としての機能: 売買契約、賃貸契約、債務の承認といった様々な法的取引を記録し、公証する役割も担っていました。 人々は自らの取引が法的に有効であることを保証するために、カーディーの法廷で契約書を作成し、登録を求めました。
税収の監督: カーディーは、帝国の税収に関する文書を認証し、監督する責任も負っていました。 これにより、地方における不正な徴税を防ぎ、帝国の財政基盤を確保する上で重要な役割を果たしました。
スルタンの権威の代行: 地方において、カーディーはスルタンの法的権威を代表する存在でした。 スルタンからの勅令や法令はカーディーを通じて布告され、その執行を監督しました。

権力均衡におけるカーディーの役割

オスマン帝国の地方統治は、軍事・行政権を担うベグ(県軍政官)と、法的権威を代表するカーディーとの間の絶妙な権力分担によって成り立っていました。 ベグは被支配民を罰するためにはカーディーの判決を必要とし、一方でカーディーは自らの判決を執行するためにベグの武力に頼らなければなりませんでした。 この相互依存関係は、両者の権力が一方的に濫用されることを防ぐためのチェック・アンド・バランスとして機能しました。
特に、ティマール制(封土制)の下では、カーディーは地方の軍事領主であるシパーヒーの権力に対する重要な抑制力となりました。 農民たちは、シパーヒーや他の役人から不当な扱いを受けた場合、カーディーに不服を申し立てることができました。 カーディー自身が権力を濫用することもあったものの、この権力分担の仕組みは、納税者階級が遠く離れた帝都に訴え出ることなく、地方レベルで不満を表明する機会を提供しました。 カーディーに与えられた権力は、ティマール制の正当性を保護すると同時に、帝国の税収基盤を確保することにも繋がったのです。
また、カーディーはスルタンの絶対的な権威の下にありながらも、その判決においては一定の自律性を享受していました。 中央政府はカーディーを意のままに任免し、管轄区の境界を設定し、定期的に連絡を取り合うことで統制を及ぼしていましたが、個々の判決の内容に直接介入することは稀でした。 この自律性があったからこそ、カーディーは法を発展させ、時には帝国の政策に影響を与えることもできたのです。

非イスラム教徒との関係

オスマン帝国は、その広大な領土内に多様な民族的・宗教的集団を抱える多文化帝国でした。 イスラム教徒、特に男性イスラム教徒がカーディーの法廷で優位な立場にあったことは事実ですが、非イスラム教徒であるキリスト教徒やユダヤ教徒も、司法制度を利用することができました。 前述の通り、オスマン帝国はミッレト制を通じて、各宗教共同体が独自の法廷を持ち、身分法に関する事項を自治的に処理することを認めていました。
しかし、実際には多くの非イスラム教徒が、自らの共同体の法廷ではなく、カーディーのシャリーア法廷に訴え出ることを選びました。 その動機は様々でしたが、シャリーア法廷の方がより迅速かつ公正な判決を下すと期待されたことや、異なる宗教共同体間の紛争を解決するのに適していたことなどが挙げられます。 カーディーの法廷が、宗教の垣根を越えて帝国の全ての臣民が利用できる公的な司法機関として機能していたことは、オスマン帝国の統治の柔軟性と実用主義的な側面を示しています。

タンジマート改革とカーディー制度の変容

19世紀に入ると、オスマン帝国は西欧列強の圧力と国内の近代化の必要性に直面し、タンジマートと呼ばれる一連の大規模な改革に着手しました。 この改革は、帝国の法制度と行政機構にも大きな変化をもたらし、カーディーの役割も大きく変容しました。
タンジマート改革の主な目的の一つは、法の下の平等を確立し、行政を中央集権化・効率化することでした。その一環として、フランスの法制度をモデルとした世俗的な裁判所(ニザーミーエ裁判所)が設立され、商法や刑法といった分野がシャリーア法廷の管轄から徐々に切り離されていきました。 これにより、かつてカーディーが担っていた広範な司法権は大幅に縮小され、その権限は主に結婚、離婚、相続といった身分法や、ワクフの管理といった宗教的な事柄に限定されるようになりました。
行政面でも、カーディーが担っていた多くの職務は、新設された役職に移管されました。 例えば、カザーの行政責任は、カイマカム(郡長)と呼ばれる専門の行政官が担うようになり、カーディーは純粋に司法的な職務に専念することになりました。 1856年のカーディー条例は、このような司法権と行政権の分離を法的に規定するものでした。
これらの改革により、カーディーを中心とした伝統的な司法・行政システムは大きく変貌し、その権威と影響力は相対的に低下しました。 司法権がシャリーア法廷と世俗裁判所に二分されたことで、法制度は複雑化し、カーディーの役割はより限定的なものとなっていったのです。 最終的に、オスマン帝国が崩壊し、トルコ共和国が成立すると、カーディー制度は完全に廃止され、完全に世俗的な司法制度が導入されることになりました。
オスマン帝国のカーディーは、単なるイスラム法の裁判官ではなく、帝国の統治機構に深く根ざした多機能な官僚でした。 司法官として紛争を解決し、行政官として地方を治め、スルタンの権威を代行することで、帝国の秩序維持と安定に不可欠な役割を果たしました。 その職務は、シャリーアとカーヌーンという二つの法源に基づき、イスラム教徒と非イスラム教徒の双方に及ぶものでした。 カーディーは、ベグとの権力分担を通じて地方権力の抑制力として機能し、また、一定の自律性を保ちながら法の発展にも寄与しました。 しかし、19世紀のタンジマート改革によって西洋的な法制度と行政機構が導入されると、カーディーの広範な権限は徐々に縮小され、その役割は大きく変容しました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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