軍楽隊《オスマン帝国》とは
オスマン帝国の軍楽隊、すなわちメフテルは、世界で最も古い軍楽隊の一つとして知られています。 その起源はオスマン帝国建国の時代まで遡り、帝国の興隆から終焉とその後に至るまで、トルコの歴史と文化の中で重要な役割を果たしてきました。メフテルは単なる音楽集団ではなく、主権の象徴、軍事的な士気高揚の手段、そして帝国の威光を示す儀礼的な存在として、多岐にわたる機能を持っていました。 その独特の楽器編成と力強い響きは、敵に恐怖を与え、味方を鼓舞するだけでなく、ヨーロッパの音楽界にも大きな影響を及ぼしました。
呼称と定義
オスマン帝国の軍楽隊は、一般的に「メフテル」として知られていますが、この用語の正確な意味合いを理解することは、その本質を捉える上で不可欠です。 「メフテル」という言葉は、ペルシャ語に由来し、「より優れた」といった意味を持ちます。 元来は、宮廷や軍隊における高位の役人や従者を指す言葉でしたが、時代とともに、特に軍楽隊の楽団員を指す呼称として定着していきました。
しかし、「メフテル」という単語は、本来は楽団員一人ひとりを指す単数形です。 楽団全体を指す場合は、複数形の「メフテラン」が用いられるのがより正確です。 さらに、スルタンやワズィール(大宰相)、王子などの高官に随行する楽団は「メフテルハーネ」と呼ばれました。 これは「メフテルの家」を意味し、楽団が所属する組織や施設そのものを指す言葉でもあります。 軍事的な文脈では、「メフテル隊」を意味する「メフテル・ボルュウ」や「メフテル小隊」を意味する「メフテル・タクム」といった表現も使われました。
ヨーロッパでは、オスマン帝国の軍楽隊はしばしば「イェニチェリ音楽」と呼ばれました。 これは、メフテルがオスマン帝国の常備歩兵軍団であるイェニチェリと密接な関係にあり、その中核をなしていたことに由来します。 イェニチェリは、帝国の精鋭部隊として戦場で勇猛果敢に戦いましたが、その進軍や戦闘においてメフテルの音楽は不可欠な存在でした。 そのため、ヨーロッパの人々にとって、メフテルの音楽はイェニチェリの強さと恐怖の象徴として認識されていたのです。
メフテルは、単に屋外で演奏するために管楽器と打楽器のみで構成されたユニークなアンサンブルというだけではありません。 歴史的に、オスマン帝国の軍事作戦において、兵士の行進のリズムを整え、士気を高め、敵を威嚇するという重要な役割を担っていました。 平時においても、時刻の告知、国家行事での演奏、娯楽の提供など、様々な儀礼的機能を果たしていました。
このように、オスマン帝国の軍楽隊を指す言葉は複数存在し、それぞれが異なるニュアンスを持っています。
起源と歴史的変遷
オスマン帝国の軍楽隊、メフテルの起源は、中央アジアのテュルク民族の伝統に深く根差しています。 軍事行動において音楽を用いる習慣は、オスマン帝国以前のテュルク系国家にも見られ、特にセルジューク朝からその直接的な影響を受けたとされています。 記録によれば、世界最古の軍楽隊の歴史は、7世紀のオルホン碑文にまで遡ることができるとされています。
メフテルの制度がオスマン帝国で確立されたのは、帝国建国の父であるオスマン1世の時代に遡ると考えられています。 伝説によれば、1289年あるいは1299年に、セルジューク朝のスルタン、カイクバード3世が、新たに建国されたオスマン君侯国を祝し、主権の象徴として太鼓(タブル)と軍旗をオスマン1世に下賜したのが始まりとされています。 この出来事以降、毎日午後の礼拝後に、オスマン君主のためにメフテルが演奏することが慣習となりました。 当初、オスマン1世は、かつての宗主であるセルジューク朝のスルタンへの敬意を示すため、演奏中は起立して聴いていましたが、この習慣は後のメフメト2世によって廃止されました。
メフテルの組織が本格的に整備され、制度化されたのは、14世紀のムラト1世の治世です。 この時期に、帝国の常備歩兵軍団であるイェニチェリが創設されたことと軌を一にしており、メフテルはイェニチェリ軍団の付属機関として位置づけられました。 メフテルの楽団員は、イェニチェリと同様にデヴシルメ制度(キリスト教徒の子弟を徴集し、イスラム教に改宗させて軍人や官僚に育成する制度)によって徴集された者が多く、カプクル軍(スルタン直属の奴隷軍人)の一員と見なされていました。
15世紀、コンスタンティノープルを征服したメフメト2世の時代になると、帝国の発展とともにメフテルの組織も抜本的に改革・拡充されました。 メフメト2世は、宮殿内に「ネヴベトハーネ」と呼ばれる演奏所を建設し、1日に3回定時に演奏を行わせるなど、メフテルの儀礼的な役割を強化しました。 また、彼の制定した法典では、金曜日を除く毎晩3回、そして朝の礼拝のために宮殿の住民を起こすために午前中にも演奏することが定められていました。
16世紀、スレイマン1世の治世下でメフテルは再編され、ワズィール(大宰相)やその他の高官(パシャ)も自身のメフテル隊を持つことが許されるようになりました。 この時代のメフテルは、公式なものと職人的なものの2種類に大別されていました。 16世紀には、ネフィリ・ベラム・アー、エミリ・ハジ、ハサン・ジャン、クリミア・ハン国のガーズィ・ギレイ2世といった作曲家によって、現存する最古のメフテル行進曲が作られました。 また、高名な音楽家アブデュルカディル・メラギも、バヤジット1世の時代にオスマン帝国を訪れ、いくつかのメフテル曲を作曲したと伝えられています。
17世紀に入ると、オスマン帝国の音楽文化は大きな発展を遂げ、それに伴いメフテルの音楽や演奏も洗練されていきました。 この時代の旅行家エヴリヤ・チェレビは、その旅行記の中で、イスタンブールだけで1,000人以上のメフテル楽団員がいたと記しており、宮殿に所属する300人の高給な楽団員の存在や、城塞都市であるイェディクレに40人編成のメフテル隊が常駐し、1日に3回の演奏会を行っていた様子を伝えています。 このことからも、メフテルが帝都の日常生活に深く浸透していたことがうかがえます。
しかし、1826年、近代化改革を推し進めるスルタン・マフムト2世によって、改革の障害となっていたイェニチェリ軍団が解体されると、彼らと密接な関係にあったメフテルも廃止の憂き目に遭います。 これは「ヴァカ・イ・ハイリエ(幸運な出来事)」として知られる事件で、伝統的なメフテルハーネは解散させられ、その音楽や楽器、楽譜の多くが失われました。 そして、その代わりにジュゼッペ・ドニゼッティ(ガエターノ・ドニゼッティの兄)が招聘され、西洋式の軍楽隊「ムズィカ・イ・ヒュマーユーン(帝国軍楽隊)」が設立されたのです。
メフテルの伝統が復活するのは、20世紀初頭のことです。 オスマン帝国の衰退とともに高まったトルコ・ナショナリズムと、オスマン帝国の遺産への関心の高まりを背景に、1911年、イスタンブール軍事博物館の館長によって、その復興が試みられました。 1914年には、エンヴェル・パシャらの主導で「メフテルハーネ・イ・ハーカニ(帝国メフテルハーネ)」として再建されます。 その後、1935年に一度廃止されるものの、1952年にイスタンブール軍事博物館付属の歴史的組織として再び設立され、1953年にはコンスタンティノープル陥落500周年を記念して、トルコ軍の公式な楽隊として完全に復活を遂げました。
組織と階級
オスマン帝国の軍楽隊、メフテルハーネの組織は、厳格な階層構造を持っていました。 その規模や編成は、所属する組織や指揮官の階級によって異なり、帝国の権力構造を音楽的に反映するものでした。
メフテル隊の基本的な編成単位は「カット」と呼ばれます。 これは「層」や「階級」を意味し、楽団に含まれる各楽器の数を指します。 例えば、「9カット」のメフテル隊とは、ズルナ(チャルメラに似たリード楽器)、ボル(トランペット)、ナッカーレ(小太鼓)、ダヴル(大太鼓)、ズィル(シンバル)といった主要な楽器がそれぞれ9つずつで構成されていることを意味します。 最終的な形態では、これらに加えて角笛やティンパニも含まれ、各楽器が9つずつ揃えられた編成は「ドクズ・カトル・メフテルハーネ(9層のメフテルハーネ)」と呼ばれました。
メフテル隊の規模は、その隊が仕える人物の地位と密接に関連していました。 最も大規模で壮麗なメフテル隊を保有していたのは、もちろんスルタン自身でした。 スルタン直属のメフテル隊は「メフテルハーネ・イ・ヒュマーユーン」と呼ばれ、9カット、あるいはそれ以上の規模を誇り、楽団員の数も150人から200人に及んだとされています。 彼らは宮殿コミュニティの一員であり、トプカプ宮殿に隣接するスルタンアフメット地区の大きな兵舎で生活していました。
スルタンに次ぐ地位にあったワズィール(大宰相)やその他の高官(パシャ)、ベイレルベイ(州総督)なども、自身のメフテル隊を持つことを許されていました。 その規模は、彼らに与えられた「トゥー」(馬やヤクの尾の毛で飾られた竿状の徽章で、階級を示す)の数に応じて定められていました。 例えば、ワズィールは9つのトゥーを持つことが許され、それに伴い9カットのメフテル隊を編成することができました。
メフテル隊は、軍団全体を統括する指揮官「メフテルバシュ」または「チョルバジュバシュ」によって率いられていました。 各楽器のセクションは「ボルュクバシュ」と呼ばれる指揮官によってまとめられていました。 例えば、ズルナ奏者のセクション、ナッカーレ奏者のセクション、シンバル奏者のセクションといった具合です。 大太鼓奏者のリーダーは「バシュメフテル・アー」と呼ばれました。
メフテルの楽団員は、主にデヴシルメ制度によって徴集されたキリスト教徒の子弟や、改宗したアルメニア人、ギリシャ人などで構成されていました。 これは、トルコ系のイェニチェリ兵士が音楽活動にあまり関心を示さなかったためとされています。 彼らはカプクル軍の一員として、国家から給与を受け取るプロの音楽家でした。
メフテル隊は、イェニチェリ軍団の補助部隊として位置づけられていましたが、その活動は駐屯地での生活に限定されませんでした。 各軍団は、騎馬の楽団か徒歩の楽団のいずれかを所有していました。 また、要塞や軍司令部、さらには各都市や町、村に至るまで、その規模に応じたメフテル隊が組織されていました。 これらのメフテル隊は、軍事的な役割だけでなく、祝祭や結婚式などで演奏し、地域社会に貢献していました。
演奏時の隊形は、三日月形に並ぶのが特徴でした。 これはオスマン帝国の象徴である三日月と星を模したもので、巨大なティンパニであるキョスの奏者が、三日月の中の星のように、やや前方に位置しました。 行進の際には、指揮官を先頭に、白と赤の軍旗、そしてイェニチェリを象徴する9本のトゥーが続き、その後ろに各楽器の奏者が隊列を組んで進みました。
このように、メフテルの組織は、スルタンを頂点とする帝国の階層構造を反映した、厳格かつ体系的なものでした。その規模と編成は地位の証であり、帝国の隅々にまでその威光を知らしめる役割を担っていたのです。
楽器編成
オスマン帝国の軍楽隊、メフテルの音楽を特徴づける最も重要な要素の一つは、その独特で強力な楽器編成です。 屋外での演奏を前提として設計されたメフテルのアンサンブルは、大音量を生み出す管楽器と打楽器のみで構成されており、その組み合わせが、聴く者に強烈な印象を与える、鋭く、しばしば甲高いサウンドを生み出しました。
メフテルの楽器は、大きく分けて管楽器と打楽器の二つのカテゴリーに分類されます。
管楽器
管楽器は、主にメロディーラインとハーモニーを担当し、メフテル音楽の鋭く突き刺すような音色の中心をなしていました。
ズルナ: ダブルリードを持つ木管楽器で、チャルメラやオーボエに似ています。 非常に大きく、鋭い音を出すことができ、メフテル音楽の主旋律を奏でる中心的な楽器でした。 ズルナには、低音域を担当する「カバ・ズルナ」と、高音域を担当する小型の「ジュラ・ズルナ」の2種類がありました。 ズルナはその色彩豊かで生き生きとした音色から、技巧的な演奏にも適しており、ズルナゼンバシュ・イブラヒム・アーのような名手も輩出しました。
ボル: 真鍮製のトランペットで、角笛の一種です。 主に信号やファンファーレを奏で、音楽に華やかさと力強さを加えました。 西洋から輸入されたナチュラル・トランペットやクラリオンも後に使用されるようになりました。
クッレナイ: 先端が湾曲した角笛の一種です。
メフテル・デュデュウ: メフテルで使用された笛の一種です。
クラリネット類: 後期には、クラリネットに似た木管楽器も編成に加えられることがありました。
打楽器
打楽器セクションは、メフテル音楽の強力なリズムと、敵を威圧する轟音を生み出す源泉でした。
キョス: 巨大なティンパニ(ケトルドラム)で、メフテルの打楽器の中でも最も印象的な楽器の一つです。 その大きさから、通常はラクダや象の背に乗せて運ばれ、演奏されました。 スルタン直属の軍楽隊や、将軍が指揮する軍楽隊など、特に大規模な編成で用いられ、その雷鳴のような轟音は戦場で敵の士気をくじくのに絶大な効果を発揮しました。 セリム1世がチャルディラーンの戦いで、敵を威嚇するために初めて導入したと伝えられています。
ダヴル: 大型の両面太鼓で、バスドラムに相当します。 肩から吊るし、太い撥(ばち)と細い鞭(むち)のような棒で叩くことで、複雑で力強いリズムを生み出します。
ナッカーレ: 一対の小さなケトルドラムで、馬の背に乗せて演奏されることもありました。 ダヴルよりも高い音で、細かいリズムパターンを刻む役割を担います。
タブルバズ: ほとんどの楽隊で使用されていた中型のティンパニです。
ズィル: シンバルのことです。 鋭く金属的な響きで、音楽に華やかさとアクセントを加えます。オスマン帝国で生まれ、後にアメリカに渡ってジャズやロックの世界で有名になったジルジャン社は、元々メフテルのためのシンバルを製造していました。
デフ: フレームドラム(タンバリンのような枠太鼓)です。
チェヴギャーン: 馬の尾毛や色とりどりの房、多数の鈴が取り付けられた長い杖状の楽器です。 地面に打ち付けてリズムを刻むことで、「ジャラジャラ」という独特の音を出します。 イギリスでは「ジングル・ジョニー」として知られるようになりました。
これらの楽器に加えて、メフテル隊には男性の合唱隊が含まれることもありました。 彼らは行進中に「アッラーは偉大なり、アッラーは慈悲深し」といった宗教的な句や、勝利を祈願する力強い歌を斉唱し、音楽の精神的な側面を担いました。
メフテルの楽器編成は、各楽器の奏者が複数名で構成される「カット」という単位によって、その規模が決定されました。 7人から9人の奏者からなる各セクションが一体となって演奏することで、その音響効果は増幅され、戦場や儀式において圧倒的な存在感を放ったのです。
音楽的特徴と役割
オスマン帝国の軍楽隊、メフテルの音楽は、その独特な音響と構造によって、戦場と平時の両方で多様な役割を果たしました。 その音楽は単なる伴奏ではなく、帝国の権威、軍事力、そして精神性を体現する、極めて重要な文化的表現でした。
音楽的特徴
メフテル音楽の最も際立った特徴は、ズルナの甲高く鋭い旋律と、キョスやダヴルといった大型打楽器が叩き出す力強く複雑なリズムの組み合わせです。 これに、ボル(トランペット)のファンファーレやズィル(シンバル)の金属的な響きが加わることで、壮大で、時には耳をつんざくような音響空間が生み出されます。 17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビは、その音の大きさについて「金星が踊り始め、天が鳴り響くほどの喧騒を立てる」「その騒音は人々の脳を口から押し出すようだ」と表現しており、その圧倒的な音圧を物語っています。
メフテルのレパートリーは、軍事行進曲である「メフテル・マルシュ」が中心ですが、それだけではありませんでした。 ペシュレヴ(器楽による前奏曲)、セマーイー(10拍子の古典形式)、ナクシュ、ジェンギハルビ(戦闘曲)、ムラッバ、カレンデリといった、オスマン古典音楽の形式に基づいた楽曲も演奏されました。 これらの楽曲は、宮廷の他のアンサンブルでも演奏されるような、洗練された器楽曲でした。 また、メッカへの巡礼(ハッジ)に向かう巡礼者のために宗教的な歌を演奏したり、結婚式で民謡を演奏したりするなど、そのレパートリーは多岐にわたっていました。
メフテル音楽のもう一つの興味深い特徴は、即興演奏の要素です。 オスマン音楽は、西洋クラシック音楽のように楽譜に厳密に基づいたものではなく、演奏者中心で即興的な側面が強い音楽文化でした。 この点において、メフテルとジャズ、特にニューオーリンズのビッグバンドとの間に類似性を見出す研究者もいます。 どちらも即興演奏の伝統に根ざしており、メフテル隊がアメリカのビッグバンドの先駆けであった可能性も指摘されています。
戦時における役割
戦場におけるメフテルの役割は、極めて重要でした。
士気の高揚: メフテルの力強い音楽は、味方であるオスマン軍兵士、特にイェニチェリの戦闘精神を鼓舞し、勇気を与えるためのものでした。 音楽は攻撃の合図となり、戦闘が続いている間、兵士たちを勇気づけるために演奏され続けました。 音楽が止むことは、戦闘の終結を意味しました。
敵への威嚇: 巨大なキョスが発する雷鳴のような轟音と、ズルナの甲高い響きは、敵兵に恐怖と混乱をもたらし、その士気をくじくための心理的な武器でした。 この音響による威嚇は、オスマン軍の重要な戦術の一つでした。
部隊の統率と行進: メフテルの音楽は、広大な戦場で部隊の動きを統制し、行進のリズムを整えるための信号としても機能しました。
野営地の警備: 夜間、野営地でメフテルが演奏されることもありました。これは、野営地の警備兵が眠りに落ちるのを防ぐためであったとされています。
平時における役割
平時においても、メフテルは帝国の社会生活において不可欠な存在でした。
主権の象徴: メフテルの演奏は、スルタンの主権と国家の存続を示す象徴でした。 毎日定時に宮殿や城塞で演奏される「ネヴベト」と呼ばれる儀式は、スルタンの権威を民衆に知らしめるものでした。
儀礼音楽: スルタンの即位式、剣の授与式、外国使節の歓迎式典、金曜礼拝への行幸、祝祭、勝利の祝賀会など、あらゆる国家の公式行事で演奏されました。
時刻の告知と日常生活: 夜明け前の礼拝の時間を知らせたり、夜に塔の上から演奏を行ったりと、人々の日常生活のリズムを刻む役割も担っていました。
娯楽の提供: 結婚式や祭りなどの民間の祝祭でも演奏を行い、人々に娯楽を提供しました。
メフテルの行進の仕方も特徴的で、ゆっくりとした足取りで「寛大なる神よ、慈悲深き神よ」という言葉のリズムに合わせて進み、3歩ごとに立ち止まって右、そして左へと向きを変えました。 この歩き方は、オスマン帝国の威厳と慎重さを表現しているとされています。
このように、メフテルの音楽は、単なる芸術表現にとどまらず、軍事的、政治的、社会的な機能を複合的に担う、オスマン帝国社会の縮図ともいえる存在だったのです。
ヨーロッパ音楽への影響
オスマン帝国の軍楽隊、メフテルの力強い響きは、国境を越えてヨーロッパの音楽界に永続的な影響を及ぼしました。 16世紀以降、オスマン帝国がヨーロッパへ勢力を拡大する過程で、その独特な軍楽はヨーロッパの人々の耳に届くことになります。 当初は異国情緒あふれる、あるいは「野蛮な」音楽として面白がられることもありましたが、やがてその音楽的効果と斬新な楽器編成は、ヨーロッパの軍楽隊、さらにはクラシック音楽の作曲家たちに多大なインスピレーションを与えることになりました。
軍楽隊への影響
ヨーロッパの軍楽隊がメフテルの影響を受ける直接的なきっかけとなったのは、18世紀初頭のことです。 1720年、オスマン帝国のスルタン、アフメト3世は、ポーランド王アウグスト2世に友好の証として完全なメフテル隊を贈りました。 これを機に、ポーランド軍はトルコ式の軍楽隊スタイルを採用します。 これに追随するように、ロシアのアンナ女帝も1725年にトルコからメフテル隊を導入し、1739年のベオグラード条約調印式で演奏させています。 その後、オーストリアやフランス、プロイセンなども次々とトルコ式の軍楽スタイルを取り入れていきました。
ヨーロッパの軍楽隊が特に注目したのは、メフテルの打楽器セクションでした。 それまでヨーロッパの軍楽隊ではあまり重要視されていなかったバスドラム(大太鼓)、シンバル、トライアングルといった打楽器が、メフテルの影響によって編成に不可欠な要素として組み込まれていったのです。 バスドラムとシンバルを同時に打ち鳴らすという、メフテル特有の強烈な音響効果は、ヨーロッパの軍楽隊のサウンドを根本から変え、より力強く、華やかなものにしました。 このように、近代的なマーチングバンドの概念そのものが、16世紀のオスマン帝国から借用され始めたと言えます。
クラシック音楽への影響:「アッラ・トゥルカ」様式
メフテルの音楽は、軍楽隊の枠を超え、ヨーロッパのクラシック音楽の作曲家たちにも大きな刺激を与えました。 18世紀のヨーロッパでは、異国趣味、特にトルコへの関心が高まる「テュルクリ」と呼ばれる流行が起こりました。 この流行の中で、作曲家たちはメフテル音楽の響きやリズムを模倣した「アッラ・トゥルカ」、すなわち「トルコ風」と呼ばれる様式を自身の作品に取り入れ始めました。
この「アッラ・トゥルカ」様式の特徴は、単純で明快なメロディー、反復されるリズムパターン、そしてバスドラム、シンバル、トライアングル、ピッコロといった「トルコ楽器」を多用することにあります。
著名な作曲家たちによる「アッラ・トゥルカ」の作例としては、以下のようなものが挙げられます。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト: 彼の『ピアノソナタ第11番』の第3楽章「トルコ行進曲」は、この様式の最も有名な例です。 また、オペラ『後宮からの誘拐』では、序曲やイェニチェリの合唱などで、メフテルの音響を効果的に用いています。 モーツァルト自身、このオペラを管楽器のために編曲する際の難しさについて書き残しています。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン: 彼の『交響曲第9番』の終楽章では、テノールの独唱部分で打楽器と管楽器を駆使した「トルコ風」の行進曲が挿入されており、歓喜の主題を高らかに盛り上げます。 ベートーヴェンは作曲の構想段階で、この楽章に「トルコ音楽」を含めることをメモしていました。 また、『アテネの廃墟』の序曲と「トルコ行進曲」も有名です。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン: 彼の『軍隊交響曲』では、第2楽章と終楽章で「トルコ楽器」が効果的に使用され、華々しい雰囲気を醸し出しています。
ジョルジュ・ビゼー: オペラ『アルルの女』の組曲にも、「アッラ・トゥルカ」の影響が見られます。
これらの作曲家たちは、メフテル音楽のリズムや旋律そのものを直接引用したわけではありません。 むしろ、彼らが模倣したのは、バスドラムとシンバルが打ち鳴らす強烈なアクセントや、ズルナを思わせる甲高いピッコロの音色といった、メフテル音楽が持つ独特の「音響」でした。
当初は異国趣味の表現として用いられた「トルコ楽器」ですが、やがてその音響的な魅力から、特定の異国情緒を喚起することなく、オーケストラの恒久的な楽器編成の一部として定着していきました。 シンバルがオーケストラの常設楽器となったのも、この流れの中でのことです。 このように、メフテル音楽は、西洋クラシック音楽のオーケストレーションに、打楽器という新たな色彩と力強さをもたらすという、長期的な貢献を果たしたのです。
衰退と復興
オスマン帝国の軍事力と威光の象徴であったメフテルは、帝国の近代化の波の中で一度その歴史に幕を閉じ、そして20世紀に新たな形で復活を遂げるという劇的な変遷を経験しました。
衰退:イェニチェリ軍団の解体と西洋化
19世紀初頭、オスマン帝国はナポレオン戦争後のヨーロッパ列強の圧力に直面し、軍事および行政の抜本的な近代化改革を迫られていました。 スルタン・マフムト2世(在位1808-1839)は、この改革を強力に推し進めましたが、その最大の障害となったのが、かつては帝国の精鋭部隊でありながら、この時代には特権にあぐらをかき、改革にことごとく抵抗する保守的な既得権益集団と化していたイェニチェリ軍団でした。
1826年、マフムト2世は周到な準備の末、イェニチェリ軍団の反乱を誘発させ、これを徹底的に鎮圧・解体しました。 この事件は、オスマン帝国の歴史において「ヴァカ・イ・ハイリエ(幸運な出来事)」と呼ばれています。 イェニチェリと組織的に不可分であったメフテルは、この時に運命を共にし、廃止されることになりました。 伝統的なメフテルハーネは解散させられ、その楽器や楽譜、そして何世紀にもわたって受け継がれてきた音楽の伝統の多くが失われてしまいました。 イェニチェリに対する憎悪は凄まじく、彼らに関するあらゆる伝統や文化、記憶までもが破壊の対象となったのです。
メフテルの廃止後、マフムト2世は西洋の慣行に倣った新しい軍楽隊の設立を望みました。 そのために、イタリアの音楽家ジュゼッペ・ドニゼッティ(オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティの兄)をイスタンブールに招聘し、西洋式の軍楽隊「ムズィカ・イ・ヒュマーユーン(帝国軍楽隊)」を創設させました。 この新しい軍楽隊は、西洋式の楽器編成と西洋風の行進曲を採用し、メフテルの伝統は公式の場から完全に姿を消しました。 皮肉なことに、この新しい軍楽隊が演奏した西洋風の行進曲の多くは、元をたどればメフテルの影響を受けて生まれたものでした。 こうして、東から西へ渡った音楽的要素が、西からの輸入品として再び東へ戻ってくるという現象が起きたのです。
復興:ナショナリズムと文化遺産
メフテルの音楽が再び脚光を浴びたのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのことです。 オスマン帝国の衰退が深刻化する中で、トルコ人の間では自らの民族的アイデンティティと歴史的遺産への関心が高まり、トルコ・ナショナリズムの思潮が高まっていきました。 このような時代背景の中で、かつてのオスマン帝国の栄光を象徴するメフテル音楽を再評価し、復興させようという動きが生まれます。
復興の直接的なきっかけとなったのは、1911年、イスタンブール軍事博物館の館長であったアフメト・ムフタル・パシャの努力でした。 彼は、失われたメフテルの伝統を復活させるため、残された資料や楽器を収集し、演奏の再現を試みました。 そして1914年、青年トルコ人革命を主導したエンヴェル・パシャの支援のもと、「メフテルハーネ・イ・ハーカニ(帝国メフテルハーネ)」として公式に再建されるに至ります。 この復興されたメフテルは、第一次世界大戦中、兵士の士気を鼓舞するために演奏を行いました。
しかし、オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の建国後、メフテルの運命は再び暗転します。 共和国政府は、世俗主義と西洋化を国是とし、オスマン時代の文化遺産、特に宗教的・帝国的な色彩の濃いものを否定する傾向にありました。 その結果、メフテルは1935年に再び廃止されてしまいます。
メフテルの伝統が恒久的に復活するのは、第二次世界大戦後のことです。 1952年、トルコがNATOに加盟し、国際社会における役割が増す中で、自国のユニークな文化遺産を内外に示すことの重要性が再認識されるようになりました。 同年、イスタンブール軍事博物館の付属組織として、歴史的なメフテル隊が再び設立されます。 そして翌1953年、コンスタンティノープル陥落500周年という記念すべき年に、トルコ軍の公式な儀礼部隊として完全に復活を遂げました。
この現代に蘇ったメフテル隊は、イスタンブール軍事博物館に所属し、「メフテル・ボルュウ(メフテル部隊)」と呼ばれています。 彼らは、歴史的な衣装を身にまとい、伝統的な楽器を用いて、博物館の庭で毎日午後に演奏を行っており、イスタンブールを訪れる観光客にとって大きな魅力の一つとなっています。 また、トルコ国内外の公式な式典や文化イベントにも派遣され、かつての帝国の壮麗な音楽を現代に伝えています。
このように、メフテルは廃止と復興という波乱の歴史を乗り越えてきました。 それは、オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の建国という激動の時代における、トルコ人のアイデンティティ探求の軌跡を映し出す鏡のような存在であると言えるでしょう。
現代におけるメフテル
一度は歴史の表舞台から姿を消したメフテルですが、20世紀半ばの復活以降、トルコの文化と歴史を象徴する存在として、新たな役割を担っています。 現代のメフテルは、主に儀礼的な機能と文化的な表象としての機能を持っており、その活動は多岐にわたります。
イスタンブール軍事博物館のメフテル隊
現代におけるメフテルの中心的な存在は、イスタンブールにある軍事博物館に所属するメフテル部隊です。 この部隊は、トルコ軍の現役兵士によって構成されており、歴史的な衣装と伝統的な楽器を用いて、オスマン帝国時代のメフテルを忠実に再現しています。
彼らの最も重要な活動は、軍事博物館の中庭で毎日行われる定例演奏会です。 この演奏会は、イスタンブールを訪れる多くの観光客にとって必見のイベントとなっており、ズルナの鋭い音色、ダヴルやキョスの力強い響き、そして三日月形の隊形で行進する楽団員の姿は、訪れる人々にオスマン帝国の栄華を追体験させます。 演奏される曲目には、「ジェッディン・デデン(祖先も祖父も)」のような有名な行進曲や、古典的なペシュレヴなどが含まれています。
このメフテル部隊は、単なる観光アトラクションにとどまりません。 トルコ共和国の公式な儀礼部隊として、国家的な祝典や記念式典、外国の要人を歓迎する式典などでも演奏を行います。 例えば、毎年4月23日の「国民主権とこどもの日」や、8月30日の「戦勝記念日」、10月29日の「共和国記念日」などの祝日には、彼らの勇壮な演奏が祝賀ムードを盛り上げます。
地方自治体や民間団体によるメフテル
イスタンブール軍事博物館の公式なメフテル隊の他に、トルコ国内の多くの地方自治体や民間団体も、独自のメフテル隊を組織しています。 特に、コンヤやブルサといった、かつてのオスマン帝国の首都であった都市では、歴史的な伝統を継承する一環としてメフテル隊が活発に活動しています。
これらのメフテル隊は、地域の祭りや結婚式、企業のイベント、スポーツの試合などで演奏を披露し、地域社会の文化活動に貢献しています。 彼らの存在は、メフテル音楽が単なる過去の遺産ではなく、現代のトルコ社会に生き続ける文化であることを示しています。
文化的象徴としての役割
現代のメフテルは、トルコのナショナル・アイデンティティと歴史的プライドの象徴として、極めて重要な役割を担っています。 その音楽と姿は、オスマン帝国という偉大な過去と現代のトルコを結びつける、力強いシンボルです。 トルコの映画やテレビドラマ、特にオスマン帝国時代を舞台にした歴史ドラマでは、メフテルの音楽が頻繁に使用され、視聴者に時代の雰囲気と帝国の威厳を伝えています。
また、スポーツの国際試合などでは、トルコのサポーターがメフテルの行進曲を歌って自国のチームを応援する光景がよく見られます。 このように、メフテル音楽は、トルコ国民の連帯感を高め、愛国心を鼓舞するサウンドトラックとしての役割も果たしているのです。
復活したメフテルは、かつてのように戦場で敵を威嚇するための軍事的な機能は持っていません。 しかし、その音楽が持つ力強さと荘厳さは、現代においても人々の心を捉え、トルコの豊かな歴史と文化の深さを世界に示し続けています。 メフテルは、歴史の記憶を呼び覚まし、文化的なアイデンティティを形成し、そして未来へと伝統を継承していくための、生きた遺産なのです。
オスマン帝国の軍楽隊、メフテルは、単なる軍事音楽の枠を超えた、多層的で奥深い文化的現象です。 その起源は中央アジアのテュルク民族の伝統にまで遡り、オスマン帝国の建国とともに制度化され、帝国の興隆と歩みを共にしました。
メフテルは、ズルナ、ボル、キョス、ダヴル、ズィルといった独特の楽器編成から生み出される圧倒的な音響によって、戦場では味方の士気を鼓舞し、敵を心理的に圧倒する強力な武器として機能しました。 その力強いリズムと鋭い旋律は、イェニチェリ軍団の進撃と一体となり、オスマン帝国の軍事力の象徴となりました。
平時においては、スルタンの主権を内外に示す儀礼的な役割を担いました。 毎日の定時演奏「ネヴベト」は帝国の存続を告げ、即位式や祝祭、外国使節の歓迎といった国家の重要な場面で、その威光を音楽的に表現しました。 メフテルの組織はスルタンを頂点とする帝国の階層構造を反映しており、その規模は所有者の地位を示すステータスシンボルでもありました。
17世紀から18世紀にかけて、メフテルの音楽はヨーロッパにも伝わり、「アッラ・トゥルカ」様式としてクラシック音楽の世界に大きな影響を与えました。 モーツァルトやベートーヴェンといった大作曲家たちが、その異国情緒あふれる響きにインスピレーションを受け、バスドラムやシンバルといった「トルコ楽器」が西洋のオーケストラに定着するきっかけを作りました。 これは、メフテルが世界音楽史に残した最も重要な遺産の一つです。
19世紀、帝国の近代化改革の中で、メフテルは母体であったイェニチェリ軍団と共に廃止されるという悲劇に見舞われました。
メフテルの歴史は、権力、戦争、文化、アイデンティティが複雑に絡み合った、オスマン帝国そのものの歴史の縮図です。 一つの軍楽隊が、これほどまでに国家の盛衰と深く結びつき、国境を越えて広範な文化的影響を及ぼした例は、世界史的にも稀有であると言えるでしょう。 メフテルは、単なる過去の遺物ではなく、その力強い響きを通じて、今なお多くの人々の心にオスマン帝国の記憶を語り継いでいるのです。