世界周航とは
フェルディナンド=マゼランが指揮し、フアン・セバスティアン・エルカーノが完遂した世界周航は、人類の歴史における画期的な出来事です。1519年から1522年にかけて行われたこのスペインの遠征は、単に地球を一周した最初の航海というだけではありません。それは、当時の地理学、貿易、そして世界に対するヨーロッパ人の認識を根本から覆した、壮大な探検と発見の物語でした。この航海の目的は、ポルトガルが支配する東回り航路を避け、西回りで香料諸島(現在のインドネシア、モルッカ諸島)への新たな貿易ルートを開拓することでした。 当時、香料は金と同じくらいの価値があり、その貿易は莫大な富を生み出す可能性を秘めていました。 したがって、この遠征は経済的な動機が非常に強かったのです。
しかし、この航海が歴史に刻まれた理由は、その経済的な成功だけではありません。マゼランの船団は、それまで誰も越えたことのなかった広大な太平洋を横断し、地球が実際に球体であることを実証しました。 この航海は、大航海時代の頂点を象徴する出来事であり、その後のヨーロッパによる世界規模の探検と植民地化の時代の幕開けを告げるものでした。 航海の過程で、マゼラン海峡の発見、フィリピン諸島へのヨーロッパ人初の到達など、数々の地理的な発見がなされました。
この偉業は、想像を絶する困難と犠牲の上に成り立っています。航海の途中でマゼラン自身が命を落とし、当初5隻あった船と約270人の乗組員のうち、スペインに生還できたのはわずか1隻のビクトリア号と18人の生存者だけでした。 彼らは、飢餓、壊血病、激しい嵐、そして内部での反乱や先住民との衝突といった、数々の試練に直面しました。 この航海の記録は、主に同行したイタリア人学者アントニオ・ピガフェッタの詳細な日誌によって後世に伝えられています。 彼の記録は、当時の航海の過酷さ、未知の土地の文化や人々との出会い、そして極限状況における人間の行動を克明に描き出しており、歴史的に非常に貴重な資料となっています。
マゼランとエルカーノの航海が後世に与えた影響は計り知れません。地球の真の大きさが明らかになり、それまでの世界地図は根本的に描き直されることになりました。 また、この航海によって国際日付変更線の存在が経験的に発見されるなど、科学的な知見ももたらされました。 経済的には、太平洋を横断する新たな貿易ルートの可能性が示され、スペインのその後の世界戦略に大きな影響を与えました。 この航海は、世界が一つにつながっていることを証明し、グローバリゼーションの第一歩を刻んだ出来事として、その歴史的意義は色褪せることがありません。
航海の背景:香料、条約、そして野心
15世紀後半から16世紀にかけてのヨーロッパは、大航海時代の真っ只中にありました。 クリストファー・コロンブスが1492年にアメリカ大陸に到達して以来、スペインとポルトガルは新たな土地と富を求めて競い合っていました。 この時代の探検を突き動かした主な動機は、キリスト教の布教という宗教的情熱と、香料貿易がもたらす莫大な利益への渇望でした。 特にクローブ、ナツメグ、メースといった香料は、ヨーロッパでは金に匹敵するほどの価値があり、その産地であるモルッカ諸島(香料諸島)は、まさに「宝の島」と見なされていました。
当時、香料諸島への航路は、アフリカ大陸を南下して喜望峰を回り、インド洋を横断する東回りルートが主流でした。このルートは、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓して以来、ポルトガルが独占していました。 このポルトガルの優位を決定づけたのが、1494年にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約です。 この条約は、教皇アレクサンデル6世の仲介により、大西洋上に設定された子午線を境界線として、その東側で発見される新領土をポルトガル領、西側をスペイン領と定めたものでした。 これにより、スペインはポルトガルが支配するアフリカ周りの東回り航路を利用してアジアへ向かうことができなくなりました。
この状況を打破し、スペイン独自の香料諸島へのルートを開拓するという野心的な計画をスペイン国王に提案したのが、ポルトガル人の航海士フェルディナンド=マゼランでした。 マゼランは1480年頃、ポルトガルの小貴族の家に生まれ、若い頃から航海術に長けていました。 彼はポルトガル海軍の士官としてインドや東南アジアでの軍務経験を積み、1509年のディウの海戦にも参加しています。 1511年にはマラッカに到達しており、東回り航路で香料諸島近辺まで到達した経験がありました。 この経験を通じて、彼は香料諸島の地理や貿易に関する知識を深めました。
マゼランは、地球が球体であるという考えに基づき、西へ航海すればいずれ香料諸島に到達できると確信していました。 彼は、アメリカ大陸の南方に、大西洋と(後に太平洋と名付けられる)「南の海」を結ぶ海峡が存在すると信じ、この西回り航路の計画をポルトガル王マヌエル1世に何度も提案しました。しかし、すでに東回り航路で莫大な利益を上げていたマヌエル1世は、このリスクの高い計画に関心を示さず、マゼランの提案をことごとく却下しました。 さらに、マゼランはモロッコでの不正取引の疑いをかけられたことなどから王の信頼を失い、ポルトガルでの出世の道を閉ざされてしまいました。
ポルトガルに見切りをつけたマゼランは、1517年にスペインへ渡り、自身の計画を若きスペイン国王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)に売り込みます。 トルデシリャス条約によって東回り航路を封じられていたスペインにとって、マゼランの西回り航路計画は非常に魅力的でした。 もし成功すれば、ポルトガルの独占を打ち破り、香料貿易の巨万の富をスペインにもたらすことができるからです。カルロス1世はこの計画を承認し、マゼランに艦隊の指揮権と様々な特権を与えました。 マゼランはスペインに忠誠を誓い、セビリアで結婚して家庭を築き、遠征の準備に着手しました。 彼はスペイン艦隊の提督に任命され、サンティアゴ騎士団の司令官の称号も与えられました。 こうして、ポルトガル人でありながらスペイン王に仕えることになったマゼランの野心と、香料貿易の覇権を握ろうとするスペインの国家的な思惑が一致し、歴史的な世界周航への道が開かれたのです。
艦隊の編成と準備
スペイン国王カルロス1世の支援を取り付けたマゼランは、西回り航路による香料諸島到達という壮大な計画の実現に向けて、艦隊の編成と航海の準備に精力的に取り組みました。この遠征は「モルッカ艦隊」と名付けられ、その準備はセビリアで行われました。
船団の構成
遠征のために用意された船は、全部で5隻でした。 これらの船はいずれもキャラック船またはその一種であり、当時の探検航海で一般的に使用されていた頑丈な帆船でした。
トリニダード号: 排水量110トンの旗艦であり、マゼラン自身が指揮を執りました。
サン・アントニオ号: 排水量120トンで、艦隊の中で最も大きな船でした。当初の船長はフアン・デ・カルタヘナでした。
コンセプシオン号: 排水量90トンの船で、船長はガスパール・デ・ケサーダでした。
ビクトリア号: 排水量85トンの船で、後に史上初の世界周航を達成することになります。 当初の船長はルイス・デ・メンドーサでした。 この船は5隻の中で最も高価で、その建造費は他の4隻の平均を38%も上回っていました。
サンティアゴ号: 排水量75トンのキャラベル船で、艦隊の中で最も小型の船でした。船長はフアン・セラーノでした。
これらの船は、未知の海域での長期間にわたる過酷な航海に耐えられるよう、入念に修理・補強されました。しかし、その多くは中古の船であり、必ずしも最高の状態ではありませんでした。
乗組員の構成
艦隊には、約270人の乗組員が乗り込みました。 彼らの出身は多様で、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人、ドイツ人、ギリシャ人、フランス人など、様々な国籍の人々が含まれていました。 この多国籍な構成は、航海中に緊張と対立の一因ともなりました。
特に問題となったのは、ポルトガル人であるマゼランが、主にスペイン人で構成される艦隊の最高指揮官に任命されたことに対する反感でした。 スペイン人の船長たち、特にサン・アントニオ号の船長であり艦隊の監察長官でもあったフアン・デ・カルタヘナは、マゼランのリーダーシップに公然と異議を唱えました。 カルタヘナは、スペイン国王の側近であるフォンセカ大司教の縁者であり、その地位を背景にマゼランの権威に対抗しようとしました。 この対立は、航海の初期段階から反乱の火種をくすぶらせることになります。
乗組員の中には、後に重要な役割を果たす人物が何人か含まれていました。
フアン・セバスティアン・エルカーノ: バスク地方出身のスペイン人航海士で、当初はコンセプシオン号の航海長でした。 彼は後にサン・フリアンでの反乱に加担しますが、許されて航海を続け、マゼランの死後、ビクトリア号の指揮を執って世界周航を完遂させることになります。
アントニオ・ピガフェッタ: ヴェネツィア出身の学者で、乗組員としてではなく、自費で航海に参加した旅行者でした。 彼は詳細な日誌を記録し続け、その記録はマゼランの航海に関する最も重要な一次資料として後世に残されました。
エンリケ・デ・マラッカ: マゼランが以前のポルトガルでの軍務中にマラッカで奴隷として得た人物で、マレー語を話すことができました。 彼は通訳として航海に同行し、後にフィリピンで彼の言語が通じたことで、船団が既知の世界の東端に到達したことを示す重要な役割を果たしました。
物資の準備
2年分と想定された航海のために、膨大な量の食料と物資が船に積み込まれました。食料の中心は、長期保存が可能な堅パン(ビスケット)、塩漬けの豚肉や魚、乾燥豆、チーズ、ワイン、水などでした。 しかし、これらの食料は航海が長引くにつれて劣化し、乗組員を苦しめることになります。また、壊血病予防のために保存されたマルメロ(クインス)などもマゼランの私物として積まれていましたが、これは全乗組員に行き渡るものではありませんでした。
貿易用の品物として、鏡、櫛、ナイフ、ガラス玉、ベルといった安価な装飾品も大量に用意されました。 これらは、航海の途中で立ち寄る土地の先住民と接触し、食料や情報を得るための交換物資として使用される予定でした。
こうして、壮大な野望と潜在的な対立を内包したマゼランの艦隊は、未知の世界への扉を開くべく、セビリアの港で出航の時を待ちました。
大西洋横断と南米大陸の探検
1519年9月20日、フェルディナンド=マゼラン率いる5隻の艦隊は、約270人の乗組員を乗せ、スペイン南西の港サンルカル・デ・バラメダを出航しました。 彼らの最初の目標は、大西洋を横断し、アメリカ大陸の南端を抜けて太平洋へと至る海峡を発見することでした。
大西洋横断と反乱の兆候
出航後、艦隊はまずアフリカ沿岸を南下し、カナリア諸島に立ち寄って最後の補給を行いました。 この地でマゼランは、義理の兄弟からの密書を受け取ります。その内容は、スペイン人の船長たち、特にフアン・デ・カルタヘナが反乱を計画しているという警告でした。 さらに、ポルトガル王がマゼランを逮捕するために2つの艦隊を派遣したという情報ももたらされました。 このような不穏な情報の中、艦隊は10月3日にカナリア諸島を出発し、本格的な大西洋横断を開始しました。
航海の序盤から、指揮官であるポルトガル人のマゼランと、スペイン人の船長たちの間の緊張は高まっていました。 サン・アントニオ号の船長フアン・デ・カルタヘナは、毎晩の報告の際にマゼランを「総司令官」という正式な称号で呼ぶことを拒否するなど、公然と反抗的な態度をとりました。 この侮辱的な行為が数日続いた後、マゼランはカルタヘナを旗艦トリニダード号に呼び出し、対決の末に彼を逮捕しました。 カルタヘナは船長を解任され、別の船長の監視下に置かれることになりました。この事件は、艦隊内に潜む対立を表面化させ、後の大規模な反乱の伏線となりました。
ブラジルとラ・プラタ川
約2ヶ月の航海の末、艦隊は11月29日にブラジル沿岸に到達しました。 12月には、現在のリオデジャネイロにあたるサンタ・ルシア湾(グアナバラ湾)に到着し、約2週間滞在しました。 ここでは先住民との友好的な接触があり、新鮮な食料や水を補給することができました。
その後、艦隊は南米大陸の海岸線に沿って南下を続けました。彼らは、アジアへ抜ける伝説の海峡「エル・パソ」を発見することを期待していました。 1520年1月、艦隊は巨大な河口、ラ・プラタ川に到達します。 マゼランは当初、これが求めていた海峡かもしれないと考え、数週間をかけて調査を行いましたが、結局はただの川の河口であることが判明し、失望のうちに南下を再開しました。
サン・フリアンでの越冬とイースターの反乱
南下を続けるにつれて気候は厳しくなり、冬の到来が目前に迫っていました。1520年3月31日、マゼランは南緯49度のパタゴニア地方にあるサン・フリアン湾に艦隊を停泊させ、ここで冬を越すことを決定しました。 この決定は、先の見えない航海に疲弊し、食料の配給も減らされていた乗組員たちの不満を爆発させる引き金となりました。
4月1日、イースター(復活祭)の日に、ついに大規模な反乱が発生しました。 この反乱は、かつて逮捕されたフアン・デ・カルタヘナが首謀し、コンセプシオン号船長のガスパール・デ・ケサーダ、そしてビクトリア号船長のルイス・デ・メンドーサが中心となって実行されました。 反乱者たちは、マゼランが遠征を無謀な危険に晒していると非難し、彼のリーダーシップに異を唱えました。 彼らは夜間にコンセプシオン号とサン・アントニオ号を掌握し、艦隊5隻のうち3隻が反乱軍の手に落ちるという絶体絶命の状況に陥りました。
しかし、マゼランは迅速かつ冷徹に対応しました。彼は忠実な部下をビクトリア号に送り込み、反乱の主導者の一人であるメンドーサを殺害させ、船を奪還しました。 そして、湾の出口を旗艦トリニダード号で封鎖し、反乱船の逃亡を防ぎました。 指揮官の一人を失い、退路を断たれた反乱軍は混乱し、最終的に鎮圧されました。
反乱の首謀者に対する処罰は過酷なものでした。ケサーダは斬首され、その遺体は四つ裂きにされました。 反乱の黒幕であったカルタヘナと、彼に同調した一人の聖職者は、艦隊がサン・フリアンを出航する際に、わずかな食料と共に岸辺に置き去りにされるという、見殺しに等しい追放刑に処されました。 他の40名ほどの共謀者も死刑を宣告されましたが、マゼランは労働力の損失を避けるため、彼らを鎖につないで過酷な労働に従事させた後、最終的に恩赦を与えました。 この断固たる処置により、マゼランは艦隊内の規律を回復し、自身の指導力を改めて確立しました。
サンティアゴ号の喪失とサンタ・クルスへの移動
サン・フリアンでの厳しい冬の間、マゼランは南方の偵察を命じました。この任務に就いたのは、艦隊で最も小型で機動力のあるサンティアゴ号でした。 しかし、偵察の途中、サンティアゴ号は激しい嵐に遭遇し、サンタ・クルス川の河口で難破してしまいました。幸いにも乗組員は全員無事でしたが、艦隊は最初の船を失うことになりました。
冬が終わり、航海再開の準備が整うと、艦隊はサンティアゴ号の乗組員が発見したサンタ・クルス川へと移動し、そこでさらに数週間を過ごしました。そして1520年10月、ついに彼らは南米大陸の最南端へと向けて、再び錨を上げたのです。
マゼラン海峡の発見と太平洋への到達
1520年10月21日、サン・フリアンでの過酷な越冬と反乱を乗り越えたマゼランの艦隊は、ついに南米大陸の南端近くで、西へと続く水路の入り口を発見しました。 マゼランはこれを探し求めていた海峡であると確信し、当初「すべての聖人の海峡」と名付けました。 これが後に彼の名を冠して「マゼラン海峡」として知られることになる、大西洋と太平洋を結ぶ待望の航路でした。
海峡の探検
海峡の内部は、入り組んだフィヨルドや島々が連なる迷路のような水路であり、航行は極めて困難でした。 潮の流れは複雑で、天候も荒れがちでした。マゼランは慎重に艦隊を進め、コンセプシオン号とサン・アントニオ号の2隻を先行させて水路の調査を命じました。夜になると、南の陸地(現在のフエゴ島)に先住民が焚く無数の火が見えたことから、マゼランはその地を「ティエラ・デル・フエゴ(火の大地)」と名付けました。
探検は困難を極めましたが、先行した船は西側に開けた海の出口を発見し、海峡が大陸を貫通していることを確認しました。この吉報に艦隊は歓喜に沸きました。しかし、この喜びも束の間、新たな問題が発生します。
サン・アントニオ号の逃亡
海峡探検の最中、艦隊で最大であったサン・アントニオ号が姿を消しました。 当初、マゼランは難破したのではないかと考えて捜索を行いましたが、実際には船内で反乱が再び起きていたのです。船長代理としてマゼランの甥が指揮していましたが、以前の反乱に加担していた航海士エステバン・ゴメスらが彼を拘束し、船の針路を東に向け、スペインへと逃亡してしまったのです。 サン・アントニオ号は多くの食料を積んでいたため、その離脱は残された3隻の艦隊にとって大きな打撃となりました。 彼らはスペインに帰国後、マゼランが国王に不忠であり、反乱は正当なものであったと歪曲した報告を行い、自己の行為を正当化しました。
太平洋への到達
サン・アントニオ号の捜索を諦めたマゼランは、残ったトリニダード号、コンセプシオン号、ビクトリア号の3隻を率いて、海峡の西の出口へと進みました。1520年11月28日、約38日間にわたる困難な航海の末、艦隊はついに海峡を突破し、広大な未知の海へと漕ぎ出しました。
大西洋の荒波とは対照的に、目の前に広がる海は驚くほど穏やかで静かでした。この穏やかさに感銘を受けたマゼランは、この海を「マール・パシフィコ(平和な海)」、すなわち「太平洋」と名付けました。 こうして、ヨーロッパ人として初めて大西洋から太平洋への航路を開拓するという、マゼランの長年の夢が実現したのです。しかし、彼らの前には、想像を絶するほど広大な太平洋の横断という、新たな、そして最大の試練が待ち受けていました。
苦難の太平洋横断
1520年11月28日、マゼラン海峡を抜けて広大な海に出たマゼランと彼の船団は、新たな希望と共に西への航海を開始しました。 マゼラン自身も、当時の地理学者たちも、この「平和な海」の真の広さを全く理解していませんでした。 彼らは、アジアの香料諸島まで、わずか数日から数週間で到達できると考えていました。 しかし、この楽観的な予測は、過酷な現実によって無残にも打ち砕かれることになります。
飢餓と壊血病
太平洋横断は、彼らの予想をはるかに超える長旅となりました。艦隊は3ヶ月と20日間、実に99日もの間、陸地らしい陸地を見ることなく、ただひたすら大海原を彷徨い続けました。 航海が長引くにつれて、船に積まれていた食料は底をつき始めました。 まず堅パンが虫に食われ、粉々になり、ネズミの糞尿にまみれた悪臭を放つものになりました。水は腐り、黄色く濁ってしまいました。
やがて乗組員たちは、飢えをしのぐために、信じられないようなものを口にするようになります。帆桁を保護するために巻かれていた牛革を剥がし、海水に数日間浸して柔らかくした後、焼いて食べました。 おがくずを食べ、船に巣食うネズミを捕まえては、半ドゥカートという高値で売買して食料にしました。
深刻な食糧不足は、必然的に恐ろしい病気を引き起こしました。壊血病です。新鮮な果物や野菜の不足によるビタミンCの欠乏が原因で、乗組員たちの歯茎は腫れ上がり、歯が抜け落ち、体中に出血斑が現れ、やがて死に至りました。この太平洋横断の間に、約30人もの乗組員が壊血病や飢餓によって命を落としました。 不思議なことに、マゼラン自身は健康を維持していました。これは、彼が個人的に保存食のマルメロ(クインス)を携行しており、それを摂取していたためではないかと考えられています。
グアムへの到達と先住民との衝突
1521年3月6日、心身ともに限界に達していた船団は、ついに陸地を発見します。現在のグアム島でした。 疲れ果てた乗組員たちは上陸し、新鮮な水と食料を求めました。そこに、先住民であるチャモロ人がカヌーで近づいてきました。彼らは船に乗り込み、目についたものを手当たり次第に持ち去り始めました。その中には、ナイフや索具、さらには船の小舟まで含まれていました。
乗組員たちはこれを窃盗と見なして激怒しましたが、チャモロ人にとっては、彼らが提供した食料との交換行為、あるいは共有の文化に基づく行動だったのかもしれません。 この文化的なすれ違いは、不幸な衝突へと発展します。マゼランは、奪われた物品を取り返すために武装した部隊を率いて上陸し、チャモロ人の家々を焼き払い、数人を殺害しました。 この事件から、マゼランはこの島々を「泥棒の島(Islands of Thieves)」と名付けました。 わずかな休息と補給の後、船団はこの不穏な島を急いで離れ、さらに西へと航海を続けました。この太平洋での最初の人間との接触は、相互不信と暴力によって特徴づけられるものとなってしまいました。
フィリピン諸島への到達とエンリケの役割
グアム島を出航してから約10日後の1521年3月16日、マゼランの船団はついに新たな諸島を発見しました。これが、後にフィリピンと名付けられることになる島々でした。 これはヨーロッパ人とフィリピンとの最初の文書化された接触となりました。 船団はまずサマール島を視認し、翌日、無人島であったホモンホン島に上陸して休息を取り、新鮮な水と食料を集めました。
3月28日、リマサワ島に近づいた際、カヌーに乗った先住民と遭遇しました。 この時、歴史的に重要な出来事が起こります。マゼランの奴隷であり、通訳でもあったエンリケ・デ・マラッカが、彼らの言葉を理解し、マレー語でコミュニケーションをとることができたのです。 エンリケはマゼランが以前マラッカで購入した人物であり、彼の母語が通じたということは、船団がヨーロッパから西回りで航海を続け、ついにマレー語圏、すなわち既知の世界の東端に到達したことを意味していました。これは事実上、地球を一周したことを示唆するものであり、乗組員たちに大きな希望を与えました。マゼラン自身にとっても、西回り航路でアジアに到達するという自らの理論が証明された瞬間でした。
フィリピンでの活動とマゼランの死
1521年3月、フィリピン諸島に到達したマゼランの船団は、当初、現地の住民と比較的良好な関係を築きました。 特にセブ島の領主であったラジャ・フマボンとは同盟関係を結ぶことに成功します。 しかし、この地での活動は、最終的にマゼラン自身の命を奪う悲劇的な結末を迎えることになります。
セブ島でのキリスト教布教
リマサワ島での最初の友好的な接触の後、船団はより大きく、交易の拠点であったセブ島へと向かいました。1521年4月7日にセブに到着したマゼランは、領主のラジャ・フマボンと会い、友好関係を築きました。 マゼランは、スペインの軍事力を見せつけてフマボンを感銘させると同時に、キリスト教の教えを説きました。 彼の説得は功を奏し、4月14日、フマボンとその家族、そして多くの家臣たちが洗礼を受け、キリスト教に改宗しました。 その後数日間で、セブ島とその周辺の島々で2,200人以上の現地住民がキリスト教徒になったと記録されています。 マゼランは、改宗の証としてフマボンにサント・ニーニョ(幼きイエス)像を贈りました。これは現在でもセブで深く信仰されています。
この改宗活動は、単なる宗教的な熱意だけでなく、スペインの支配を確立するための政治的な手段でもありました。マゼランは、フマボンをこの地域の最高権力者として認め、他の首長たちにフマボンとスペイン王への服従を要求しました。
マクタン島の戦い
しかし、すべての首長がマゼランの要求に従ったわけではありませんでした。セブ島の隣にあるマクタン島の首長の一人、ラプ=ラプは、スペインへの服従とキリスト教への改宗を頑なに拒否しました。 マゼランは、同盟者であるフマボンへの忠誠を示し、またスペインの権威に逆らう者への見せしめとして、ラプ=ラプを武力で屈服させることを決意します。フマボンは自軍の兵士を提供する申し出をしましたが、マゼランはスペインの軍事力の優位性を過信し、これを断りました。
1521年4月27日の早朝、マゼランはわずか49人(資料によっては60人)の武装した部下を率いてマクタン島へ向かいました。 これに対し、ラプ=ラプは1,500人もの戦士を率いて待ち構えていました。 マゼランの作戦には、いくつかの致命的な誤算がありました。まず、マクタン島の海岸は遠浅でサンゴ礁が広がっていたため、船を岸に近づけることができず、船からの援護砲撃が届きませんでした。 また、彼はラプ=ラプ軍の戦力と戦意を著しく過小評価していました。
戦闘が始まると、スペイン兵のマスケット銃やクロスボウは、数の上で圧倒的に優勢なマクタンの戦士たちに対して効果が限定的でした。 ラプ=ラプの戦士たちは、スペイン兵の鎧で守られていない足元を狙って槍を投げるなど、巧みな戦術を用いました。 戦闘が長引くにつれてスペイン側は弾薬が尽き始め、形勢は不利になっていきました。
マゼランの最期
ラプ=ラプの戦士たちは、指揮官であるマゼランに攻撃を集中させました。 マゼランは顔に竹槍を受け、腕にも傷を負って刀を抜くことができなくなりました。 彼は部下たちに退却を命じましたが、パニックに陥った多くの兵士は見捨てて逃げ去りました。 わずかな忠実な部下と共に最後まで奮戦したマゼランでしたが、ついに脚に大きな傷を受けて倒れ込み、そこに群がったマクタンの戦士たちによって、槍や剣でとどめを刺されました。 毒矢を受けたという記録もあります。 こうして、世界周航という偉大な航海の立役者であるフェルディナンド=マゼランは、その目的地の目前で、異国の地で41年の生涯を閉じました。
マゼラン死後の混乱と航海の継続
マゼランの死は、遠征隊に大きな衝撃と混乱をもたらしました。指導者を失っただけでなく、スペインの無敵神話が崩壊したことで、昨日までの同盟者であったセブ島のフマボンとの関係も急速に悪化しました。
セブ島での虐殺事件(5月1日事件)
マゼランの死後、生存者たちは選挙を行い、ドゥアルテ・バルボサとフアン・セラーノを新たな共同指揮官に選びました。 彼らはフマボンに対し、マゼランの遺体を返還するよう求めましたが、ラプ=ラプはこれを拒否しました。フマボンは、スペイン人との同盟がもはや有利ではないと判断し、彼らを排除する計画を立てました。
1521年5月1日、フマボンはスペインの士官たちを宴会に招待しました。これは表向きは、香料諸島へ贈る宝物を用意したという口実でした。 この罠に気づかず、バルボサやセラーノを含む約30人のスペイン人が上陸し、宴会に参加しました。 宴の最中、フマボンの兵士たちが一斉に襲いかかり、ほとんどのスペイン人が虐殺されました。 岸辺で待機していた船上の乗組員たちは、捕らえられたセラーノが身代金を払って助けてくれと叫ぶのを聞きましたが、さらなる罠を恐れて彼を見捨て、出航せざるを得ませんでした。 この事件により、遠征隊は再び多くの経験豊富な士官と乗組員を失いました。
コンセプシオン号の自沈と香料諸島への道
セブ島での悲劇により、乗組員の数は約115人にまで激減しました。これは3隻の船を運用するにはあまりにも少ない人数でした。 苦渋の決断の末、彼らは艦隊の中で最も状態が悪かったコンセプシオン号を放棄し、焼き払うことを決定しました。 1521年5月2日、コンセプシオン号はボホール島沖で自沈させられました。
残されたトリニダード号とビクトリア号は、新たな指揮系統のもと、本来の目的地である香料諸島を目指して航海を続けました。 指揮権はフアン・ロペス・カルバーリョが握りましたが、彼のリーダーシップは効果的ではなく、船団は数ヶ月間、ミンダナオ島やボルネオ島(ブルネイ)の周辺を明確な目的地なく彷徨いました。 この間、彼らは食料を求めて海賊行為に手を染めることもありました。
ブルネイではスルタンの宮殿の豪華さに驚嘆しましたが、誤解から戦闘になり、捕虜を交換して急いで脱出しました。 リーダーシップの欠如と目的地の不確かさから、乗組員の士気は低下し続けました。
香料諸島への到達とエルカーノの台頭
1521年9月、カルバーリョはその無能さから指揮官を解任されました。 新たな指揮官として、トリニダード号はゴンサロ・ゴメス・デ・エスピノサが、そしてビクトリア号はフアン・セバスティアン・エルカーノが船長に選ばれました。 特にエルカーノは、かつてサン・フリアンでの反乱に加担した人物でしたが、その有能な航海術とリーダーシップが認められ、この重要な局面で指揮を任されることになったのです。
エルカーノらの指揮のもと、船団はついに正しい航路を見つけ出しました。 そして1521年11月8日、出航から2年以上を経て、彼らはついに最終目的地である香料諸島、具体的にはティドレ島に到達しました。 ティドレ島のスルタンは、ポルトガルと敵対していたため、スペイン人を歓迎し、友好関係を結びました。 乗組員たちは、持参した交易品と引き換えに、念願であったクローブを船倉が満杯になるほど大量に手に入れることができました。 長く困難な航海の目的が、ついに達成された瞬間でした。
二隻の船、二つの運命:帰還の途へ
香料諸島でクローブを満載し、遠征の主目的を果たしたトリニダード号とビクトリア号は、スペインへの帰還準備を始めました。しかし、2隻の船は全く異なる運命をたどることになります。
トリニダード号の悲劇
1521年12月、2隻の船が出航準備を整えていた矢先、旗艦であったトリニダード号で深刻な浸水が発見されました。 修理には数ヶ月を要することが判明したため、2隻は別々のルートで帰還することになりました。 エルカーノが指揮するビクトリア号は、より危険だが未知の西回り航路を続け、インド洋を横断してアフリカの喜望峰を回るルートを選択しました。 一方、エスピノサが指揮するトリニダード号は、修理を終えた後、来た道を引き返し、太平洋を東に横断してスペイン領であるパナマを目指すことにしました。
1522年4月、修理を終えたトリニダード号は50人以上の乗組員を乗せてティドレ島を出航しました。 しかし、太平洋を東に進む航海は、西向きの貿易風と海流に逆らうものであり、想像を絶するほど困難でした。 船は激しい嵐に何度も見舞われ、食料は尽き、壊血病で多くの乗組員が命を落としました。 7ヶ月間も太平洋を彷徨った末、エスピノサはついにパナマ到達を断念し、香料諸島へ引き返すことを決意します。
しかし、彼らがようやくモルッカ諸島に戻ったとき、そこにはポルトガルの船団が待ち構えていました。 ポルトガルは、スペイン船が自分たちの領域に侵入したことを知っており、彼らを捕らえるために艦隊を派遣していたのです。 疲弊しきっていたトリニダード号の乗組員は抵抗できず、降伏しました。 生き残ったわずか17人の乗組員は捕虜となり、過酷な強制労働に従事させられました。 最終的に、トリニダード号の乗組員のうち、スペインに生還できたのはエスピノサを含むわずか4人だけであり、それはエルカーノの帰還からさらに数年後のことでした。 トリニダード号自体も、嵐によって完全に破壊されてしまいました。
ビクトリア号の決死の航海
一方、フアン・セバスティアン・エルカーノが指揮するビクトリア号は、1521年12月21日、約60人の乗組員(うち47人がヨーロッパ人、13人が現地人)を乗せ、単独でスペインへの帰路につきました。 エルカーノは、ポルトガル船との遭遇を避けるため、既知の航路から大きく南に外れ、インド洋の広大な未知の海域へと進路を取りました。
この航海もまた、極度の困難を伴いました。彼らは食料不足と壊血病に再び苦しめられました。 ポルトガルの支配下にある港には寄港できないため、補給はほぼ不可能でした。 飢えをしのぐために、米だけを炊いて食いつなぐ日々が続きました。 この過酷なインド洋横断の間に、20人以上の乗組員が命を落としました。
1522年5月、ビクトリア号はついにアフリカ大陸南端の喜望峰に到達しました。 しかし、ここでも激しい嵐に見舞われ、喜望峰を回り込むのに数週間を要しました。 その後、船はアフリカ西岸を北上しましたが、乗組員は心身ともに限界に達していました。
カーボベルデ諸島での賭け
1522年7月、エルカーノは危険を承知の上で、ポルトガル領のカーボベルデ諸島に寄港するという決断を下します。 乗組員たちは飢餓で死にかけており、もはや選択の余地はありませんでした。 エルカーノは一計を案じ、自分たちの船はアメリカ大陸から嵐で流されてきたスペイン船であり、食料を分けてほしいと偽りの話をしました。 この策略は当初成功し、食料を手に入れることができましたが、取引のために上陸した13人の乗組員が、代金の支払いのためにクローブを使おうとしたことから正体が発覚してしまいます。 ポルトガル当局は直ちに船を拿捕しようとしましたが、エルカーノは機敏に状況を察知し、捕らえられた13人を見捨てて、残りの乗組員と共に全速力で出航しました。
歴史的偉業の達成
1522年9月6日、ビクトリア号は、スペインのサンルカル・デ・バラメダ港に奇跡的に帰還しました。 3年近く前に5隻の船と約270人の乗組員で出発した艦隊のうち、生きて故郷の土を踏むことができたのは、この1隻のボロボロの船と、エルカーノを含むわずか18人のヨーロッパ人乗組員だけでした。 彼らは飢えと病でやせ衰え、まさに幽霊のような姿だったと言われています。
2日後の9月8日、彼らはセビリアまで船を進め、航海の無事を感謝するために教会まで裸足で行進しました。 フアン・セバスティアン・エルカーノと彼の部下たちは、歴史上初めて地球を一周するという、前人未到の偉業を成し遂げたのです。
航海の成果と歴史的意義
マゼランとエルカーノの遠征は、想像を絶する犠牲を払いながらも、人類の歴史に計り知れない影響を与える数々の成果をもたらしました。それは単なる地理上の発見にとどまらず、科学、経済、政治、そして世界観そのものを変革するものでした。
地理学と科学への貢献
地球球体説の実証: この航海がもたらした最大の成果は、理論上のものであった地球球体説を、経験的に、そして反論の余地なく証明したことです。地球を一周して出発点に戻ってきたという事実は、地球が平らではなく、閉じられた球体であることを何よりも雄弁に物語っていました。
地球の真の大きさの認識: 航海前、ヨーロッパ人は地球の大きさを、特に太平洋の広さを著しく過小評価していました。マゼランの船団が99日間も陸地を見ずに太平洋を横断した経験は、地球がいかに広大であるかを初めて明らかにしました。これにより、それまでの世界地図は根本的に描き直される必要が生じました。
マゼラン海峡の発見: 南米大陸の南端を抜けるマゼラン海峡の発見は、大西洋と太平洋を結ぶ新たな航路を開拓したという点で、地理学上の大きな功績でした。この海峡は、後にパナマ運河が開通するまで、重要な航路として利用され続けました。
国際日付変更線の発見: ビクトリア号が帰還した際、乗組員たちは自分たちがつけていた航海日誌の日付が、陸に残っていた人々の暦よりも1日遅れていることに気づきました。彼らは一日も記録を怠らなかったにもかかわらず、です。これは、地球を西回りに一周すると日付を1日失う(東回りでは1日得る)という現象であり、国際日付変更線の概念を人類が初めて経験的に発見した瞬間でした。
新たな動植物の記録: アントニオ・ピガフェッタの詳細な記録により、ヨーロッパ人がそれまで知らなかった多くの動植物が報告されました。ペンギンやリャマ(彼らは「頭がラバで体がラクダのような動物」と表現した)などがその例です。
経済的・政治的影響
経済的成功: 遠征は人的には壊滅的な損失を被りましたが、経済的には驚くべき成功を収めました。ビクトリア号が持ち帰った約26トンのクローブとシナモンは、遠征にかかった全費用を賄って余りあるほどの莫大な利益を生み出しました。これは、香料貿易がいかに儲かるものであったかを証明し、その後の探検へのさらなる投資を促しました。
スペインとポルトガルの対立激化: マゼランの航海は、香料諸島がトルデシリャス条約で定められたどちらの国の領域に属するのかという問題を再燃させました。マゼランは西回りで到達したため、スペインは香料諸島が自国の領域にあると主張しました。この領有権争いは、1529年にサラゴサ条約が結ばれるまで続きました。この条約でスペインは、多額の賠償金と引き換えに香料諸島に対する権利をポルトガルに売却することになります。
太平洋航路の開拓: この航海は、ヨーロッパとアジアを結ぶ西回りの太平洋航路の可能性を実証しました。これは後に、スペインによるフィリピンの植民地化と、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)とマニラを結ぶ「マニラ・ガレオン」と呼ばれる貿易航路の確立につながります。この航路は、約250年間にわたって、アジアの絹や陶磁器、香辛料と、アメリカ大陸の銀を交換する重要な交易路として機能しました。
世界観への影響
マゼラン=エルカーノの航海は、ヨーロッパ人の世界観を根底から覆しました。地球が一つにつながった、航行可能な球体であることが証明されたことで、世界は初めて全体として認識されるようになりました。この出来事は、大航海時代の頂点を示すと同時に、ヨーロッパを中心とした世界の一体化、すなわちグローバリゼーションの時代の幕開けを告げるものでした。未知の海や土地への恐怖は薄れ、探検、貿易、植民、そしてキリスト教布教の動きが世界規模で加速していくことになります。この一つの航海が、文字通り世界の歴史を新たな章へと導いたのです。
フェルディナンド=マゼランが構想し、フアン・セバスティアン・エルカーノが完遂した世界周航は、人類の探検史における金字塔です。1519年の出航から1522年の帰還まで、この3年間にわたる航海は、人間の忍耐力、勇気、そして探究心の壮大な物語であり、同時に裏切り、暴力、そして絶望が渦巻く過酷な試練の記録でもあります。
この遠征は、当初の目的であった西回りでの香料諸島への到達を達成し、持ち帰った香料によって経済的にも大きな成功を収めました。しかし、その歴史的意義は、単なる商業的な成功をはるかに超えるものです。この航海は、地球が球体であることを実証し、その真の広大さを人類に知らしめました。マゼラン海峡の発見、太平洋の命名、そして国際日付変更線の経験的発見など、地理学および科学における貢献は計り知れません。これにより、世界地図は一新され、人々の世界観は根本から変容しました。
この偉業は、想像を絶する人的犠牲の上に成り立っていました。マゼラン自身を含む大多数の乗組員が、飢餓、壊血病、戦闘、そして内紛によって命を落としました。5隻の船と約270人で始まった遠征が、わずか1隻の船と18人の生存者で終わったという事実は、航海の過酷さを何よりも物語っています。しかし、アントニオ・ピガフェッタのような記録者の存在によって、彼らの経験は詳細に後世に伝えられ、その苦難と発見の物語は不滅のものとなりました。
マゼラン=エルカーノの航海は、大航海時代の集大成であると同時に、新たな時代の始まりを告げるものでした。それは、ヨーロッパが世界全体へとその影響力を拡大していく、グローバルな相互作用の時代の幕開けでした。この航海によって開かれた太平洋航路は、後のマニラ・ガレオン貿易へと発展し、大陸間を結ぶ経済的・文化的交流を促進しました。