スレイマン1世とは
オスマン帝国第10代スルタン、スレイマン1世は、西欧では「壮麗帝」、自国では「立法帝」として知られ、1520年から1566年までの46年間にわたる治世の間に、帝国をかつてないほどの領土的、文化的、法的な高みへと導きました。彼の時代は、オスマン帝国の「黄金時代」と称され、その影響はヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に及びました。
若き日のスレイマン:スルタンへの道
スレイマンは、1494年11月6日頃、黒海南岸のトラブゾンで生まれました。 彼の父は、後にセリム1世として即位するシェフザーデ(皇子)・セリムであり、母は出自不明ながらイスラム教に改宗したハフサ・スルタンでした。 7歳の時、スレイマンは帝都コンスタンティノープルのトプカプ宮殿に送られ、そこで科学、歴史、文学、神学、そして軍事戦術といった多岐にわたる学問を学び始めました。 彼はまた、オスマン・トルコ語、アラビア語、セルビア語、チャガタイ・トルコ語、ペルシャ語、ウルドゥー語の6つの言語に堪能であったと言われています。 若き日のスレイマンは、ギリシャ系の奴隷であったパルガル・イブラヒムと親交を深め、イブラヒムは後に彼が最も信頼する顧問の一人となります。
皇子としての経験を積むため、スレイマンは17歳でクリミア半島のカッファの知事に任命され、その後マニサ、エディルネといった要地の統治を歴任しました。 これらの地方での統治経験は、彼が将来帝国を率いる上で不可欠な行政手腕を養うための重要な期間となりました。特にマニサでの統治は、皇太子としての地位を固める上で重要な役割を果たしました。
1520年9月30日、父セリム1世が崩御すると、スレイマンはコンスタンティノープルに入城し、25歳でオスマン帝国第10代スルタンとして即位しました。 彼の即位は、叔父や兄弟といった競争相手が存在しなかったため、比較的平穏に行われました。 しかし、彼は帝国の支配層に広く知られておらず、また戦場での指揮経験もなかったため、当初はいくつかの不利な点を克服する必要がありました。 彼は、父セリム1世とは対照的に、公正な統治者としてのイメージを確立することから始めました。 即位後すぐに行った施策の一つに、父によってカイロへ強制移住させられていた600の有力な家系に帝国への帰還の自由を与えたことが挙げられます。 この措置は、彼の寛大さを示すとともに、帝国内の安定を図るためのものでした。
帝国の拡大:ヨーロッパでの軍事行動
スレイマン1世の治世は、絶え間ない軍事遠征によって特徴づけられます。彼は自ら13回もの遠征を率い、その治世中に帝国の領土を倍増させました。 彼の軍事行動の主な舞台は、中央ヨーロッパと地中海でした。
彼の最初の標的となったのは、ハンガリー王国の南の要衝、ベオグラードでした。彼の曾祖父であるメフメト2世も攻略に失敗したこの都市は、ヨーロッパへのさらなる進出の鍵を握っていました。 1521年、スレイマンは10万の兵と300門の大砲を率いてベオグラードへ進軍しました。 ハンガリーからの援軍はなく、わずか700人の守備隊が守るベオグラードは、同年8月に陥落しました。 ベオグラードの征服は、ハンガリーとクロアチアという、ヨーロッパにおけるオスマン帝国の進撃を阻む最後の強力な勢力を排除する上で極めて重要でした。
次にスレイマンが目を向けたのは、地中海東部に浮かぶロードス島でした。 この島は、十字軍の末裔である聖ヨハネ騎士団の本拠地であり、オスマン帝国の船舶にとって絶え間ない脅威となっていました。 スレイマンはマルマリスに巨大な要塞を築き、海軍の基地としました。 1522年、5ヶ月にわたる包囲戦の末、ロードス島は降伏し、スレイマンは騎士団の退去を許可しました。 この征服により、オスマン帝国は地中海東部の支配権を確固たるものにしましたが、その代償として戦闘と病気により5万人から6万人もの兵士を失いました。
ヨーロッパにおけるスレイマンの最も輝かしい勝利の一つが、1526年8月29日のモハーチの戦いです。 ハンガリー王ラヨシュ2世率いるハンガリー軍は、オスマン軍の組織的な反撃の前に崩壊し、ラヨシュ2世自身も戦死しました。 この戦いにより、ハンガリー王国は事実上崩壊し、ヤギェウォ朝は断絶しました。 ハンガリーはその後、オスマン帝国、ハプスブルク家、そしてオスマン帝国の属国であるトランシルヴァニア公国によって三分割されることになります。
モハーチの戦いの後、スレイマンはさらにヨーロッパの中心部へと進軍し、1529年にはハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲しました。 しかし、長距離の遠征に伴う補給の困難、悪天候、そしてキリスト教徒側の頑強な抵抗により、スレイマンは包囲を断念せざるを得ませんでした。 ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国の西への拡大の限界を示す出来事となりました。 1532年、スレイマンは再びハンガリーへ侵攻し、ウィーンの南60マイルに位置するケーセグを包囲しましたが、わずか700人の兵士が守るこの要塞を3週間にわたって攻略できず、再び撤退しました。
その後もハンガリーをめぐるハプスブルク家との戦いは断続的に続きました。 1541年、スレイマンはハンガリー中央部を直接統治下に置き、ブダを中心とするオスマン領ハンガリーを成立させました。 1543年には、エステルゴム、セーケシュフェヘールヴァール、シクローシュ、セゲドといったハンガリーの都市を次々と占領し、ブダ周辺の支配を固めました。 長い交渉の末、1562年にハンガリーにおける現状を認める和平が結ばれました。
東方への遠征:サファヴィー朝ペルシャとの抗争
スレイマンの治世において、東方の宿敵であったシーア派のサファヴィー朝ペルシャとの戦いもまた、重要な軍事行動でした。 この対立は、領土的な野心だけでなく、スンニ派の盟主を自任するオスマン帝国と、シーア派を国教とするサファヴィー朝との間の宗派的な対立にも根差していました。
スレイマンはペルシャに対して3度の大規模な遠征を自ら率いました。 最初の遠征は1532年から1535年にかけて行われました。 大宰相イブラヒム・パシャが率いるオスマン軍は、サファヴィー朝の支配下にあったイラクに侵攻し、1534年7月にタブリーズを、同年12月にはバグダッドを占領しました。 サファヴィー朝のシャー・タフマースブ1世は、オスマン軍との直接対決を避け、焦土作戦と補給路への嫌がらせによって対抗しました。 この遠征により、オスマン帝国は東アナトリアのエルズルム地方とイラクを支配下に収め、ペルシャ湾へのアクセスを確保しました。
2度目の遠征は1548年から1549年にかけて行われました。 この時もタフマースブ1世は焦土作戦を採用し、アルメニア地方を荒廃させました。 オスマン軍はタブリーズとペルシャ領アルメニアで一時的な勝利を収め、ヴァン湖周辺地域を支配下に置きましたが、決定的な勝利には至りませんでした。
3度目の遠征は1553年から1555年にかけて行われました。 この遠征でオスマン軍はエルズルムを奪還し、ユーフラテス川上流を越えてペルシャ北部に進出しました。 長引く戦争に疲弊した両国は、1555年にアマスィヤの和約を締結しました。 この和約により、オスマン帝国はイラクと東アナトリアの大部分の領有を認められ、サファヴィー朝はタブリーズを含む北西部の領土を保持しました。 アマスィヤの和約は、両帝国間の最初の公式な和平条約であり、東方国境に一定の安定をもたらしましたが、根本的な問題の解決には至りませんでした。
地中海の覇権と海軍力
スレイマンの治世下で、オスマン帝国は陸上だけでなく、海上においてもその勢力を大きく拡大しました。 彼の父セリム1世が築いた海軍の基礎の上に、スレイマンは地中海、紅海、さらにはインド洋にまで及ぶ強力な海軍を構築しました。
1522年のロードス島征服は、オスマン帝国が地中海東部の制海権を確立する上で画期的な出来事でした。 しかし、聖ヨハネ騎士団は1530年にカール5世によってマルタ島を与えられ、そこを拠点にオスマン帝国の船舶や沿岸部への襲撃を続けました。
地中海におけるオスマン帝国の主な敵は、神聖ローマ皇帝カール5世率いるハプスブルク家とその同盟国でした。 カール5世は、ジェノヴァの偉大な提督アンドレア・ドーリアを海軍司令官に迎え、地中海の完全な支配を目指しました。 これに対し、スレイマンは、バルバリア海賊の指導者であったハイレッディン・パシャ(西欧ではバルバロッサとして知られる)をオスマン艦隊の提督に任命しました。 ハイレッディンの下で、オスマン海軍は地中海で優位に立ち、北アフリカ沿岸の大部分を支配下に置きました。
1538年のプレヴェザの海戦は、オスマン海軍の歴史における最大の勝利の一つです。ハイレッディン率いるオスマン艦隊は、アンドレア・ドーリアが指揮するキリスト教連合艦隊を打ち破り、地中海におけるオスマン帝国の覇権を決定づけました。
また、オスマン帝国はハプスブルク家に対抗するため、フランスのフランソワ1世と同盟を結びました。 このフランコ・オスマントルコ同盟は、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えました。同盟の一環として、オスマン艦隊は1543年にニースをフランス軍と共に包囲攻撃するなど、共同軍事行動も行いました。
しかし、スレイマンの治世の晩年には、地中海での挑戦も経験しました。1565年、オスマン帝国はマルタ島を攻略するために大規模な遠征軍を送りましたが、聖ヨハネ騎士団の頑強な抵抗の前に失敗に終わりました。 マルタ包囲戦の失敗は、スレイマンの治世における大きな失望の一つとされています。
「立法帝」としての改革:カヌーンの整備
スレイマン1世は、西欧では「壮麗帝」として知られていますが、オスマン帝国の臣民からは常に「カヌーニー」、すなわち「立法帝」として敬愛されていました。 彼の治世における最も永続的な功績の一つは、オスマン帝国の法制度を完全に再構築したことです。
オスマン帝国の最高法規は、イスラムの神聖法であるシャリーアであり、スルタンの権限をもってしても変更することはできませんでした。 しかし、シャリーアがカバーしない刑法、土地所有、税制などの分野については、スルタンの意志に基づく世俗法である「カヌーン」が存在しました。 スレイマン以前のオスマン帝国では、これらの法制度は統一されておらず、地域ごとに異なる法律が適用される複雑な状況でした。
スレイマンは、彼以前の9人のスルタンによって発布されたすべての勅令を収集し、重複や矛盾を排除した上で、単一の法典を編纂しました。 この作業は、帝国の最高法官であるエブッスード・エフェンディの協力のもとで行われ、シャリーアとカヌーンという二つの法体系の関係を調和させることを目指しました。 完成した法典は「カヌーニ・オスマニ」(オスマン法典)として知られ、300年以上にわたって存続しました。
スレイマンの法改革は、多岐にわたりました。彼は、キリスト教徒の農民(ラヤ)の地位向上に特に関心を払い、「ラヤ法典」を制定して、彼らが支払うべき税金や賦役に関する法律を改革しました。 これにより、ラヤの地位は農奴の状態から大きく改善され、キリスト教徒の農奴がその恩恵を受けるためにオスマン領に移住するほどでした。 また、彼は新たな刑法や警察法を制定し、行政官による権力の乱用や汚職を減らすための改革も行いました。 例えば、遠征中の兵士が敵地であっても食料やその他の財産を徴発する際には、対価を支払うことを義務付けました。
さらに、スレイマンはユダヤ人臣民の保護にも役割を果たしました。 彼は、ユダヤ人に対する血の中傷(キリスト教徒の子供を殺してその血を儀式に使うという濡れ衣)を非難する勅令を発布しました。 これらの法改革は、広大な帝国全土にわたって法の標準化と統一をもたらし、スルタンと国家の権力を強化するのに役立ちました。
文化の黄金時代:芸術と建築の庇護
スレイマン1世の治世は、オスマン帝国の軍事的・政治的な絶頂期であっただけでなく、芸術、文学、建築が花開いた「黄金時代」でもありました。 スレイマン自身が優れた詩人であり金細工師でもあった彼は、文化の偉大な後援者でした。
彼の庇護のもと、帝都コンスタンティノープルはイスラム文明の中心地へと変貌を遂げました。 この変革の中心的な役割を担ったのが、天才建築家ミマール・シナンです。スレイマンはシナンに数多くの壮大な建築物の建設を命じました。その中でも最も有名なものが、イスタンブールのスカイラインを今なお支配するスレイマニエ・モスクです。このモスクは、単なる礼拝所ではなく、マドラサ(神学校)、図書館、食堂、施療院、病院などを備えた複合施設であり、公共の福祉に貢献するものでした。
シナンは他にも、セリム2世の娘イスミハン・スルタンと結婚した大宰相ソコルル・メフメト・パシャのために建てられたモスクなど、数多くの傑作を帝国各地に残しました。 スレイマン自身も、エルサレムの岩のドームや城壁の修復、メッカのカーバ神殿の改修など、帝国全土にわたる重要な宗教建築の保全と修復に資金を提供しました。
スレイマンの治世下では、数百もの帝国の芸術家協会(エフリ・ヒレフ、「才能ある人々の共同体」と呼ばれる)が設立され、陶器、カリグラフィー、写本装飾、織物など、様々な分野で最高水準の作品が生み出されました。 スレイマン自身もペルシャ語とトルコ語で詩を書き、その詩の中にはトルコのことわざとして今日まで残っているものもあります。 彼の父セリム1世がペルシャ語のみで詩作したのに対し、スレイマンはトルコ語の詩的表現を発展させることにも貢献しました。 このように、スレイマンの時代に育まれた豊かな文化は、オスマン帝国の後世だけでなく、東西の芸術様式にも大きな影響を与えました。
ハレムの政治:ヒュッレム・スルタンの台頭
スレイマン1世の私生活において最も重要な人物は、彼の寵妃であり、後に正式な妻となったヒュッレム・スルタン(西欧ではロクセラーナとして知られる)でした。 ウクライナの正教会の司祭の娘であった彼女は、奴隷としてハレムに献上されましたが、やがてスレイマンの心を捉え、ハレム内で絶大な影響力を持つようになりました。
1533年、スレイマンはオスマン帝国の伝統を破り、ハレムの女性であったヒュッレムと正式に結婚しました。 この出来事は、宮廷内外に大きな驚きをもって迎えられました。この結婚は、スルタンがハレムの女性と個人的な関係を深め、彼女が政治的な影響力を持つようになる「女性のスルタン時代」の幕開けを象徴する出来事と見なされています。
ヒュッレムは、スレイマンに対して大きな影響力を持ち、彼の政治的な顧問としても機能しました。 彼女は自身の息子たちを次期スルタンにするために、宮廷内で巧みに立ち回りました。彼女の最大のライバルは、スレイマンの長男であり、マヒデヴラン・スルタンとの間に生まれたシェフザーデ・ムスタファでした。 ムスタファは、有能でカリスマ性があり、軍隊、特にイェニチェリからの人気も高かったため、次期スルタンの最有力候補と見なされていました。
ヒュッレムは、オスマン帝国の後継者争いの残酷な掟を熟知していました。もしムスタファがスルタンになれば、自らの息子たちは処刑される運命にありました。 そのため、彼女はムスタファを失脚させるために陰謀を巡らせたと広く信じられています。彼女は、娘のミフリマー・スルタンの夫であり、大宰相であったリュステム・パシャと協力し、ムスタファが反逆を企てているという噂を流しました。
ヒュッレムの存在は、オスマン帝国の政治力学を大きく変えました。彼女の台頭は、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャの失脚と処刑にも関連していると考えられています。イブラヒムはかつてスレイマンの最も信頼する腹心でしたが、その絶大な権力と、ヒュッレムとの対立が彼の命運を尽きた一因とされています。 1536年にイブラヒムが処刑された後、ヒュッレムはスレイマンの最も重要な政治的アドバイザーとしての地位を確立しました。
後継者問題と皇子たちの悲劇
オスマン帝国では、スルタンの地位継承に関する明確なルールが存在せず、スルタンの死後、皇子たちが互いに争い、最も強力な者が王位を継承するという慣習がありました。 この「兄弟殺し」の伝統は、内戦を防ぐためとして宗教的権威によっても是認されていました。 スレイマン1世の治世も、この過酷な後継者争いの例外ではありませんでした。
スレイマンには多くの息子がいましたが、後継者候補として頭角を現したのは、マヒデヴラン・スルタンとの子である長男ムスタファと、ヒュッレム・スルタンとの間に生まれたメフメト、セリム、バヤズィト、ジハンギルでした。
当初、最も有力な後継者と見なされていたのは、シェフザーデ・ムスタファでした。 彼は知性、才能、そして軍事的能力に恵まれ、イェニチェリや民衆から絶大な人気を誇っていました。 しかし、彼の人気は、父スレイマンの権威を脅かすものと見なされるようになり、また、ヒュッレム・スルタンとその盟友である大宰相リュステム・パシャの陰謀の標的となりました。
1553年、サファヴィー朝への遠征の最中、リュステム・パシャはムスタファが反乱を企てているという証拠を捏造し、スレイマンを説得しました。 伝えられるところによると、リュステムはムスタファがサファヴィー朝のシャーと内通しているかのような偽の手紙を作成したとされています。 イェニチェリがムスタファを支持して反乱を起こすことを恐れたスレイマンは、ついに息子を処刑する決断を下しました。 1553年10月6日、コンヤ近郊の陣営に呼び出されたムスタファは、父の天幕に入ったところで待ち伏せていた処刑人によって絞殺されました。 彼の遺体は、支持者への見せしめとして天幕の前に晒されました。 ムスタファの死は、軍隊と民衆に大きな衝撃と悲しみをもたらし、オスマン帝国の歴史における悲劇的な瞬間として記憶されています。 ムスタファの死後、彼の幼い息子メフメトもまた、祖父であるスレイマンの命令によって処刑されました。
ムスタファの死により、後継者争いはヒュッレムの息子であるセリムとバヤズィトの二人に絞られました。 セリムは肥満で無能と評価され人気がなかったのに対し、バヤズィトはハンサムで才能があり、人気がありました。 ヒュッレムはセリムを後継者として望んでいました。 1558年にヒュッレムが亡くなると、二人の兄弟間の対立は激化し、ついに内戦へと発展しました。
スレイマンは、バヤズィトよりもセリムを支持しました。 1559年、バヤズィトは父に対して反乱を起こしましたが、敗北し、サファヴィー朝ペルシャへ亡命しました。 しかし、スレイマンはシャー・タフマースブに賄賂を送り、1561年にバヤズィトとその息子たちを処刑させました。 これにより、セリムが唯一の後継者として残りました。
ヒュッレムとの末子であったジハンギルは、生まれつき背骨に奇形があり、健康に問題を抱えていました。 彼は敬愛する異母兄ムスタファの処刑に深く心を痛め、その悲しみが原因で、ムスタファの死からわずか数週間後に亡くなりました。
最後の遠征と死
1566年、72歳になっていたスレイマンは、13回目にして最後の遠征に赴きました。 痛風に苦しみ、輿に乗って移動しなければならないほど衰弱していましたが、彼は自ら軍を率いることを選びました。 この遠征の最終目標は再びウィーンを包囲することでしたが、その途上でハンガリー南部の要塞シゲトヴァールがハンガリーの司令官ミクローシュ・ズリーニによって攻略されたとの報告を受け、スレイマンは激怒し、シゲトヴァールの奪還へと目標を変更しました。
オスマン軍は1566年8月2日にシゲトヴァールに到着し、包囲を開始しました。 スレイマンは8月5日に陣地に到着し、包囲戦を見渡せる丘の上の天幕に落ち着きました。 しかし、長年の遠征と高齢により彼の体力は限界に達していました。9月6日、シゲトヴァール陥落の前日に、スレイマンは自らの天幕の中で息を引き取りました。
彼の死は、軍の士気低下と混乱を避けるため、大宰相ソコルル・メフメト・パシャによって厳重に秘密にされました。 スルタンの死を知っていたのは、ごく一部の側近のみでした。 ソコルルは、スルタンが病気療養中であると偽り、軍の指揮を続けました。シゲトヴァールが陥落した後も、彼はスルタンの名で勝利の祝賀や命令を発し続けました。そして、軍が帝都コンスタンティノープルへの帰路につくまで、スルタンの死を隠し通したのです。 スレイマンの遺体はイスタンブールに運ばれ、彼が建設を命じたスレイマニエ・モスクの霊廟に埋葬されました。
スレイマン1世の側近たち
スレイマン1世の偉大な治世は、彼を支えた有能な側近たちの存在なくしては語れません。彼の長い統治期間中、数多くの大宰相(ヴィズィアザム)や提督が帝国の運営と拡大に貢献しました。
パルガル・イブラヒム・パシャ
スレイマンの治世初期において最も重要な人物は、パルガル・イブラヒム・パシャでした。 ギリシャのパルガ出身で、若い頃に奴隷としてオスマン帝国に来た彼は、皇子時代のスレイマンと出会い、親友となりました。 スレイマンが即位すると、イブラヒムは鷹匠頭から始まり、異例の速さで昇進を重ね、1523年には大宰相に任命されました。 彼は、行政や軍事の経験がなかったにもかかわらず、その才能を外交と軍事の両面で発揮しました。 彼はエジプトの反乱を鎮圧し、その地の行政改革を行うなど、内政面でも手腕を発揮しました。 また、ハンガリー遠征やウィーン包囲、サファヴィー朝との戦いにおいても、軍の総司令官(セラシュケル)として重要な役割を果たしました。 ヴェネツィアの外交官たちは、彼を「壮麗なイブラヒム」と呼び、その権勢をスルタン自身になぞらえました。 しかし、彼の絶大な権力は次第にスレイマンの猜疑心を招き、またヒュッレム・スルタンとの対立も深まりました。 1536年3月15日、イブラヒムはスルタンとの夕食の後、宮殿内で処刑されました。
リュステム・パシャ
イブラヒムの死後、スレイマンの治世で大きな影響力を持ったのがリュステム・パシャです。彼はスレイマンとヒュッレムの娘であるミフリマー・スルタンと結婚し、スルタン家の婿となりました。 彼は2度にわたって大宰相を務め、特に財政面で手腕を発揮しました。しかし、彼はヒュッレム・スルタンと結託してシェフザーデ・ムスタファを陥れ、その処刑に導いた人物として、歴史的に否定的な評価を受けることが多いです。 ムスタファの処刑後、イェニチェリの不満を鎮めるために一時的に大宰相を解任されましたが、後に復職しています。
ソコルル・メフメト・パシャ
スレイマンの治世末期から、その後のセリム2世、ムラト3世の治世にかけて、オスマン帝国を実質的に動かしたのは、ソコルル・メフメト・パシャでした。 ボスニアのソコル村出身の彼は、デヴシルメ制度によって徴用され、イェニチェリとしてキャリアをスタートさせました。 彼は海軍提督、ルメリア総督などを歴任し、1565年に大宰相に就任しました。 スレイマン最後の遠征となったシゲトヴァール包囲戦では、スレイマンの死を隠蔽して軍の混乱を防ぎ、無事に撤退させるという離れ業をやってのけました。 スレイマンの死後、後を継いだセリム2世が政治に関心が薄かったため、ソコルルが帝国の実権を握り、政治を取り仕切りました。 彼は有能な政治家であり、ヴェネツィアとの戦争でキプロスを獲得するなど、帝国の拡大に貢献しました。 また、スエズ運河の建設計画を最初に構想した人物の一人としても知られています。 彼の権勢はムラト3世の治世まで続きましたが、宮廷内の敵対勢力によって1579年に暗殺されました。
これらの側近たちは、それぞれがスレイマンの治世における光と影を象徴する存在であり、彼らの活躍と失脚は、オスマン帝国の権力構造の複雑さを物語っています。
スレイマン1世の遺産
スレイマン1世の46年間にわたる治世は、オスマン帝国に永続的な遺産を残しました。 彼の死後、帝国は緩やかな衰退の道をたどることになりますが、彼が築き上げた軍事的、法的、文化的な基盤は、その後も長く帝国を支え続けました。
軍事面では、彼は帝国の領土をヨーロッパのウィーン近郊からペルシャ湾、北アフリカに至る広大な範囲にまで拡大しました。 彼が確立した国境線は、その後数世紀にわたってヨーロッパと中東の政治地図を規定しました。 地中海におけるオスマン海軍の覇権も、彼の治世に確立されたものです。
法制面では、「立法帝」としての彼の功績が最も重要です。 彼が編纂した「カヌーン」は、多民族・多宗教の広大な帝国を統治するための統一された法的枠組みを提供し、行政の効率化と公正化に貢献しました。 この法典は、シャリーアと世俗法を調和させようとする試みであり、オスマン帝国の法制度に近代的な基礎を与えました。
文化面では、彼の治世はオスマン芸術の「黄金時代」として記憶されています。 建築家ミマール・シナンによる壮麗なモスクや建築群は、イスタンブールの景観を今日に至るまで特徴づけています。 文学、カリグラフィー、陶芸などの分野でも、彼の後援のもとで目覚ましい発展が見られました。