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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

トスカネリとは わかりやすい世界史用語2272

著者名: ピアソラ
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トスカネリとは

トスカネリ(1397年 - 1482年5月10日)は、イタリア・ルネサンス期にフィレンツェで活躍した数学者、天文学者、そして宇宙誌学者です。 彼の名は、コロンブスが新世界への最初の航海で携行した、ヨーロッパの西にアジアを描いた地図の作成者として、歴史に深く刻まれています。 しかし、彼の業績はそれだけにとどまらず、天文学、数学、そして当時の知的ネットワークの中心人物として、ルネサンスの知の発展に多大な貢献を果たしました。



生涯とフィレンツェの知的環境

パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネリは、1397年にフィレンツェで医師ドメニコ・トスカネリの子として生まれました。 彼の初期の教育や経歴に関する正確な情報はありませんが、一説ではパドヴァ大学で学んだとされています。 しかし、これは推測の域を出ないと考える研究者もいます。 確かなことは、彼が生涯のほとんどをフィレンツェで過ごし、時折トーディやローマへ旅行したということです。 トスカネリが生きた15世紀のフィレンツェは、ルネサンス発祥の地として、芸術、文化、商業、政治、経済、金融の主要な中心地でした。 1425年頃には人口6万人を擁するヨーロッパ有数の大都市であり、経済的に豊かで成功した独立した都市国家と見なされていました。 この都市の繁栄を支えたのは、毛織物業を中心とする強力なギルド組織でした。 フィレンツェは港湾都市ではなかったものの、銀行業が主要な収入源となり、フィレンツェの金貨フロリンはその信頼性の高さからヨーロッパ中の標準通貨となっていました。 このような活気あふれる都市で、トスカネリは長い生涯、卓越した知性、そして幅広い興味を通じて、初期ルネサンスのフィレンツェにおける知的・文化史の中心人物の一人となりました。 彼の友人には、フィレンツェ大聖堂の設計者であるブルネレスキや、哲学者のマルシリオ・フィチーノといった著名人が名を連ねています。 また、数学者、作家、建築家であるレオン・バッティスタ・アルベルティとも親交がありました。 彼の最も親しい友人の一人が、ドイツ出身の枢機卿であり、広範な知識を持つ初期の人文主義者であったニコラウス・クザーヌスです。 クザーヌスは1445年に2つの短い数学論文をトスカネリに捧げ、1458年には『円積問題について』という対話篇で自身とトスカネリを対話者として登場させました。 1464年にクザーヌスがペルージャ地方の町トーディで危篤に陥った際には、トスカネリはフィレンツェから120マイル(約193km)の道のりを旅して彼のもとに駆けつけました。 このエピソードは、二人の深い友情を物語っています。 トスカネリとクザーヌスは、フィレンツェとローマの知識人ネットワークに属していたと考えられています。 このネットワークには、フランチェスコ・フィレルフォ、トレビゾンドのゲオルギオス、そして人文主義者の教皇ニコラウス5世などが含まれ、アルベルティやブルネレスキと共に古代ギリシャの数学書の探索と研究に没頭しました。

天文学への貢献:彗星観測とグノモン

トスカネリは、天文学の分野で特筆すべき業績を残しました。彼は生涯にわたって6つの彗星を観測したことで知られています。 その観測記録は1433年、1449年、1456年、1457年(2回)、1472年に及びます。 特に1456年に観測された彗星は、後にエドモンド・ハレーが1759年の再来を予測したことから「ハレー彗星」と名付けられることになります。 当時、アリストテレスの理論に基づき、彗星は地上のものであり大気圏内の現象と見なされていました。 トスカネリは、この伝統的な見解に異を唱え、彗星を天体として観測し、その軌道を星図に記録するという新しい手法を導入した最初の人物の一人です。 彼は観測結果を出版しませんでしたが、その手法は北イタリアの人文主義的な天文学者や数学者のサークル内で共有されました。 1440年代初頭、オーストリアの若き数学者ゲオルク・プールバッハがトスカネリを訪ねました。 トスカネリが直接プールバッハに彗星観測法を教えたという確証はありませんが、プールバッハは後にウィーン大学で、彼の最も有名な弟子であるヨハネス・ミュラー、通称レギオモンタヌスに同様のアプローチを教えています。 プールバッハとレギオモンタヌスは、1456年のハレー彗星を含むいくつかの彗星を共同で観測しました。 レギオモンタヌスは、彗星のような高速で移動する天体の視差を正確に計算し、地球からの距離を決定する方法についての考察を含む本を執筆しました。 トスカネリの先駆的な観測は、このようにして次世代の天文学者たちに受け継がれ、近代天文学の発展の礎を築いたのです。 トスカネリの天文学におけるもう一つの重要な貢献は、フィレンツェ大聖堂に設置したグノモン(日時計の一種)です。 1475年頃、彼は大聖堂のドームに穴を開け、床から91.05メートルの高さにグノモンを設置しました。 この穴を通して差し込む太陽光が、床に設置された子午線上に影を落とすことで、正午を半秒単位の精度で決定し、夏至や冬至の時期を正確に測定することが可能になりました。 このグノモンは、当時建設されたものとしては最も高い位置にあり、トスカネリの卓越した天文学的知識と技術力を示す記念碑的な建造物です。

地図製作者としてのトスカネリ:西廻り航路の提唱

トスカネリの名を最も有名にしたのは、彼の宇宙誌学者として、そして地図製作者としての業績です。特に、大西洋を西に進んでアジア(東インド)へ到達するという、いわゆる「西廻り航路」の可能性を提唱したことは、大航海時代の幕開けに決定的な影響を与えました。 彼の地理学的な知識の基礎には、古代の著作家、特にクラウディオス・プトレマイオスの著作がありました。 15世紀初頭にプトレマイオスの『地理学』がギリシャ語からラテン語に翻訳され、再発見されたことは、ルネサンス期の宇宙観に革命をもたらしました。 『地理学』は、世界中の8000以上の場所を経度と緯度で示したものであり、その投影法は地図製作に新たな科学的精度をもたらしました。 トスカネリはプトレマイオスの著作を深く研究し、さらにマルコ=ポーロの旅行記や、フィレンツェを訪れる商人や船乗り、特にイタリアの旅行家ニコロ・デ・コンティから直接情報を得ることで、自身の地理知識を深めていきました。 一説によると、1439年にフィレンツェ公会議に出席していたギリシャの哲学者ゲミストス・プレトンが、トスカネリにストラボン(紀元前1世紀から紀元後1世紀のギリシャの地理学者)の広範な旅行、著作、地図製作について紹介したとされています。 当時イタリアでは知られていなかったストラボンからの知識も、トスカネリの地理観形成に影響を与えた可能性があります。 これらの知識を統合し、トスカネリはヨーロッパとアジア大陸が地球の円周の約3分の2、すなわち230度を占めており、したがって大西洋を横断する西廻り航路は残りの130度を航行するだけで済むという結論に達しました。 これは、アフリカを周回して東へ向かう従来の航路よりもはるかに短いと彼は考えました。 1474年、トスカネリはこの西廻り航路の計画を詳述した書簡と地図を、リスボン大聖堂の司祭であったポルトガルの文通相手フェルナン・マルティンスに送りました。 マルティンスはこの書簡をポルトガル王アフォンソ5世に届けましたが、王はこの計画に決定的な関心を示しませんでした。 この書簡の原本は失われましたが、トスカネリ自身が後にその写しを作成し、地図と共にコロンブスに送ったことで、その存在が知られています。

コロンブスへの影響と歴史的論争

トスカネリとコロンブスの関係は、歴史上、特にアメリカ大陸発見の経緯において、非常に重要な意味を持ちます。コロンブスの息子フェルディナンドやラス・カサス司教の記述によれば、コロンブスはトスカネリの書簡と地図に大いに勇気づけられ、自らの航海計画を固めたとされています。 コロンブスは、1492年の最初の航海において、トスカネリから受け取った地図を携行していました。 トスカネリの1474年の書簡には、次のような記述があります。「香辛料が産出される土地へ海路で到達するという短い航路について、私は何度も話してきましたが、私の意見では、その航路はギニアへ向かう航路よりも短いのです」。 彼はさらに、西へ航海すれば、伝説の島アンティリアを経て、豊かな国であるカタイ(中国)やジパング(日本)に到達できると説明しました。 しかし、トスカネリの計算には重大な誤りがありました。彼はアジア大陸の東西の長さを実際よりも約5,000マイル(約8,000km)も長く見積もっていました。 さらに、コロンブス自身も地球の円周を約25%小さく見積もっていました。 これら二つの誤算が重なった結果、コロンブスは大西洋の横断距離を大幅に過小評価することになり、彼が到達した土地が未知の新大陸であるとは当初気づかず、アジアの一部であると信じ込む原因となりました。 トスカネリの地図そのものは現存していませんが、彼の書簡に基づいて復元された地図は、ヨーロッパの西岸からアフリカ北西岸にかけては比較的正確に描かれている一方で、大西洋にはアンティリアや七つの都市の島といった、伝説上の島々が点在しています。 そして、大西洋を挟んで西側には、広大なアジア大陸が描かれていました。 トスカネリとコロンブスの書簡の信憑性については、長年にわたり学者の間で論争がありました。 20世紀初頭、フランスの学者アンリ・ヴィニョーは、これらの書簡は後世の偽造であると主張し、アメリカ大陸の発見は科学的な計画の結果ではなく、偶然の産物であると論じました。 この主張は大きな議論を巻き起こしましたが、その後の研究により、多くの学者は書簡の信憑性を支持し、トスカネリがコロンブスの計画に与えた影響は決定的であったとする見解が主流となっています。

知的ネットワークの中心として

トスカネリの重要性は、単に個々の業績にとどまるものではありません。彼は、15世紀フィレンツェの知的ネットワークの中心に位置し、様々な分野の才能ある人々と交流し、知識の交換と発展を促進する触媒としての役割を果たしました。 建築の分野では、フィリッポ・ブルネレスキとの親交が知られています。 ブルネレスキはフィレンツェ大聖堂の巨大なクーポラを建設する際に、トスカネリから数学的な助言を得ていた可能性があります。 また、レオン・バッティスタ・アルベルティが発展させた線遠近法の原理についても、トスカネリが関与していた可能性が示唆されています。 数学と天文学の分野では、ニコラウス・クザーヌスとの深い友情と知的交流がありました。 クザーヌスは、地球が宇宙の中心ではなく、静止もしていないという革新的な宇宙観を提唱した人物であり、彼の思想はレギオモンタヌスのような次世代の学者に大きな影響を与えました。 トスカネリは、このクザーヌスとレギオモンタヌスという、ルネサンス科学の発展における二人の重要人物をつなぐ役割を果たしたと言えます。 レギオモンタヌスは、トスカネリの彗星観測や球面三角法に関する業績に度々言及しており、二人が共同でポルトガル王に送る世界地図を作成した可能性も指摘されています。 さらに、トスカネリの知的サークルには、画家のピエロ・デッラ・フランチェスカも含まれていました。 彼は優れた芸術家であると同時に、優れた数学者でもあり、遠近法に関する高度な数学的分析を含む教科書を執筆しました。 このように、トスカネリは医師、数学者、天文学者、宇宙誌学者という多岐にわたる専門知識を持ちながら、建築家、哲学者、芸術家といった異なる分野の専門家たちと積極的に交流し、知識を共有することで、ルネサンスという時代の知の爆発的な発展に貢献したのです。彼の存在なくして、フィレンツェがルネサンスの中心地としてこれほどまでに輝くことはなかったかもしれません。

トスカネリは、1482年5月10日に85歳でその生涯を閉じました。 彼の死後、彼が提唱した西廻り航路のアイデアはクリストファー・コロンブスによって実行に移され、結果的にヨーロッパ人によるアメリカ大陸の「発見」という、世界の歴史を根底から覆す出来事へと繋がりました。 トスカネリの生涯は、ルネサンスという時代精神を体現しています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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