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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

ウィーン包囲《第1次》とは わかりやすい世界史用語2331

著者名: ピアソラ
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ウィーン包囲《第1次》とは

1529年の第1次ウィーン包囲は、16世紀ヨーロッパのキリスト教世界とオスマン帝国の力関係を象徴する出来事でした。この包囲戦を理解するためには、その数十年前から続くヨーロッパとオスマン帝国の複雑な政治的、軍事的、そして宗教的な関係性を紐解く必要があります。オスマン帝国は14世紀半ばからバルカン半島への進出を開始し、1453年のコンスタンティノープル陥落によってビザンツ帝国を滅亡させ、ヨーロッパにおける確固たる地位を築きました。 この勝利は、オスマン帝国にとってヨーロッパへのさらなる拡大の足がかりとなり、キリスト教諸国にとっては深刻な脅威の始まりを意味しました。
16世紀初頭、オスマン帝国はスレイマン1世(在位1520-1566年)の治世下で最盛期を迎えます。 スレイマン1世は「壮麗帝」または「立法帝」として知られ、その野心はヨーロッパ中心部へと向けられていました。 彼の治世は、オスマン帝国の領土が最大に達した時代であり、その軍事力はヨーロッパ諸国を圧倒していました。 一方、ヨーロッパは宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリックとプロテスタントの対立が激化していました。 さらに、フランスのヴァロワ家と神聖ローマ帝国のハプスブルク家の間の対立も根深く、キリスト教世界はオスマン帝国の脅威に対して一枚岩で対抗できる状況にはありませんでした。 このようなヨーロッパ内部の分裂が、オスマン帝国の進出を容易にした側面は否定できません。



ウィーン包囲に至る直接的な引き金となったのは、ハンガリー王国の継承問題を巡る対立です。1526年8月29日、モハーチの戦いでハンガリー王国軍はスレイマン1世率いるオスマン帝国軍に壊滅的な敗北を喫しました。 この戦いで若きハンガリー王ラヨシュ2世が戦死し、王位継承者が不在となる事態に陥ります。 この結果、ハンガリーは政治的混乱に陥り、国内の貴族たちは二人の王を擁立しました。一人はハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナント1世であり、彼はラヨシュ2世の姉アンナと結婚していたことから王位継承権を主張しました。 もう一人はトランシルヴァニアの有力貴族であるサポヤイ・ヤーノシュでした。
当初、フェルディナント1世はハンガリー西部で優勢を保ち、1527年には首都ブダを占領しました。 しかし、劣勢に立たされたサポヤイ・ヤーノシュは、オスマン帝国のスレイマン1世に助けを求め、その臣下となることを受け入れます。 これにより、ハンガリー王国の継承問題は、ハプスブルク家とオスマン帝国という二大勢力の代理戦争の様相を呈することになりました。 スレイマン1世にとって、サポヤイを支援することは、ハプスブルク家の勢力を削ぎ、中央ヨーロッパにおけるオスマン帝国の影響力を拡大するための絶好の機会でした。
1529年、スレイマン1世はサポヤイを支援し、フェルディナント1世の支配下にあるハンガリー領を奪還するため、大規模な軍事遠征を開始します。 この遠征の最終目標が、ハプスブルク家の本拠地であり、神聖ローマ帝国の首都でもあるウィーンの攻略でした。 ウィーンを陥落させることは、単に軍事的な勝利を意味するだけでなく、キリスト教世界に対するオスマン帝国の優位性を象徴的に示すものでした。 このように、第1次ウィーン包囲は、モハーチの戦いを契機とするハンガリー王国の内乱と、それに介入したオスマン帝国とハプスブルク家の対立が直接的な原因となって引き起こされたのです。

オスマン帝国の遠征準備と進軍

1529年の春、スレイマン1世はブルガリアに大軍を集結させました。 その目的は、ハンガリー全土の支配権を確立し、フェルディナント1世と神聖ローマ帝国の脅威を排除することでした。 オスマン軍の兵力については、歴史家によって見解が異なりますが、おおよそ12万人から30万人以上と推定されています。 この大軍には、精鋭の騎馬部隊であるシパーヒーや、皇帝直属の歩兵部隊であるイェニチェリに加え、モルダヴィアからの派遣部隊や、サポヤイ・ヤーノシュ軍に属していたセルビア人兵士も含まれていました。 スレイマン1世は自ら最高司令官として軍を率い、4月にはギリシャ人奴隷出身の大宰相イブラヒム・パシャを、スルタンの名において命令を下す権限を持つ「セラスケル」に任命しました。
1529年5月10日、スレイマン1世は遠征を開始しましたが、その道のりは当初から困難を極めました。 この年の春は、南東ヨーロッパ特有の雨が特に激しく、ブルガリアでは洪水が発生し、進軍路の一部はほとんど通行不可能な状態でした。 ぬかるんだ道では、攻城戦に不可欠な大型の大砲を運搬していた牛が動けなくなり、多くの重火器を放棄せざるを得ませんでした。 また、多くのラクダもこの過酷な行軍の犠牲となりました。 このため、オスマン軍がベオグラードに到着するまでに2ヶ月を要しました。 兵士たちは長期間にわたる雨の中の行軍で疲弊し、多くが体調を崩していました。
このような困難にもかかわらず、オスマン軍の進撃は迅速でした。 9月8日にはブダがオスマン軍に降伏し、サポヤイ・ヤーノシュが再びハンガリー王として即位しました。 その後、オスマン軍はエステルゴム、タタ、コマールノ、ジェールといった要衝を次々と攻略し、フェルディナント1世が過去2年間に獲得した領土のほとんどを奪い返しました。 ブダでは大規模な虐殺が行われたとの記録もあります。 オスマン軍は陸路だけでなく、ドナウ川を利用して船団も進軍させました。
しかし、ウィーンに近づくにつれて、オスマン軍の兵站線は限界に達しつつありました。長距離の行軍と悪天候により、食料や弾薬の補給は滞りがちでした。 特に、攻城戦の要となる大型大砲を道半ばで放棄せざるを得なかったことは、ウィーン攻略において致命的なハンディキャップとなりました。 9月下旬にウィーンに到着したオスマン軍は、その数こそ圧倒的でしたが、長旅による疲労と装備の不備という大きな問題を抱えていたのです。 一部の歴史家は、スレイマン1世の当初の主目的はハンガリー全土の再支配であり、季節が遅くなってからのウィーン攻撃は、機会主義的な判断であった可能性を指摘しています。 いずれにせよ、オスマン帝国は、その国力を結集した大軍をもって、ヨーロッパの中心へと迫っていきました。

ウィーンの防衛体制

オスマン帝国の大軍が迫る中、ウィーンは必死の防衛準備を進めていました。ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナント1世は、オスマン軍の進撃が明らかになると、ボヘミアへ避難しました。 多くのウィーン市民や市議会関係者も街を脱出しました。 しかし、神聖ローマ帝国を守るため、一部の指導者たちはウィーンに留まり、防衛の指揮を執ることを決意しました。
防衛の総指揮官に任命されたのは、ニクラス・グラーフ・ザルムという70歳の歴戦の勇将でした。 ザルムは、1476年のムルテンの戦いを皮切りに、フランドル、イタリアなどヨーロッパ各地の戦場で輝かしい戦歴を重ねてきた人物です。 1525年のパヴィアの戦いではフランス王フランソワ1世の捕縛に関与し、1526年にはチロルでの農民反乱を鎮圧するなど、その軍事的才能は広く知られていました。 1529年のウィーン包囲戦では、その豊富な経験と冷静な判断力で、絶望的な状況下にある防衛軍を巧みに指揮しました。 彼を補佐したのは、ヴィルヘルム・フォン・ロッゲンドルフと、軽騎兵部隊を率いたヨハン・カッツィアナーでした。
ウィーンの防衛兵力は、オスマン軍に比べて著しく劣っていました。包囲が始まった時点での兵力は、約1万7000人から2万1000人程度であったとされています。 この中には、地元の農民や市民からなる民兵のほか、神聖ローマ皇帝カール5世によって派遣されたドイツ人傭兵(ランツクネヒト)の槍兵や、スペイン人の熟練した火縄銃兵(アルクブス兵)などが含まれていました。 特に、カール5世の妹でハンガリー王妃マリアが派遣した700人から800人のスペイン火縄銃兵は、その高い射撃能力で防衛戦において重要な役割を果たしました。
オスマン軍の進軍が遅れたことで得られた貴重な時間を利用して、ザルムはウィーンの防御施設を強化しました。 13世紀半ばに建設された中世の城壁は老朽化していましたが、可能な限り修復されました。 城壁の内側には土塁や木の柵が築かれ、防御を二重にしました。 4つあった城門のうち3つは封鎖され、残る1つだけが騎兵の出撃用として使われました。 さらに、城壁の外にあった建物はすべて破壊され、大砲の射線を確保するための空き地が作られました。 これは、敵に遮蔽物を与えないための焦土作戦の一環でした。
防衛軍の司令部は、シュテファン大聖堂に置かれました。 この大聖堂は、ザルムが非公式の司令部として使用し、ここから市内の防衛を統括したとされています。 圧倒的な兵力差にもかかわらず、ザルム伯爵の卓越したリーダーシップと、寄せ集めながらも士気の高い防衛兵、そして入念な防御準備が、ウィーンが奇跡的な防衛を成し遂げるための礎となったのです。ザルムは、老朽化した防御施設と限られた兵力で、ヨーロッパ史上最大級の軍隊を迎え撃つという困難な任務に臨みました。

包囲戦の経過

1529年9月27日、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍はウィーンに到着し、都市の包囲を開始しました。 オスマン軍の先遣隊であるアキンジ(軽騎兵)やシパーヒーは9月23日に到着しており、オーストリアの重騎兵部隊がこれを迎撃しようとしましたが、オスマン騎兵に撃退されました。
オスマン軍はウィーンを完全に包囲し、降伏を勧告する使者を送りましたが、防衛司令官ニクラス・グラーフ・ザルムはこれを黙殺しました。 攻城戦が始まると、オスマン軍はウィーンの城壁を破壊するために、坑道掘削(マイニング)作戦を多用しました。これは、城壁の下までトンネルを掘り、火薬を仕掛けて爆破するという戦術でした。 しかし、ウィーンの防衛軍はこれに巧みに対抗しました。彼らは城壁の内側から逆坑道を掘り、オスマン軍のトンネルを発見して爆破したり、坑道内で白兵戦を繰り広げたりしました。
包囲中、ウィーンの守備隊は城外へ出撃(ソーティ)を繰り返し、オスマン軍の坑道掘削作業を妨害しました。 ある出撃では、大宰相イブラヒム・パシャを捕虜にする寸前まで迫る場面もありました。 10月6日には、8000人の兵士がオスマン軍の坑道掘削部隊を攻撃するために派遣されました。この攻撃で多くのトンネルを破壊することに成功しましたが、狭い空間での戦闘が撤退を困難にし、守備隊側も大きな損害を被りました。
オスマン軍の主力兵器である大砲は、前述の通り、その多くを進軍途中で放棄せざるを得なかったため、ウィーンの城壁に対して十分な破壊力を発揮できませんでした。 残された約300門の大砲は比較的小型で、中世の城壁に深刻な損傷を与えるには至りませんでした。 そのため、オスマン軍は坑道掘削による城壁の破壊に一層注力せざるを得なくなったのです。
オスマン軍は数度にわたり、精鋭部隊イェニチェリによる総攻撃を仕掛けましたが、ウィーン守備隊はこれをことごとく撃退しました。 特に、スペイン人火縄銃兵の正確な射撃と、ドイツ人傭兵の長いパイク(槍)が、密集して突撃してくるオスマン兵に対して絶大な効果を発揮しました。
しかし、包囲が長引くにつれて、両軍ともに困難な状況に陥りました。オスマン軍は食料や物資の不足に悩み始め、季節外れの悪天候が兵士たちの士気をさらに低下させました。 10月11日には再び激しい雨が降り、オスマン軍の陣営はぬかるみと化しました。 一方のウィーン市内も、食料は不足し、市民と兵士は疲弊していました。
追いつめられたスレイマン1世は、最後の大規模な総攻撃を仕掛けることを決断します。 これは「オール・オア・ナッシング」の賭けでした。 10月14日、兵士たちに多額の報奨金を約束した上で、最後の総攻撃が開始されました。 オスマン兵は猛然と城壁に殺到しましたが、守備隊の火縄銃と長槍による頑強な抵抗の前に、またしても撃退されてしまいました。 この最後の攻撃の失敗が、包囲戦の趨勢を決定づけました。

オスマン軍の撤退とその理由

1529年10月14日の最後の大規模な総攻撃が失敗に終わったことで、スレイマン1世はウィーン攻略の断念を余儀なくされました。 翌10月15日、スルタンは軍評議会を招集し、包囲を解いてコンスタンティノープルへ撤退することを正式に決定しました。 この決断の背景には、複数の深刻な要因が絡み合っていました。
第一に、兵站の限界です。オスマン軍は10万人を超える大軍でしたが、長距離の遠征と悪天候により、食料や弾薬の補給が極度に困難になっていました。 特に攻城戦に不可欠な重砲を道中で放棄せざるを得なかったことは、ウィーンの堅固な城壁を前にして致命的な弱点となりました。 兵士たちは飢えと寒さに苦しみ、士気は著しく低下していました。
第二に、季節の到来です。10月も半ばを過ぎ、中央ヨーロッパには冬の気配が迫っていました。 実際に、撤退が始まると異例の早い降雪に見舞われ、オスマン軍の状況はさらに悪化しました。 冬季の作戦継続は、兵士や軍馬の凍死、さらなる食糧難を招く危険性が高く、現実的な選択肢ではありませんでした。
第三に、ウィーン守備隊の予想を上回る頑強な抵抗です。ニクラス・グラーフ・ザルムに率いられた守備隊は、数で圧倒的に劣りながらも、巧みな戦術と不屈の精神でオスマン軍の度重なる攻撃を跳ね返しました。 特に、坑道戦への効果的な対抗策や、火縄銃と長槍を組み合わせた防御戦術は、オスマン軍に多大な損害を与えました。
第四に、オスマン軍内部の問題です。長引く包囲戦と度重なる攻撃の失敗は、精鋭であるはずのイェニチェリの間にも不満と厭戦気分を蔓延させました。 最後の総攻撃の際には、特別報酬が約束されたにもかかわらず、兵士たちの戦意は低かったと伝えられています。
これらの要因が複合的に作用し、スレイマン1世は撤退を決断しました。撤退は10月15日の夜から始まりましたが、その道のりは悲惨を極めました。 降り始めた雪と雨で道はぬかるみ、疲弊した兵士や軍馬、ラクダの多くが倒れていきました。 オーストリアの騎兵部隊による追撃も行われ、多くの落伍者が捕虜となりました。 オスマン軍は撤退の道すがら、報復として周辺の村々で略奪や虐殺、放火を行いました。 この焦土作戦は、フェルディナント1世の反撃能力を削ぐ目的もあったと考えられています。
オスマン軍がコンスタンティノープルに帰り着いたのは、12月16日のことでした。 この遠征でオスマン軍が被った損害は甚大で、戦闘による死傷者だけでも1万5000人から2万人以上にのぼり、撤退中に病気や飢え、寒さで命を落とした者も数えきれないほどいたと推定されています。 一部の歴史家は、スレイマン1世の最後の攻撃は、本気でウィーンを陥落させるためではなく、可能な限りの損害を与えて後の攻撃のために弱体化させる目的だったのではないかと推測しています。これは、1526年にブダで行った戦術と同様のものでした。 しかし、結果としてウィーンを陥落させられなかったという事実は、スレイマン1世にとって最初の、そして最も決定的な失策の一つとなりました。

包囲戦の歴史的意義と影響

1529年の第1次ウィーン包囲の失敗は、ヨーロッパ史における重大な転換点と見なされています。 この出来事は、オスマン帝国のヨーロッパ中央部への膨張が限界に達したことを象徴するものでした。 14世紀以来、破竹の勢いでバルカン半島を席巻し、コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国の西進は、ウィーンの城壁の前で初めて決定的な形で阻止されたのです。 これ以降、オスマン帝国の軍事的な関心は、アジアや地中海方面へと向けられるようになります。
この包囲戦は、ハプスブルク家とオスマン帝国の間に約150年間にわたる長い軍事的緊張関係の始まりを告げるものでした。 両帝国はハンガリーを主戦場として、断続的に戦争を繰り返すことになります。 ハンガリーは、王領ハンガリー(ハプスブルク家領)、オスマン帝国領ハンガリー、そしてオスマン帝国の属国であるトランシルヴァニア公国の3つに分割され、この状態は17世紀末まで続くことになりました。
ウィーン防衛の成功は、ハプスブルク家の威信を大いに高めました。 オスマン帝国の脅威を食い止めたことで、ハプスブルク家はキリスト教世界の守護者としての評価を確立し、神聖ローマ帝国内における権力基盤を強化しました。 一方で、この包囲戦は、神聖ローマ皇帝カール5世と教皇クレメンス7世の関係改善をもたらしました。 オスマン帝国という共通の脅威を前に、両者は和解し、1530年2月24日には教皇がカール5世に神聖ローマ皇帝としての戴冠を行うに至りました。
また、この出来事は宗教改革にも間接的な影響を与えたと指摘されています。 ハプスブルク家がオスマン帝国との対決に軍事的・財政的資源を割かざるを得なくなったため、ドイツ国内のプロテスタント勢力への圧力が弱まり、結果的に宗教改革が生き延びる一因となったという見方です。 マルティン・ルター自身も、当初はオスマン帝国をキリスト教徒の罪に対する神の罰と見なしていましたが、ウィーン包囲を機にその見解を改め、1529年に『トルコ人との戦いについて』を著し、神の鞭であるオスマン帝国と精力的に戦うべきだと主張しました。
ウィーン市にとっては、この包囲戦は都市の防御体制を根本的に見直すきっかけとなりました。 包囲後、中世以来の古い城壁は、最新技術を取り入れた頑丈な要塞へと徹底的に改修・近代化されました。 城壁の外側には広大な空き地(グラシ)が設けられ、将来の攻撃に備えました。 この投資は、わずか3年後の1532年にスレイマン1世が再びウィーンを目指した際に効果を発揮します。この時、オスマン軍は強化されたウィーンの防御を前にして本格的な包囲戦を行うことなく撤退しました。
ウィーン防衛の英雄ニクラス・グラーフ・ザルムは、包囲戦の最終盤、10月14日のオスマン軍の最後の攻撃の際に、飛び散った石の破片によって太腿に重傷を負いました。 この傷がもとで、翌1530年5月4日に亡くなりました。 フェルディナント1世は、その功績を称え、壮麗なルネサンス様式の石棺を制作しました。この石棺は現在、ウィーンのヴォティーフ教会に展示されています。
第1次ウィーン包囲は、オスマン帝国にとっては軍事的な敗北であったものの、当初の目的であったハンガリーにおけるオスマン帝国の影響力強化という点では一定の成果を上げました。 ブダはオスマン帝国の属国であるサポヤイ・ヤーノシュの支配下に置かれ、ハンガリーにおけるオスマン帝国の足がかりは確固たるものとなりました。 しかし、ハプスブルク家の当主であるフェルディナント1世との直接対決を強いることができず、ハプスブルク家に対する思想的な優位性を確立することはできませんでした。 この包囲戦は、ヨーロッパにおけるオスマン帝国の軍事的限界を露呈させると同時に、その後の両帝国の長い対立の時代の幕開けを告げる象徴的な出来事でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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