モハーチの戦いとは
16世紀のヨーロッパは、宗教改革、ルネサンス、そして大航海時代の到来という大きな変革の波に洗われていました。この激動の時代において、東方から迫るオスマン帝国の脅威は、キリスト教世界の根幹を揺るがす深刻な問題でした。当時、バルカン半島から中央ヨーロッパへと着実に勢力を拡大していたオスマン帝国と、その進出を食い止めようとするヨーロッパ諸国の対立は、避けられない運命にありました。この対立が頂点に達したのが、1526年8月29日にハンガリー王国の南部の町モハーチ近郊で繰り広げられた、歴史上名高い「モハーチの戦い」です。この戦いは、単なる一地方の戦闘ではなく、その後の数世紀にわたる中央ヨーロッパの政治地図、宗教分布、そして文化の在り方を決定づける、まさに分水嶺となる出来事でした。
この戦いの一方の主役は、当時イスラム世界の最強国として君臨していたオスマン帝国です。その頂点に立つのは、即位からわずか数年にしてベオグラードやロドス島といった難攻不落の要塞を次々と陥落させ、「壮麗帝」としてその名を轟かせていたスルタン・スレイマン1世でした。彼は、父セリム1世から受け継いだ強大な帝国をさらに拡大し、ヨーロッパの心臓部であるウィーンを最終的な目標として見据えていました。スレイマン1世が率いるオスマン軍は、当時世界最新鋭の火器で武装したイェニチェリ軍団、精強な騎兵であるシパーヒー、そして大砲を駆使する砲兵隊など、多様かつ高度に組織化された巨大な軍事力を誇っていました。彼らの西進は、単なる領土拡大に留まらず、イスラム教の威光をヨーロッパに示すという強い宗教的使命感にも支えられていました。
対するもう一方の主役は、かつては中世ヨーロッパの強国として名を馳せたものの、当時は深刻な内憂外患に苦しんでいたハンガリー王国でした。王位にあったのは、若き国王ラヨシュ2世です。彼は、ヤギェウォ朝の血を引く君主でしたが、その治世は困難を極めていました。国内では、強力な貴族たちが互いに勢力を争い、王権は著しく弱体化していました。貴族たちは国王の命令に従わず、自らの領地の利益を優先し、国家としての一体性を欠いていたのです。さらに、農民の不満も高まっており、1514年に起きたジョルジ・ドージャの農民反乱の記憶は、社会に深い亀裂を残していました。財政は破綻寸前であり、オスマン帝国の脅威に対抗するための十分な軍備を整えることは、極めて困難な状況でした。ラヨシュ2世は、ハプスブルク家との婚姻政策を通じて神聖ローマ帝国からの支援を期待していましたが、その支援は限定的であり、来るべきオスマン帝国との決戦において、ハンガリーは孤立無援に近い状態で立ち向かわなければなりませんでした。
モハーチの戦いは、これら二つの対照的な国家、すなわち、絶頂期にあって統一された指揮系統と圧倒的な軍事力を誇るオスマン帝国と、内部分裂と財政難にあえぎ、かつての栄光を失いつつあったハンガリー王国との衝突でした。この戦いの背景には、単なる軍事的な対立だけでなく、宗教、文化、そして政治体制の衝突という、より根深い要因が複雑に絡み合っていました。スレイマン1世の遠征の目的、ハンガリー王国の脆弱な国内情勢、そして当時のヨーロッパ諸国間の複雑な外交関係が、モハーチの平原で悲劇的な結末を迎えるための舞台を整えていったのです。
戦いの背景:二つの帝国の道
モハーチの戦いが勃発するに至った背景は、15世紀後半から16世紀初頭にかけてのオスマン帝国とハンガリー王国の対照的な歩みに深く根差しています。この期間、オスマン帝国は驚異的な速度で国力を増強し、ヨーロッパへの進出を本格化させたのに対し、ハンガリー王国は内部の政治的・社会的な混乱により、その国力を著しく消耗させていきました。
オスマン帝国の側では、1520年にスレイマン1世がスルタンの位に就いたことが、西進政策の大きな転換点となりました。彼の父セリム1世は、主に東方のサファヴィー朝ペルシアや南方のマムルーク朝エジプトとの戦いに注力し、オスマン帝国の領土を倍増させ、イスラム世界の覇権を確立しました。スレイマン1世は、この強固な基盤を受け継ぎ、その目をヨーロッパへと向けたのです。彼の治世の初期における最大の目標は、父祖メフメト2世も攻略できなかった、ヨーロッパ防衛の鍵となる二つの要衝、すなわちバルカン半島におけるベオグラードと、地中海におけるロドス島を征服することでした。
ベオグラードは、ドナウ川とサヴァ川の合流点に位置する戦略的な要塞であり、ハンガリー平原への入り口を守る「ハンガリーの鍵」と見なされていました。1456年のベオグラード包囲戦では、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュがメフメト2世の大軍を撃退し、キリスト教世界を救ったという輝かしい歴史がありました。しかし、スレイマン1世の時代には、ハンガリー王国の弱体化により、ベオグラードの守備は手薄になっていました。1521年、スレイマン1世は自ら大軍を率いてベオグラードを包囲します。数週間にわたる激しい砲撃と攻撃の末、守備隊はついに降伏し、要塞はオスマン帝国の手に落ちました。このベオグラードの陥落は、ヨーロッパに大きな衝撃を与えました。ハンガリー南部の防衛線が突破され、オスマン軍がハンガリー平原へ直接侵攻する道が開かれたことを意味したからです。
ベオグラード攻略の翌年、1522年には、スレイマン1世は次なる目標であるロドス島へと軍を進めました。ロドス島は、聖ヨハネ騎士団の本拠地であり、東地中海におけるキリスト教徒の最後の砦として、オスマン帝国の海上交通路を脅かす存在でした。半年に及ぶ壮絶な包囲戦の末、騎士団は名誉ある降伏を認められ、島を退去しました。これにより、オスマン帝国は東地中海の制海権を完全に掌握し、ヨーロッパへの圧力をさらに強めることになりました。ベオグラードとロドス島の相次ぐ征服は、スレイマン1世の軍事的天才とオスマン帝国の圧倒的な力を世界に示し、彼の威信を不動のものとしました。これらの成功により、スレイマン1世はヨーロッパの心臓部、すなわちハンガリー、そして最終的には神聖ローマ帝国の首都ウィーンを征服するという、より壮大な野望を抱くようになったのです。
一方、この時期のハンガリー王国は、深刻な危機に瀕していました。15世紀後半、マーチャーシュ1世(フニャディ・ヤーノシュの子)の治世下で、ハンガリーは中央集権化を進め、強力な常備軍「黒軍」を擁する中央ヨーロッパの強国として君臨していました。しかし、1490年に彼が後継者を指名せずに死去すると、王国は急速に衰退の道をたどります。強力な王を恐れたハンガリーの大貴族たちは、意図的に弱体なヤギェウォ朝のウラースロー2世を国王に選びました。彼の治世下で、貴族たちは王権を制限し、マーチャーシュ1世が築いた中央集権体制を解体していきました。常備軍「黒軍」は解散させられ、国家の税収は貴族たちの私腹を肥やすために流用され、国の防衛力は著しく低下しました。
1516年にウラースロー2世が亡くなり、その子であるわずか10歳のラヨシュ2世が王位を継承すると、事態はさらに悪化します。若き国王には、分裂した貴族たちをまとめる力はなく、宮廷は様々な派閥による権力闘争の場と化しました。大貴族たちは国益を顧みず、互いに反目し合い、オスマン帝国の脅威が目前に迫っているにもかかわらず、統一した国防体制を築くことができませんでした。さらに、社会の基盤である農民層の不満も爆発寸前でした。1514年、オスマン帝国に対する十字軍として集められた農民たちが、貴族の圧政に反旗を翻すという「ジョルジ・ドージャの農民反乱」が勃発しました。この反乱は貴族たちによって残忍に鎮圧されましたが、支配階級と民衆の間に深い溝を残し、ハンガリー社会の一体性を大きく損ないました。
財政も破綻状態にありました。王室の金庫は空で、兵士への給料の支払いも滞るほどでした。ベオグラードが包囲された際、ラヨシュ2世は救援軍を送ろうとしましたが、資金も兵士も集まらず、指をくわえて要塞の陥落を見ていることしかできませんでした。このような絶望的な状況の中、ラヨシュ2世は外部からの支援に望みを託します。彼は神聖ローマ皇帝カール5世の妹マリアと結婚し、自らの姉アンナをカール5世の弟フェルディナントに嫁がせるという二重の婚姻政策を通じて、ハプスブルク家との同盟を強化しました。これにより、オスマン帝国の侵攻に際しては、ヨーロッパ最強のハプスブルク家からの強力な軍事支援が得られると期待されていました。しかし、この期待は裏切られることになります。カール5世は、フランスのフランソワ1世とのイタリア戦争や、国内で拡大するルター派の宗教改革への対応に追われており、ハンガリーに大規模な援軍を送る余裕はなかったのです。
このように、スレイマン1世が統一された強大な帝国を率いてヨーロッパ征服の野望を着々と進めていたのに対し、ラヨシュ2世のハンガリーは、内部抗争、社会不安、財政破綻という三重苦にあえぎ、孤立無援の状態にありました。1526年、スレイマン1世がハンガリーへの全面的な侵攻を開始したとき、ハンガリー王国は、その存亡をかけた戦いに、あまりにも不利な条件で臨むことを余儀なくされたのです。モハーチの戦いは、このような両国の対照的な歴史的背景から生まれた、必然的な帰結であったと言えるでしょう。
両軍の戦力と指導者
1526年夏のモハーチの平原で対峙したオスマン帝国軍とハンガリー王国軍は、その規模、構成、装備、そして指揮系統において、著しい対照を見せていました。この戦力差は、戦いの帰趨を決定づける上で極めて重要な要因となりました。
オスマン帝国軍は、スルタン・スレイマン1世自らが総司令官として率いる、当時世界最大かつ最強の軍隊でした。その総兵力は、歴史家の間で見解が分かれるものの、おおよそ5万人から10万人程度と推定されています。この大軍は、1526年4月に帝都イスタンブールを出発し、バルカン半島を北上してハンガリー領内へと進軍しました。オスマン軍の中核を成したのは、高度な訓練を受け、最新鋭の火縄銃(マスケット銃)で武装した常備歩兵軍団であるイェニチェリでした。彼らはスルタン直属の精鋭部隊であり、その規律と戦闘能力はヨーロッパ中の軍隊にとって畏怖の対象でした。イェニチェリの兵力は約1万人から1万2千人ほどで、戦場では防御的な陣形を組み、その圧倒的な火力で敵の突撃を粉砕する役割を担いました。
イェニチェリを補佐するのが、アナトリア(小アジア)やルメリ(バルカン半島)の封土(ティマール)を保有する見返りに軍役を務める封建騎兵、シパーヒーです。彼らは主に弓や槍、サーベルで武装した軽装および重装の騎兵であり、その数は数万人に上りました。シパーヒーは、偵察、側面攻撃、追撃など、機動力を活かした多様な任務をこなし、オスマン軍の打撃力の中心を形成していました。さらに、オスマン軍は当時世界最先端の砲兵技術を誇っていました。彼らが保有する大砲の数は、小口径の野戦砲から巨大な攻城砲まで含めると、約150門から300門に達したとされています。これらの大砲は、野戦においても敵の陣形を崩し、士気を挫く上で絶大な効果を発揮しました。この強力な砲兵部隊は、戦いの序盤でハンガリー軍に深刻な損害を与えることになります。
これらの主力部隊に加えて、不正規の軽騎兵であるアキンジや、様々な補助部隊が軍に随行していました。オスマン軍の最大の強みは、これらの多様な兵科が、スレイマン1世という唯一の最高指揮官の下で、統一された戦略に基づいて有機的に連携して行動できた点にあります。スレイマン1世は、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャをはじめとする有能な将軍たちに補佐され、緻密な作戦計画と兵站管理に基づいて、この巨大な軍事機構を効率的に運用しました。彼らはベオグラード陥落以降、ハンガリーの地形や防衛体制について詳細な情報を収集しており、万全の準備を整えてこの決戦に臨んだのです。
一方、ハンガリー王国軍は、オスマン軍に比べて規模も質も大きく劣っていました。国王ラヨシュ2世の名の下に集められた兵力は、総勢で約2万5千人から2万8千人程度であったと推定されています。この軍隊は、統一された常備軍ではなく、国王直属のわずかな兵、聖職者や大貴族が私的に率いる部隊、そして様々な町から派遣された傭兵たちの寄せ集めに過ぎませんでした。マーチャーシュ1世時代の強力な常備軍「黒軍」は解体されており、国家的な動員システムは機能不全に陥っていました。
ハンガリー軍の主力は、中世以来の伝統を受け継ぐ重装騎兵でした。貴族や騎士たちで構成されるこの部隊は、個々の勇猛さや装備の豪華さでは決してオスマン軍に劣ってはいませんでしたが、その戦術は時代遅れになりつつありました。彼らは、敵陣に対して正面から猛烈な突撃を敢行し、その衝撃力で戦列を突破するという、伝統的な騎士道戦術に固執していました。しかし、この戦術は、火器で武装し、強固な陣地を築いた歩兵部隊に対しては、もはや通用しなくなっていたのです。歩兵部隊は主にドイツ人やボヘミア人、ポーランド人などの傭兵で構成されていましたが、その数も訓練度もイェニチェリには遠く及びませんでした。また、ハンガリー軍が保有する大砲の数も、約80門程度とオスマン軍の半分以下であり、火力面で圧倒的に不利でした。
さらに深刻だったのは、指揮系統の混乱です。名目上の総司令官は20歳の若き国王ラヨシュ2世でしたが、彼には大規模な軍隊を指揮した経験がありませんでした。実際の作戦指導は、勇猛果敢なことで知られるカラーチ大司教、パール・トモリに委ねられていました。トモリは、対オスマン戦線で長年の経験を持つ優れた軍人でしたが、彼は聖職者であり、世俗の貴族たちの中には彼の指揮に従うことを快く思わない者もいました。軍議では、どの戦略を採用するかを巡って激しい対立が生じました。トモリをはじめとする経験豊富な将軍たちは、オスマン軍の圧倒的な兵力を考慮し、防御に徹して援軍の到着を待つべきだと主張しました。特に、当時ハンガリー王国で最も有力な貴族の一人であったサポヤイ・ヤーノシュが率いるトランシルヴァニア軍(約1万から1万5千人)や、クロアチア総督フランコパンが率いる部隊が戦場に向かっているとの情報があり、これらの部隊と合流すれば、戦いを有利に進められる可能性がありました。
しかし、血気にはやる若い貴族たちは、敵に背を向けて待つのは臆病者のすることであり、ハンガリー騎士の栄光にかけて、直ちに決戦を挑むべきだと強く主張しました。彼らは、オスマン軍が長旅で疲弊している今こそ好機であり、奇襲的な突撃で敵を打ち破ることができると信じていました。結局、この無謀な主戦論が軍議の大勢を占め、ラヨシュ2世もこれを承認してしまいます。この決定は、ハンガリー軍の運命を決定づける致命的な誤りとなりました。
指導者の質においても、両軍の差は明らかでした。スレイマン1世は、数々の戦いを勝利に導いた経験豊富な君主であり、冷静な判断力と戦略的視野を兼ね備えていました。彼は、自軍の強みを最大限に活かし、敵の弱点を的確に突く能力に長けていました。対するラヨシュ2世は、勇敢ではあったものの、若く経験不足であり、分裂した家臣団を統率するリーダーシップを発揮することができませんでした。結果として、ハンガリー軍は、統一された戦略もなく、内部の意見対立を抱えたまま、圧倒的に優勢な敵との決戦に臨むことになったのです。この戦力と指導体制における絶望的な格差が、モハーチの戦いを一方的な悲劇へと導く直接的な原因となりました。
決戦の日:1526年8月29日
1526年8月29日、その日は朝から厚い雲が空を覆い、時折激しい雨が降りつける蒸し暑い日でした。ハンガリー南部の町モハーチから南に広がる、緩やかに起伏する広大な平原が、この歴史的な決戦の舞台となりました。ハンガリー軍は、この平原でオスマン軍を迎え撃つべく、前日のうちから布陣を完了していました。彼らの戦略は、軍議での無謀な決定に基づき、極めて攻撃的なものでした。それは、オスマン軍がまだ陣形を完全に整えきらないうちに、伝統の重装騎兵による強力な突撃を敢行し、敵の中央を突破して混乱に陥れ、一気に勝敗を決するというものでした。
ハンガリー軍は、約2キロメートルの戦線にわたって二つの主要な戦列を形成しました。第一戦列は、パール・トモリ大司教が直接指揮を執り、主に傭兵歩兵と騎兵の一部、そして大部分の砲兵で構成されていました。その両翼には、選りすぐりの重装騎兵部隊が配置され、突撃の先鋒を担うことになっていました。第二戦列は、国王ラヨシュ2世自らが率いる、国王直属の部隊、そして最も精強な貴族たちの重装騎兵から成る予備部隊でした。この布陣は、短期決戦を狙ったものであり、防御や長期戦を全く想定していない、非常にリスクの高いものでした。彼らは、サポヤイ・ヤーノシュのトランシルヴァニア軍やクロアチアからの援軍がまだ到着していないにもかかわらず、自分たちの勇猛さと騎士道精神を過信し、決戦に踏み切ったのです。
一方、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍は、同日の午後にかけて戦場に到着し始めました。彼らは、ハンガリー軍がすでに戦闘態勢を整えているのを見て、慎重に陣形を展開しました。スレイマン1世は、自軍の数的優位と火力、そして兵站の確かさを熟知しており、焦って戦いを仕掛ける必要はないと考えていました。彼は、大宰相イブラヒム・パシャが指揮するルメリ(バルカン)軍団を前衛とし、その後方に自らが直接指揮するイェニチェリ軍団と砲兵部隊を配置しました。さらにその後方には、アナトリア軍団が予備兵力として控えるという、三段構えの分厚い陣形を敷きました。スルタン自身は、イェニチェリに固く守られた中央後方の小高い丘の上に本陣を構え、戦場全体を見渡せる位置から指揮を執りました。この陣形は、敵の突撃を前衛で受け止めて消耗させ、その勢いが衰えたところを中央のイェニチェリの火力で殲滅し、最後に両翼のシパーヒー騎兵で包囲するという、オスマン軍の典型的な戦術を実行するためのものでした。
午後3時頃、雨がやや小降りになったのを機に、パール・トモリは攻撃開始の命令を下しました。ハンガリー軍の右翼を担う重装騎兵部隊が、鬨の声を上げ、大地を揺るがしながらオスマン軍の前衛であるルメリ軍団に向かって猛烈な突撃を開始しました。この突撃は凄まじい破壊力を持ち、初めのうちは大きな成功を収めたように見えました。不意を突かれたルメリ軍団の兵士たちは混乱に陥り、その戦列の一部は突破されました。ハンガリー騎士たちは、敵兵を次々となぎ倒し、一時は大宰相イブラヒム・パシャの陣営にまで迫る勢いでした。この最初の成功に、ハンガリー軍全体が勝利を確信し、歓声が上がりました。
しかし、これはスレイマン1世が周到に仕組んだ罠でした。彼は、前衛部隊にあえて後退を命じ、突進してくるハンガリー騎兵を自軍の陣地の奥深くへと誘い込んだのです。勢いに乗って深追いしたハンガリー騎兵たちがたどり着いた先には、スレイマン1世が待ち構えていた「死の罠」が口を開けていました。そこには、鎖で互いに結びつけられた数百門の大砲と、数千丁のマスケット銃を構えたイェニチェリ軍団が、半円形の陣を敷いて待ち構えていたのです。
ハンガリー騎兵が射程内に入った瞬間、スレイマン1世の合図とともに、オスマン軍の全ての大砲とマスケット銃が一斉に火を噴きました。轟音とともに放たれた鉄の弾丸と鉛玉の嵐は、密集して突撃してきたハンガリー騎兵の隊列に壊滅的な打撃を与えました。豪華な鎧も屈強な軍馬も、この圧倒的な火力の前には何の役にも立ちませんでした。騎士たちは人馬もろとも吹き飛ばされ、一瞬にして血の海に沈みました。先頭の部隊が崩れると、後続の部隊は前進することも後退することもできなくなり、オスマン軍の格好の的となりました。この一斉射撃によって、ハンガリー軍の誇る重装騎兵の精鋭たちは、わずかな時間のうちにそのほとんどが失われました。
右翼の突撃が壊滅したのを見て、ハンガリー軍の左翼と中央も攻撃を開始しましたが、時すでに遅しでした。オスマン軍は態勢を立て直し、数的優位を活かして反撃に転じました。両翼に配置されていたシパーヒー騎兵が、混乱に陥ったハンガリー軍の側面と背後を突くために大きく迂回行動を開始しました。中央では、イェニチェリ軍団が前進し、残存するハンガリー軍の歩兵部隊をその火力で圧倒していきました。
国王ラヨシュ2世は、第二戦列の予備部隊を率いて必死に戦いましたが、戦況を覆すことは不可能でした。四方からオスマン軍に包囲され、ハンガリー軍は完全に崩壊しました。組織的な抵抗は終わりを告げ、兵士たちは生き残るために散り散りになって逃げ始めました。戦いは、もはや戦闘ではなく、一方的な殺戮の様相を呈しました。
この大混乱の中、国王ラヨシュ2世も戦場からの脱出を図りました。しかし、彼は逃走の途中、雨で増水していたチェレ川のぬかるみにはまり、重い鎧のために起き上がることができず、溺死してしまいました。国王の死は、ハンガリー王国の悲劇を象徴する出来事となりました。総司令官であったパール・トモリをはじめ、ハンガリーの主要な大貴族、高位聖職者のほとんどがこの戦いで命を落としました。
戦いが終わった時、戦場にはおびただしい数のハンガリー兵の死体が転がっていました。オスマン軍の損害が比較的軽微であったのに対し、ハンガリー軍は国王を含む指導者層のほとんどと、約1万5千人から2万人の兵士を失うという壊滅的な敗北を喫しました。戦いは、開始からわずか2時間足らずで決着がつきました。モハーチの戦いは、ハンガリー王国にとって、単なる軍事的な敗北ではなく、国家そのものの屋台骨を根こそぎ打ち砕かれる、未曾有の大惨事となったのです。スレイマン1世は、戦いの翌日、戦場に積み上げられたハンガリー兵の首の山を検分し、自らの勝利を宣言しました。しかし、彼は若き国王ラヨシュ2世の死を悼んだとも伝えられています。この日の悲劇は、ハンガリーの歴史に決して消えることのない深い傷跡を残しました。
戦いの余波とハンガリーの分割
モハーチの戦いにおける壊滅的な敗北は、ハンガリー王国に即時かつ長期にわたる深刻な影響を及ぼしました。この戦いは、中世以来続いた独立国家としてのハンガリー王国の歴史に事実上の終止符を打ち、その後数世紀にわたる分裂と外国支配の時代の幕開けを告げるものでした。
戦いの直接的な結果として、ハンガリーは指導者層を根こそぎ失いました。国王ラヨシュ2世だけでなく、7人の司教、28人の大貴族、そして数多くの下級貴族が戦死しました。これにより、国家の中枢に巨大な権力の真空が生まれ、国内は政治的な大混乱に陥りました。国王が後継者を残さずに死去したため、王位継承問題が即座に浮上し、国内の分裂をさらに深刻化させました。
この権力の空白を突いて、二人の有力者が王位を主張し始めました。一人は、ハンガリーで最も裕福で広大な領地を持つ大貴族、サポヤイ・ヤーノシュです。彼はトランシルヴァニアの総督であり、モハーチの戦いには自らの軍隊を率いて向かっていましたが、戦場に到着するのが遅れ、結果的に無傷でした。サポヤイは、外国人の王を戴くことを嫌う国内の貴族層の支持を集め、1526年11月にセーケシュフェヘールヴァールでハンガリー国王「ヤーノシュ1世」として戴冠しました。彼は、オスマン帝国の脅威に対抗するためには、オスマン帝国と手を結ぶしかないと考え、スレイマン1世の宗主権を認める道を選びました。
もう一人の王位継承者は、ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントでした。彼は、戦死したラヨシュ2世の姉アンナの夫であり、1515年に結ばれたハプスブルク家とヤギェウォ家の間の婚姻協定に基づき、正当な王位継承権を主張しました。フェルディナントは、神聖ローマ皇帝カール5世の弟であり、ハプスブルク家の強大な力を背景に、西ハンガリーの貴族たちの支持を得て、1526年12月にポジョニ(現在のブラチスラヴァ)で対立王として即位しました。
こうして、ハンガリーは二人の王を戴く内戦状態に突入しました。サポヤイ・ヤーノシュはオスマン帝国の支援を受け、フェルディナントはハプスブルク家の支援を受けるという、外国勢力を巻き込んだ代理戦争の様相を呈しました。この内戦は国をさらに疲弊させ、オスマン帝国のさらなる介入を招く結果となりました。
一方、モハーチで勝利を収めたスレイマン1世は、抵抗を受けることなくハンガリー平原を進軍し、9月には首都ブダを占領、略奪しました。しかし、この時点ではスレイマン1世はハンガリーを直接統治するつもりはなく、冬の到来を前に軍をバルカン半島へ引き揚げました。彼の当初の目的は、ハンガリーを弱体化させ、オスマン帝国に従属する緩衝国とすることにあったからです。彼は、自らの封臣となることを誓ったサポヤイ・ヤーノシュをハンガリー王として認め、彼を通じてハンガリーを間接的に支配しようとしました。
しかし、フェルディナントがサポヤイを攻撃し、ハンガリーの大部分を支配下に置くと、スレイマン1世は再び介入を決意します。1529年、スレイマン1世は再び大軍を率いてハンガリーに侵攻し、ブダを奪還してサポヤイに返還しました。そして、その勢いのまま、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンへと進軍し、第一次ウィーン包囲を行いました。この包囲は、悪天候と兵站の問題により失敗に終わりましたが、オスマン帝国の脅威がヨーロッパの心臓部にまで達したことを示し、キリスト教世界に計り知れない衝撃を与えました。
その後も、ハンガリーを巡るハプスブルク家とオスマン帝国の争いは続きました。1540年にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、スレイマン1世は戦略を変更します。サポヤイの幼い息子ヤーノシュ・ジグモンドの後見人になるという名目で、1541年に三度目のハンガリー遠征を行い、首都ブダとその周辺の中央部をオスマン帝国の直轄州(パシャリク)として併合しました。
この結果、かつてのハンガリー王国は、三つの部分に分割されるという悲劇的な運命をたどることになりました。
王領ハンガリー: 西部および北部の細長い帯状の地域で、ハプスブルク家のフェルディナントとその子孫が支配しました。首都はポジョニに置かれ、事実上ハプスブルク帝国の一部となりました。この地域は、オスマン帝国に対するキリスト教世界の最前線の防衛線としての役割を担うことになります。
オスマン帝国領ハンガリー: ハンガリー平原の中央部と南部を含む最も肥沃な地域で、オスマン帝国の直接統治下に置かれました。行政の中心はブダに置かれたパシャ(総督)が担い、イスラム法に基づく統治が行われました。この地域では、約150年間にわたりオスマン帝国の支配が続くことになります。
東ハンガリー王国(後のトランシルヴァニア公国): 東部のトランシルヴァニア地方で、サポヤイ・ヤーノシュの息子ヤーノシュ・ジグモンドが、オスマン帝国の宗主権の下で統治する半独立の公国となりました。この公国は、オスマン帝国とハプスブルク帝国の間で巧みな外交を展開し、ハンガリーの文化や宗教の自由をある程度維持する避難所の役割を果たしました。
このハンガリーの三国分割は、その後約1世紀半にわたって固定化され、中央ヨーロッパの政治地図を恒久的に変えてしまいました。モハーチの戦いは、ハンガリーという一つの独立国家を崩壊させ、二つの巨大帝国、すなわちハプスブルク帝国とオスマン帝国が直接国境を接する長い紛争の時代をもたらしたのです。この戦いがもたらした政治的・社会的な断絶は、ハンガリー国民の歴史的記憶に深く刻まれ、国家の悲劇として今日まで語り継がれています。
長期的影響と歴史的意義
モハーチの戦いがもたらした影響は、ハンガリーの三国分割という直接的な政治的結果にとどまらず、中央ヨーロッパの人口動態、経済、社会、文化、そして宗教のあり方にまで及ぶ、長期的かつ広範なものでした。この戦いは、16世紀ヨーロッパ史における画期的な出来事であり、その歴史的意義は多岐にわたります。
第一に、人口動態と社会構造への影響は甚大でした。約150年間にわたるオスマン帝国とハプスブルク帝国の絶え間ない戦争は、かつてのハンガリー王国の領土を主戦場としました。特に、オスマン帝国の直轄領となったハンガリー中央部は、度重なる戦闘、略奪、そしてオスマン帝国による徴税や奴隷狩りによって徹底的に荒廃しました。多くの村や町が廃墟と化し、人口は激減しました。この地域のハンガリー人(マジャル人)住民は、殺害されるか、奴隷として連れ去られるか、あるいはハプスブルク家が支配する王領ハンガリーやトランシルヴァニア公国へ避難することを余儀なくされました。その結果、ハンガリー平原の広大な地域が過疎化し、かつて繁栄していた農業地帯は荒れ果てた土地へと変わりました。17世紀末にハプスブルク家がオスマン帝国からハンガリーを奪還した後、この人口の空白を埋めるために、ドイツ人、セルビア人、スロバキア人、ルーマニア人など、様々な民族の入植が奨励されました。この結果、中世には比較的均質であったハンガリーの民族構成は、極めて多民族的なものへと変貌しました。この複雑な民族構成は、後の19世紀におけるナショナリズムの時代に、深刻な民族問題を引き起こす遠因となります。
第二に、経済的な影響も深刻でした。オスマン帝国の支配下に入った地域では、ティマール制と呼ばれるオスマン帝国特有の封建制度が導入されました。土地はスルタンの所有物とされ、シパーヒーと呼ばれる騎士たちに軍役奉仕の見返りとして徴税権が与えられました。この制度は、ハンガリーの伝統的な土地所有制度を根底から覆すものでした。また、重い税負担と不安定な社会情勢は、農業生産や商業活動を著しく停滞させました。かつてヨーロッパ有数の牛やワインの輸出国であったハンガリーの経済は、長期にわたって衰退しました。一方、ハプスブルク家支配下の王領ハンガリーは、ウィーンを防衛するための軍事緩衝地帯として位置づけられ、その経済はハプスブルク帝国の軍事・財政政策に強く従属させられることになりました。
第三に、宗教的な影響も看過できません。モハーチの戦いは、カトリック教会にとっても大打撃でした。国王ラヨシュ2世と共に、多数の高位聖職者が戦死し、教会の権威と組織は大きく揺らぎました。このカトリック教会の弱体化と、オスマン帝国による支配という政治的混乱は、皮肉にも、当時ドイツで始まっていたプロテスタント宗教改革がハンガリーで広まるための土壌を提供しました。オスマン帝国は、キリスト教徒に対しては人頭税(ジズヤ)を課す一方で、キリスト教内部の宗派対立には比較的寛容であり、カトリック教会の権力が及ばないオスマン支配地域や、宗教の自由を認めたトランシルヴァニア公国では、ルター派やカルヴァン派の教えが急速に広まりました。特にカルヴァン派は「マジャル人の宗教」と呼ばれるほど多くのハンガリー人に受け入れられました。一方、ハプスブルク家支配下の王領ハンガリーでは、カトリックの擁護者であるハプスブルク家によって対抗宗教改革が強力に推進されました。この結果、ハンガリーはカトリック、プロテスタント(カルヴァン派、ルター派)、そして一部には正教会も存在する、複雑な宗教分布を持つ国となり、この宗教的多様性が後の文化やアイデンティティ形成に大きな影響を与えました。
第四に、モハーチの戦いは、ヨーロッパの勢力均衡に決定的な変化をもたらしました。この戦いによってヤギェウォ朝が断絶し、ハンガリーとボヘミアの王位がハプスブルク家のフェルディナントにもたらされた結果、ハプスブルク家は中央ヨーロッパに広大な領土を持つ巨大な複合国家、すなわち後のオーストリア(=ハプスブルク)帝国を形成する基礎を築きました。これにより、ハプスブルク家は、西のフランス、東のオスマン帝国という二つの強大な敵と対峙する、ヨーロッパ政治の中心的なプレイヤーとしての地位を不動のものとしました。モハーチ以降、中央ヨーロッパの歴史は、ウィーンを拠点とするハプスブルク帝国と、イスタンブールを拠点とするオスマン帝国との間の、約150年にも及ぶ長い対立と抗争の時代へと突入します。この二大帝国の角逐は、ハンガリーを主戦場として繰り広げられ、地域の歴史を大きく左右しました。
最後に、この戦いはハンガリー人の国民的アイデンティティと歴史認識に、消えることのない深い刻印を残しました。モハーチの戦いは、単なる軍事的敗北以上のもの、すなわち、中世の栄光ある独立王国の終焉と、それに続く長い受難の時代の始まりを象徴する「国家的なトラウマ」として記憶されるようになりました。国王の死、指導者層の全滅、そして国土の分割という悲劇は、ハンガリーの文学、音楽、芸術において繰り返し描かれるテーマとなりました。「モハーチ以来、我々の喜びは失われた」といった言葉に象徴されるように、この敗北はハンガリー人の間に一種の運命論的な悲観主義や、大国に翻弄される小国の悲哀という歴史観を植え付けました。しかし同時に、この苦難の時代は、外国の支配に抵抗し、ハンガリーの言語、文化、そして国家の記憶を守り抜こうとする強い国民意識を育む土壌ともなりました。19世紀の独立運動や、その後の歴史の節目において、モハーチの記憶は常に呼び覚まされ、国民を団結させるための重要なシンボルとして機能し続けたのです。
モハーチの戦いは、16世紀のハンガリー王国を崩壊させ、中央ヨーロッパの政治・民族・宗教地図を根底から塗り替えた、極めて重要な歴史的転換点でした。その影響は一過性のものではなく、数世紀にわたってこの地域の発展の軌道を決定づけました。オスマン帝国とハプスブルク帝国という二大帝国の狭間で、ハンガリーは分裂と苦難の道を歩むことを余儀なくされましたが、その経験はまた、複雑で強靭な国民的アイデンティティを形成する上で決定的な役割を果たしたのです。