アシエントとは
アシエント、すなわち奴隷供給契約は、スペイン帝国が新世界における植民地経営を円滑に進めるために導入した、極めて重要な経済的・政治的制度でした。この制度は、特定の個人、団体、あるいは国家に対して、一定期間、一定数のアフリカ人奴隷をスペイン領アメリカに供給する独占的権利を与えるものでした。アシエントは単なる奴隷貿易の許可証ではなく、ヨーロッパ列強間の力関係、大西洋をまたぐ経済網の形成、そして植民地社会の構造にまで深く影響を及ぼした、複雑な国際的取り決めでした。その起源は、スペインによるアメリカ大陸の植民地化が始まった当初にまで遡ります。
15世紀末、コロンブスによるアメリカ大陸への到達以降、スペインは広大な領土を獲得し、植民地経営に着手しました。当初、植民地での主要な労働力は、エンコミエンダ制などを通じて徴用された先住民でした。しかし、ヨーロッパから持ち込まれた疫病、過酷な労働、そして虐待により、先住民の人口は激減しました。特に、カリブ海の島々では壊滅的な状況となり、プランテーション農業や鉱山開発に必要な労働力が深刻に不足する事態に陥りました。この労働力不足を補うため、スペイン王室が代替労働力として注目したのが、アフリカ人奴隷でした。
アフリカ人奴隷の使用は、スペイン人やポルトガル人にとっては新しいことではありませんでした。彼らはすでに、大西洋のカナリア諸島やマデイラ諸島、サントメ島などで、サトウキビプランテーションの労働力としてアフリカ人奴隷を使用していました。しかし、アメリカ大陸における奴隷制の導入は、その規模と組織性において、これまでのものとは一線を画すものでした。
最初期のアフリカ人奴隷の導入は、個別の許可(リセンシア)に基づいて、非公式かつ小規模に行われていました。スペイン国王は、植民地の高官や征服者に対し、個人的な使用人として少数のアフリカ人奴隷を連れて行くことを許可していました。しかし、労働力需要の増大に伴い、このような個別対応では追いつかなくなりました。より大規模で安定的な奴隷供給システムが求められるようになったのです。
この需要に応える形で、16世紀初頭にアシエント制度の原型が姿を現しました。1518年、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、彼のフランドル人の廷臣であったロレンソ・デ・ゴレボーに、4,000人のアフリカ人奴隷を4年間にわたってイスパニョーラ島、サン・フアン島(プエルトリコ)、キューバ島、ジャマイカ島へ供給する独占的な契約を与えました。これが、体系化された最初のアシエントと見なされています。この契約は、奴隷貿易を王室の管理下に置き、そこから利益を得るという、後のアシエント制度の基本的な枠組みを確立しました。
しかし、スペインはアフリカ沿岸に直接的な拠点や交易網を持っていませんでした。1494年のトルデシリャス条約により、アフリカ沿岸における探検と貿易の権利はポルトガルに独占的に認められていたためです。このため、スペインは自前で奴隷を調達することができず、奴隷供給を外国の商人に依存せざるを得ませんでした。この地政学的な制約が、アシエントを国際的な性格を持つ制度へと発展させる決定的な要因となりました。
初期のアシエントは、主にポルトガルの商人が担いました。彼らは西アフリカ沿岸に築いた拠点(エルミナ、サントメ、ルアンダなど)を通じて、アフリカの現地勢力から奴隷を買い付け、スペイン領アメリカへと輸送するネットワークを構築していました。ポルトガル商人は、奴隷貿易に関する豊富な知識と経験、そして資本力を有しており、スペインにとって不可欠なパートナーでした。1580年から1640年にかけてスペインとポルトガルが同君連合(イベリア連合)を組んだ時期には、ポルトガル商人の役割はさらに増大し、アシエントは彼らの独壇場となりました。この時期、アシエントは単なる奴隷供給契約にとどまらず、ポルトガル商人による広範な密貿易の隠れ蓑としても機能し、スペイン帝国の商業統制に挑戦する側面も持ち合わせていました。
アシエント制度は、時代とともにその担い手を変えながら発展していきました。ポルトガル商人の時代が終わりを迎えると、ジェノヴァ商人、オランダ商人、フランス商人、そして最終的にはイギリスの南海会社へと、その権利は移っていきました。アシエントの獲得は、ヨーロッパ列強にとって、スペイン領アメリカという閉鎖的な市場へのアクセス権を得ることを意味し、莫大な利益を生むだけでなく、地政学的な優位性を確保するための重要な手段と見なされていました。そのため、アシエントの権利をめぐる争いは、しばしば国家間の外交交渉や戦争の重要な議題となりました。
このように、アシエント制度は、スペイン領アメリカにおける労働力問題を解決するための実用的な手段として始まりましたが、やがて大西洋世界の経済と政治を動かす巨大なメカニズムへと変貌を遂げました。それは、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの三大陸を結びつけ、人、商品、資本が絶え間なく流動する「大西洋システム」の中核をなす制度であり、その後の世界の歴史に計り知れない影響を与えることになったのです。
ポルトガル商人の時代 (1595年-1640年)
16世紀末から17世紀半ばにかけての約半世紀は、アシエント制度の歴史において「ポルトガル人の時代」として知られています。この期間、スペイン王室からアフリカ人奴隷をスペイン領アメリカへ供給する独占的権利(アシエント)は、ほぼ一貫してポルトガルの商人コンソーシアムによって掌握されていました。この背景には、1580年から1640年まで続いたスペインとポルトガルの同君連合(イベリア連合)という政治的状況と、ポルトガル商人が長年にわたって築き上げてきた奴隷貿易の専門知識とネットワークがありました。
イベリア連合の成立により、スペイン国王はポルトガル国王をも兼ねることになり、トルデシリャス条約によって分断されていた両国の海外領土と交易網が、形式的には一つの王権の下に統合されました。これにより、スペインは、これまで直接アクセスできなかったポルトガル領アフリカの奴隷供給源を、間接的に利用することが可能になりました。一方、ポルトガル商人にとっては、広大で利益の大きいスペイン領アメリカ市場への公式な参入路が開かれたことを意味しました。この相互の利害の一致が、ポルトガル商人によるアシエント独占の基盤を築いたのです。
この時代の最初の大規模なアシエントは、1595年にポルトガルの有力商人であるペドロ・ゴメス・レイネルに与えられました。この契約は、9年間にわたって毎年4,250人の奴隷を供給するというもので、これまでの個別許可(リセンシア)や小規模な契約とは一線を画す、体系的かつ大規模な奴隷貿易の始まりを告げるものでした。レイネルの契約以降、アシエントは次々とポルトガルの商人グループに引き継がれていきました。彼らは「コントラタドール」と呼ばれ、多くはコンベルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)の家系に連なる人々でした。彼らは、リスボン、セビリア、アントワープなどに広がる国際的な金融・商業ネットワークを駆使して、奴隷貿易に必要な莫大な資本を調達し、複雑な兵站を管理しました。
ポルトガル商人が担ったアシエントの仕組みは、極めて組織的でした。彼らはまず、西アフリカ沿岸、特に上ギニア(現在のセネガルからシエラレオネにかけての地域)や、より重要であったアンゴラ(コンゴ王国やンドンゴ王国周辺)に拠点を置きました。これらの地域で、現地の王や商人との交渉を通じて、戦争捕虜や債務者などを奴隷として買い付けました。買い付けには、ヨーロッパ製の織物、金属製品、銃器、アルコール飲料などが交換品として用いられました。
奴隷たちは、カシェウ、ビサウ、ルアンダといった沿岸の要塞や商館に集められ、「中間航路」として知られる過酷な大西洋横断の船旅に送り出されました。船内は劣悪な環境で、密集、栄養失調、不衛生、そして暴力によって、多くの人々が命を落としました。死亡率は航海ごとに異なりましたが、平均して10%から20%に達したと推定されています。
スペイン領アメリカに到着した奴隷たちは、まず主要な集積港であるカルタヘナ(現在のコロンビア)、ベラクルス(現在のメキシコ)、そしてポルトベロ(現在のパナマ)などで検疫と計量を受けました。「インディアスの一片(Pieza de India)」という独特の単位が用いられ、これは健康で若く、一定の身長を持つ男性奴隷一人を基準とするものでした。女性や子供、高齢の奴隷は、この基準に対する分数として換算されました。アシエント契約者は、この「インディアスの一片」の単位で規定された数の奴隷を納入する義務を負っていました。
納入された奴隷は、現地の商人たちによって、ペルーのポトシ銀山、メキシコのサカテカス銀山、カリブ海のサトウキビプランテーション、あるいは都市部での家内労働など、様々な労働現場へと売られていきました。アシエントによってもたらされた労働力は、スペイン植民地経済、特に輸出の根幹をなす銀生産を支える上で不可欠な存在でした。
しかし、ポルトガル商人によるアシエント独占は、スペイン帝国にとって両刃の剣でもありました。彼らは公式の奴隷貿易だけでなく、銀、真珠、タバコ、カカオといった植民地の産品を大量に密輸出し、ヨーロッパの商品を密輸入する大規模な密貿易ネットワークを構築しました。セビリアに拠点を置くスペインの商務院が厳格に管理するはずだった帝国の商業独占体制は、アシエントを隠れ蓑とするポルトガル商人の活動によって、内部から侵食されていきました。彼らは、植民地の役人を買収し、公式のルートを迂回して莫大な利益を上げ、その富はスペイン本国ではなく、リスボンやアムステルダムへと流出していきました。
スペイン王室は、この密貿易問題に頭を悩ませながらも、植民地の労働力供給をポルトガル商人に依存せざるを得ないというジレンマに陥っていました。王室は、アシエント契約を通じて得られる収入(契約料や奴隷一人当たりの税金)を重要な財源としていましたが、それは密貿易によって失われる利益に比べれば微々たるものでした。
1640年、ポルトガルがスペインからの独立を回復するための王政復古戦争を開始すると、この状況は一変します。スペインとポルトガルは敵対関係に入り、ポルトガル商人によるアシエントの独占は終焉を迎えました。スペインは、敵国となったポルトガルに奴隷供給を頼ることができなくなり、アシエント制度は一時的な中断と混乱の時代に突入します。この出来事は、アシエントの担い手が、より広範なヨーロッパの国際政治の力学によって決定される新時代への転換点となりました。ポルトガル商人が築いた大西洋奴隷貿易のルートとノウハウは、その後、オランダ、フランス、イギリスといった新たな競争相手に引き継がれ、さらに大規模で熾烈なものとなっていくのです。
混乱期とオランダの台頭 (1640年-1701年)
1640年のポルトガル王政復古戦争の勃発は、スペイン領アメリカへの奴隷供給システムに深刻な断絶をもたらしました。これまで半世紀以上にわたりアシエントを独占してきたポルトガル商人は、一夜にして敵国市民となり、公式な貿易ルートから締め出されました。これにより、スペイン植民地は深刻な労働力不足に直面し、アシエント制度は新たな担い手を求める混乱期へと突入しました。この権力の空白に乗じて台頭してきたのが、当時、海上貿易と金融においてヨーロッパの覇権を握りつつあったオランダでした。
ポルトガルの独立後、スペイン王室は代替となる奴隷供給者を見つけるのに苦労しました。王室は、個別の商人や小規模なコンソーシアムに短期的な契約を与えることで急場をしのぎましたが、ポルトガル商人が提供していたような大規模で安定した供給を再現することはできませんでした。この時期のアシエント契約者は、スペイン人、ジェノヴァ人、フランドル人など多様でしたが、いずれもアフリカに直接的な交易拠点を欠いており、奴隷調達の大部分を第三者に依存せざるを得ませんでした。
その第三者こそが、オランダ西インド会社(WIC)でした。17世紀前半、オランダはポルトガルとの間で激しい海上闘争を繰り広げ、ブラジル北東部(オランダ領ブラジル)や、アフリカ西岸のエルミナ城塞、ルアンダといった重要な奴隷貿易拠点を次々と奪取していました。これにより、オランダはポルトガルに代わって、大西洋奴隷貿易における主要な供給者としての地位を確立しました。特に、カリブ海に浮かぶキュラソー島を1634年に占領したことは、戦略的に極めて重要でした。キュラソー島は、その優れた天然の港とスペイン領アメリカ本土への近さから、奴隷貿易の一大中継基地(エンポリアム)へと発展しました。
スペインは、八十年戦争(オランダ独立戦争)で敵対したオランダを公式なアシエント契約者として認めることに強い抵抗感がありました。プロテスタント国であり、商業的なライバルでもあるオランダに、帝国の生命線ともいえる奴隷供給を委ねることは、政治的にも宗教的にも受け入れがたいことでした。しかし、現実の経済的必要性は、そのような政治的・宗教的信条を凌駕しました。植民地のプランテーション所有者や鉱山経営者からの労働力供給を求める圧力は日に日に高まり、彼らは非合法なルートを通じてでも奴隷を確保しようとしました。
その結果、この時期のアシエントは、奇妙な二重構造を持つことになります。表向きのアシエント契約者(アシエンティスタ)は、スペイン王室が承認したカトリック教徒の商人(例えばジェノヴァのドメニコ・グリッロやアンブロジオ・ロメリン)でしたが、彼らは実質的な奴隷の供給を、裏でオランダ西インド会社に全面的に依存していました。アシエンティスタは、いわば名義貸しのような存在であり、キュラソー島に停泊するオランダの奴隷船から奴隷を「購入」し、それをスペイン領アメリカのカルタヘナやポルトベロへ輸送するという役割を担いました。
この仕組みは、スペイン王室にとっては屈辱的なものでしたが、他に選択肢はありませんでした。オランダは、この非公式な下請け供給者としての立場を利用して、莫大な利益を上げました。彼らは奴隷だけでなく、ヨーロッパの工業製品を大量にスペイン領アメリカへ密輸し、その見返りとして銀や農産物を持ち出しました。キュラソー島は、この合法と非合法が交錯する貿易の神経中枢となり、アムステルダムの銀行家や商人たちに富をもたらしました。スペイン帝国の商業独占体制は、ポルトガル時代以上に深刻な形で、オランダの商業的浸透によって蝕まれていきました。
1652年、スペインはついにこの状況を追認せざるを得なくなり、ジェノヴァ商人を介した契約を正式に認めましたが、その背後にオランダがいることは公然の秘密でした。その後も、アシエントはオランダ人や、オランダと密接な関係を持つ商人たちの手に渡ることが多くなりました。例えば、1680年代にアシエントを獲得したバルタサール・コイマンスは、アムステルダムの有力な銀行家であり、彼の契約はオランダによるアシエント支配の頂点を示すものでした。
しかし、オランダの優位も永遠ではありませんでした。17世紀後半になると、フランスのルイ14世による領土拡大政策と、イギリスの海上権の伸長により、オランダの相対的な国力は低下し始めました。英蘭戦争や仏蘭戦争はオランダの国力を消耗させ、奴隷貿易における競争も激化しました。
この混乱期の終わりを告げたのは、18世紀初頭のスペイン継承戦争でした。スペインの王位継承をめぐるこのヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争の結果、アシエントの権利は、単なる商業契約から、大国間の講和条約における重要な外交カードへとその性格を完全に変えることになります。戦争の結果、アシエントはフランス、そして最終的にはイギリスの手に渡ることになり、オランダが非公式に支配した時代は幕を閉じました。この過渡期は、アシエントが純粋な経済活動から、地政学的な覇権争いの道具へと変貌を遂げる上で決定的な役割を果たしたのです。
フランスの時代とスペイン継承戦争 (1701年-1713年)
18世紀の幕開けとともに、アシエント制度は新たな局面を迎えました。これまでポルトガル商人や、オランダ商人を背後とする非公式なネットワークによって担われてきた奴隷供給の独占権は、ヨーロッパの国際政治の最前線へと躍り出ることになります。その引き金となったのが、1700年にスペイン・ハプスブルク朝のカルロス2世が跡継ぎなく死去したことによって勃発したスペイン継承戦争(1701年-1714年)でした。この戦争は、アシエントの歴史において、フランスが一時的にその主導権を握る「フランスの時代」をもたらしました。
カルロス2世は、その遺言により、フランスのブルボン家出身でルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップを後継者に指名しました。フィリップがフェリペ5世としてスペイン王位に即位すると、スペインとフランスという二つの強大なカトリック王国がブルボン家の同君連合の下に統合される可能性が生まれました。この勢力図の激変は、ヨーロッパのパワーバランスを根本から覆すものであり、イギリス、オランダ、オーストリア(神聖ローマ帝国)などは、この「ブルボン枢軸」の形成を阻止するために同盟を結び、フェリペ5世の王位継承に異を唱えました。こうして、ヨーロッパ全土と海外植民地を巻き込む大戦争が始まったのです。
この新たな政治状況は、アシエントの運命に直接的な影響を及ぼしました。スペインの新国王フェリペ5世は、祖父であるフランス国王ルイ14世との緊密な同盟関係に基づき、1701年、アシエントの独占的権利をフランスのギニア会社に与えました。これは、ルイ14世にとって長年の悲願の達成でした。フランスは以前から、富の源泉であるスペイン領アメリカ市場への参入を渇望していましたが、スペイン・ハプスブルク朝の厳格な商業独占政策によって阻まれていました。アシエントの獲得は、その閉ざされた扉をこじ開けるための、またとない機会でした。
フランスのギニア会社に与えられたアシエント契約は、10年間で48,000人のアフリカ人奴隷を供給するという、これまでにない大規模なものでした。この契約は、単に奴隷を供給する権利だけでなく、奴隷輸送船が補給のためにブエノスアイレスなどの特定の港に寄港する権利や、余剰商品を販売する限定的な権利も認めていました。ルイ14世と彼の政府は、このアシエントを、奴隷貿易そのものから得られる利益以上に、フランスの工業製品をスペイン領アメリカへ輸出し、銀をフランスへ還流させるための重要な手段と見なしていました。アシエントは、重商主義政策を推進するフランスにとって、国富を増大させるための戦略的な道具となったのです。
ギニア会社は、セネガル川河口のサン=ルイやゴレ島など、西アフリカ沿岸にすでに保有していた交易拠点を活用して奴隷調達に乗り出しました。フランスの奴隷船は、アフリカの港で奴隷を積み込み、大西洋を横断してカルタヘナ、ベラクルス、ポルトベロ、そしてブエノスアイレスといったスペイン領の港へ向かいました。
しかし、フランスのギニア会社によるアシエントの運営は、多くの困難に直面しました。第一に、スペイン継承戦争そのものが、海上貿易にとって大きな障害となりました。イギリスとオランダの強力な海軍が、大西洋の制海権を握り、フランスの奴隷船は常に拿捕の危険に晒されました。これにより、計画通りの数の奴隷を安定して供給することは極めて困難でした。
第二に、ギニア会社は、奴隷貿易に必要な莫大な資本と高度な専門知識を十分に持ち合わせていませんでした。会社の経営は非効率で、死亡率の高い航海や、スペイン植民地当局との間のトラブルが頻発しました。さらに、長年にわたって非公式な奴隷貿易を支配してきたオランダ商人や、カリブ海で密貿易を行っていたイギリス商人は、フランスの独占に激しく抵抗しました。彼らは、ジャマイカやキュラソー島を拠点として、より安価な奴隷や商品をスペイン領植民地に密輸し続け、ギニア会社の商業活動を妨害しました。
その結果、フランスのギニア会社は、契約で定められた数の奴隷を供給することができず、経営は常に赤字に苦しみました。10年間の契約期間中に、実際に供給できた奴隷の数は、目標を大幅に下回るものであったとされています。
にもかかわらず、フランスがアシエントを保持しているという事実そのものが、戦争の行方を左右する重要な要素であり続けました。イギリスとオランダにとって、フランスによるアシエントの独占は、自国の商業的利益に対する重大な脅威であり、戦争を継続する大きな動機の一つでした。彼らは、ブルボン家の同君連合を阻止することに加えて、アシエントをフランスから奪い取り、自国の手に収めることを戦争の主要な目的と位置づけていました。
やがて、長期にわたる戦争に各国が疲弊し、和平交渉の機運が高まると、アシエントの帰属は交渉の最大の焦点となりました。最終的に、1713年に締結されたユトレヒト条約において、アシエントは、スペイン継承戦争の最大の勝者となったイギリスに引き渡されることが決定されました。フランスのギニア会社は、アシエントから手を引くことを余儀なくされ、フランスによるアシエント支配の時代は、わずか10年余りで幕を閉じました。この短い期間は、アシエントがもはや単なる一企業の商業利権ではなく、ヨーロッパ列強の国家戦略がぶつかり合う、国際政治のチェス盤における最も価値のある駒の一つとなったことを明確に示した時代でした。
イギリス南海会社の時代とアシエントの頂点 (1713年-1750年)
1713年に締結されたユトレヒト条約は、スペイン継承戦争を終結させ、ヨーロッパの勢力図を再編しただけでなく、アシエント制度の歴史における新たな、そして最も注目されるべき時代、すなわち「イギリスの時代」の幕開けを告げました。この条約によって、アフリカ人奴隷をスペイン領アメリカへ供給する独占的権利(アシエント)は、戦勝国であるイギリスに、30年間の期限付きで正式に譲渡されることになったのです。この権利を行使するために設立されたのが、南海会社でした。イギリスによるアシエントの掌握は、この制度がその頂点に達したことを象徴すると同時に、その後の衰退へとつながる矛盾を内包する時代の始まりでもありました。
ユトレヒト条約でイギリスが得たアシエント契約は、これまでのものとは比較にならないほど有利な条件を含んでいました。南海会社は、30年間にわたって合計144,000人(年平均4,800人)の奴隷を供給する権利を得ました。これに加えて、年に一度、「年次船」と呼ばれる500トン級の船をスペイン領アメリカの主要な港(カルタヘナ、ポルトベロ、ベラクルスなど)へ派遣し、イギリスの工業製品を合法的に販売する権利も認められました。この年次船の権利は、奴隷貿易そのもの以上に大きな利益を生む可能性を秘めており、長年スペイン領アメリカ市場への参入を阻まれてきたイギリス商人たちにとって、まさに夢のような特権でした。
南海会社の設立は、アシエントの獲得と密接に連動していました。会社は、スペイン継承戦争中に膨れ上がったイギリスの国債の一部を引き受ける見返りとして、アシエントと年次船から得られるであろう莫大な利益の独占権を政府から与えられました。この将来の利益に対する過大な期待は、イギリス国内に空前の投機熱を巻き起こしました。南海会社の株価は、会社の実際の事業が始まる前から異常な高騰を見せ、あらゆる階層の人々が投機に殺到しました。これが、後に「南海泡沫事件」として知られる、世界初の本格的な金融バブルとその崩壊です。
1720年、期待だけが先行した株価はついに暴落し、多くの投資家が破産し、イギリス経済は深刻な打撃を受けました。しかし、この金融スキャンダルにもかかわらず、南海会社は存続し、アシエント事業そのものは続けられました。会社は、ジャマイカのキングストンとバルバドスのブリッジタウンに主要な拠点を置き、そこを奴隷の中継基地としました。イギリスの奴隷船は、西アフリカのいわゆる「奴隷海岸」や「黄金海岸」で奴隷を買い付け、これらのカリブ海の拠点へ輸送しました。そこで奴隷たちは「リフレッシュ」と称して一定期間留め置かれ、健康状態を回復させた後、スペイン領アメリカの最終目的地へと再輸送されました。この二段階の輸送システムは、死亡率を低下させ、奴隷の商品価値を維持するためのものでした。
南海会社は、カルタヘナ、パナマ、ベラクルス、ブエノスアイレスといったスペイン領の主要都市に商館(ファクトリー)を設置し、イギリス人の商館員(ファクター)を駐在させました。彼らは、奴隷の販売だけでなく、年次船で運ばれてくる毛織物、金属製品、その他の工業製品の販売も担当しました。しかし、彼らの活動は合法的な商業にとどまりませんでした。商館は、事実上、大規模な密貿易の拠点として機能しました。年次船は公式には500トンの積載制限がありましたが、実際には沖合で待機する補給船から次々と荷物を補充し、規定をはるかに超える量の商品を陸揚げしました。また、商館員たちは現地のスペイン植民地当局者を買収し、非合法な取引を黙認させました。
このイギリスによる公然たる密貿易は、スペイン政府との間に絶え間ない摩擦を生み出しました。スペイン側は、イギリスがアシエントを隠れ蓑にして帝国の商業独占体制を破壊し、富を不当に収奪していると非難しました。一方、イギリス側は、スペイン当局による嫌がらせや契約違反(例えば、支払いの遅延や不当な課税)に不満を募らせました。両国間の緊張は次第に高まり、1727年から1729年にかけての英西戦争など、度重なる外交的・軍事的衝突を引き起こしました。
この対立が頂点に達したのが、1739年に勃発した「ジェンキンスの耳の戦争」でした。この奇妙な名前の戦争は、イギリスの密輸船の船長ロバート・ジェンキンスが、スペインの沿岸警備隊に拿捕された際に耳を切り落とされたとイギリス議会で証言したことをきっかけに始まりました。この事件は、アシエントをめぐる長年の不満と、イギリス国内の対スペイン強硬派の世論を爆発させる引き金となったのです。この戦争は、やがてオーストリア継承戦争という、より大規模なヨーロッパの紛争へと拡大していきました。
度重なる戦争によって、南海会社のアシエント事業は何度も中断を余儀なくされ、期待されたほどの利益を上げることはできませんでした。契約期間である30年は、戦争によって延長されましたが、1750年のマドリード条約により、イギリスは最終的にアシエントの権利を放棄することに合意しました。スペインは、権利放棄の見返りとして南海会社に10万ポンドの補償金を支払いました。
イギリス南海会社の時代は、アシエントがその国際的な重要性の頂点に達した時期でした。それはヨーロッパの主要な講和条約の条項となり、金融市場を揺るがし、国家間の戦争の原因ともなりました。しかし、それは同時に、アシエント制度が内包する矛盾、すなわち、主権国家が自国の商業的利益を最大化しようとする重商主義的欲求と、他国の商業独占体制を尊重するという建前との間の根本的な対立を露呈させました。この矛盾は、最終的に制度そのものの崩壊へとつながり、アシエントは自由貿易という新たな時代の潮流の中で、その役割を終えていくことになります。
アシエント制度の衰退と終焉
1750年のマドリード条約によってイギリスがアシエントの権利を放棄したことは、この制度の歴史における大きな転換点となりました。かつてはヨーロッパ列強がその獲得をめぐって熾烈な争いを繰り広げた国際的な奴隷供給の独占権は、その輝きを失い、緩やかな衰退の道をたどることになります。アシエント制度の終焉は、単一の出来事によるものではなく、経済思想の変化、スペイン帝国の改革、そして人道主義の高まりといった、18世紀後半の様々な歴史的潮流が複合的に作用した結果でした。
イギリス南海会社がアシエントから撤退した後、スペイン王室は、再び国家間で大規模な独占契約を結ぶという形には戻りませんでした。その代わりに、スペインの特定の商事会社、特にカディスの商人たちに、奴隷供給の権利が与えられるようになりました。これは、ブルボン改革として知られる、スペイン帝国全体の行政・経済改革の一環でした。ブルボン朝の改革者たちは、帝国の富が外国に流出する原因となっていた旧来の重商主義的な独占体制を見直し、より自由な貿易を帝国内で促進することで、経済を活性化させ、王室の収入を増やすことを目指しました。
この文脈において、アシエントという単一の外国企業に独占権を与える制度は、時代遅れと見なされるようになりました。改革者たちは、奴隷貿易をスペイン商人自身の手に取り戻し、競争を促進することで、より効率的で安価な労働力供給が実現できると考えました。1765年には、カディスに拠点を置くミゲル・デ・ウリアルテの会社にアシエントが与えられ、その後もいくつかのスペイン企業が契約を結びましたが、これらはもはや南海会社が持っていたような、広範な特権を伴うものではありませんでした。
さらに重要な変化は、1789年にスペイン王カルロス4世が発した勅令でした。この勅令は、アシエント制度そのものを事実上廃止し、奴隷貿易の「自由化」を宣言するものでした。これにより、スペイン人臣民だけでなく、友好国の国民も、特定の港において、アフリカ人奴隷を自由に輸入し、販売することが許可されるようになりました。これは、奴隷貿易を単一の独占契約によって管理するという、2世紀半以上にわたって続いてきた基本方針からの完全な転換を意味しました。
この「自由貿易」への転換の背景には、経済的な合理性の追求がありました。18世紀後半、カリブ海、特にキューバでは、サトウキビプランテーション経済が爆発的な成長を遂げていました。フランス領サン=ドマング(後のハイチ)で始まった奴隷革命(1791年)により、世界の砂糖生産の大部分を担っていた同地からの供給が途絶えると、キューバのプランテーション所有者たちは、その空白を埋める好機と捉えました。砂糖生産を急拡大するためには、かつてない規模の労働力、すなわちアフリカ人奴隷が緊急に必要でした。硬直的なアシエント制度では、この急増する需要に迅速かつ柔軟に対応することは不可能でした。奴隷貿易を自由化し、あらゆる商人が競争に参加できるようにすることこそが、プランテーション経済の発展にとって不可欠であると、現地の有力者たちは強く主張したのです。
その結果、1789年の自由化以降、キューバへの奴隷輸入は劇的に増加しました。19世紀前半は、キューバにおける奴隷貿易の最盛期となり、皮肉なことに、アシエントという管理貿易の時代よりも、はるかに多くの人々が奴隷としてアフリカから連れてこられることになりました。
一方で、18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパとアメリカでは、奴隷制と奴隷貿易に対する人道主義的な批判が急速に高まっていきました。啓蒙思想家たちは、奴隷制を自然権に反する非人間的な制度として糾弾し、イギリスを中心に、ウィリアム・ウィルバーフォースらに率いられた奴隷制度廃止運動が強力な政治勢力となっていきました。この運動は、1807年のイギリスによる奴隷貿易禁止法の可決という大きな成果を上げます。
ナポレオン戦争後、世界の海上覇権を握ったイギリスは、その外交力を駆使して他国にも奴隷貿易の禁止を強く迫りました。かつてアシエントを最も効果的に利用して奴隷貿易を主導したイギリスが、今やその最も強力な反対者となったのです。スペインは、長年にわたりイギリスからの圧力に抵抗しましたが、最終的には屈服せざるを得ませんでした。1817年、スペインはイギリスとの条約に署名し、多額の補償金と引き換えに、1820年以降の奴隷貿易を禁止することに合意しました。
この公式な禁止にもかかわらず、キューバやプエルトリコへの非合法な奴隷密輸は、その後も数十年にわたって続きました。しかし、かつて国家が公認し、国際条約によってその権利が保証されたアシエントという制度は、もはや完全に過去のものとなりました。アシエント制度の終焉は、重商主義的独占から自由貿易へ、そして国家公認の貿易から国際的に非難される犯罪行為へと、奴隷貿易に対する価値観が大きく転換したことを象徴する出来事でした。
アシエント制度が残した遺産は、複雑で多岐にわたります。経済的には、この制度を通じて供給された何十万人ものアフリカ人奴隷の労働力が、ポトシやサカテクスの銀山、カリブ海のプランテーション、そして植民地都市の建設と維持を支え、スペイン帝国の経済的基盤を形成したことは間違いありません。それはまた、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを結ぶ大西洋経済圏の形成を促進し、近代世界システムの発展において中心的な役割を果たしました。
政治的には、アシエントはヨーロッパ列強間の地政学的な力関係を映し出す鏡でした。その権利の帰属は、戦争と外交の主要な議題となり、国家の威信と経済的利益をかけた争奪の対象となりました。特に、イギリスがユトレヒト条約でアシエントを獲得したことは、大英帝国の海洋覇権を確立する上での重要な一歩となりました。
しかし、その最も重要かつ悲劇的な遺産は、言うまでもなく、この制度によって故郷を追われ、商品として売買され、過酷な労働と非人間的な扱いの中で生きた、数え切れないほどのアフリカン・ディアスポラの人々の歴史です。アシエントは、奴隷貿易を体系化、大規模化し、正当化する装置として機能しました。それは、人種に基づいた搾取を国際的な商業システムに組み込み、その後のアメリカ大陸における人種関係の基礎を築きました。この制度の下で築かれた富は、ヨーロッパの近代化と資本主義の発展に貢献しましたが、その代償は、アフリカ大陸の社会の破壊と、アメリカ大陸における何世代にもわたる人々の苦しみでした。
アシエント制度の歴史を振り返ることは、近代世界がどのように形成されたかを理解する上で不可欠です。それは、経済的合理性、国家的野心、そして人種的偏見が交錯し、人間の自由と尊厳が組織的に踏みにじられた歴史の一断面であり、その影響は今日の世界にも深く刻み込まれています。
アシエント制度の構造と実態
アシエント制度は、単なる奴隷貿易の許可証ではなく、スペイン王室、契約者(アシエンティスタ)、金融資本家、植民地当局、そして奴隷商人たちが複雑に絡み合った、高度に組織化された国際的な事業でした。その構造と実態を理解することは、この制度がどのように機能し、大西洋世界にどのような影響を及ぼしたかを知る上で不可欠です。
契約の構造
アシエントの中心にあったのは、スペイン王室と特定の個人または企業との間で交わされる契約書でした。この契約書には、供給すべき奴隷の総数、契約期間、年間の供給ノルマ、納入港、そして奴隷一人当たりに王室へ支払う税額などが詳細に規定されていました。契約期間は数年から、イギリス南海会社の場合のように30年という長期にわたるものまで様々でした。
契約の重要な要素の一つに、奴隷の品質を測定するための独特の単位、「インディアスの一片(Pieza de India)」がありました。これは、身長が7クァルタ(約158cm)以上で、身体的な欠陥がなく、年齢が15歳から35歳までの健康な男性奴隷一人を基準とするものでした。女性、子供、あるいは基準に満たない男性は、この「一片」に対する分数(例えば1/2や2/3)として計算されました。アシエンティスタは、実際の人数ではなく、この「Pieza de India」の単位で計算された合計数を納入する義務を負いました。このシステムは、植民地で最も需要の高かった、労働力としての価値が最大と見なされる奴隷の供給を確保するためのものでした。
アシエンティスタは、この独占的権利を得る見返りとして、王室に多額の契約金を前払いし、さらに奴隷を販売して得た利益の一部を税金として納めました。王室にとって、アシエントは植民地の労働力需要を満たすと同時に、財政難に苦しむ国庫にとって重要な収入源でもありました。
資金調達と国際金融ネットワーク
奴隷貿易は、莫大な先行投資を必要とするハイリスク・ハイリターンの事業でした。船の建造またはチャーター、航海士や船員の雇用、アフリカでの交換商品の購入、そして長い航海期間中の経費など、資本需要は膨大でした。アシエンティスタは、これらの資金を調達するために、国際的な金融ネットワークに依存しました。
ポルトガル商人の時代には、リスボン、セビリア、アントワープに広がるコンベルソ(改宗ユダヤ人)の金融ネットワークが中心的な役割を果たしました。彼らは、血縁や共通の文化的背景に基づいた信用網を駆使して、ヨーロッパ各地から資金を動員しました。オランダが影響力を持った時代には、アムステルダムの銀行がその金融ハブとなりました。そして、イギリス南海会社の時代には、ロンドンの新たな金融市場が、国債と連動した形でアシエント事業の資金を供給しました。このように、アシエントの歴史は、近世ヨーロッパにおける金融資本主義の発展と密接に連動していたのです。
奴隷調達のプロセス(アフリカ)
アシエンティスタ自身が、必ずしもアフリカで直接奴隷を調達したわけではありません。多くの場合、彼らは下請けの奴隷商人に実際の買い付けと輸送を委託しました。アフリカ大陸における奴隷の「生産」は、主にアフリカ人自身の間の戦争、襲撃、あるいは司法制度(犯罪者や債務者を奴隷として売却する)によって行われました。ヨーロッパの奴隷商人は、沿岸部に築いた要塞や商館(ファクトリー)を拠点に、アフリカの王や有力者との間で交渉を行いました。
交換品として最も需要が高かったのは、ヨーロッパ製の織物(特にインド産の綿布)、鉄や銅の延べ棒、銃器と火薬、アルコール飲料(ラム酒など)、ビーズや装飾品でした。銃器の流入は、アフリカ社会内部の武力紛争を激化させ、さらなる捕虜(奴隷)を生み出すという悪循環を引き起こしました。
奴隷たちは、内陸部から沿岸の「奴隷海岸」まで、しばしば何百キロもの距離を徒歩で移動させられました。沿岸の要塞に到着すると、彼らは商品として検品され、会社の焼き印を押され、船が来るまで劣悪な環境の収容所に監禁されました。この過程で、多くの人々が病気や絶望によって命を落としました。
中間航路(大西洋横断)
奴隷船での大西洋横断、いわゆる「中間航路」は、奴隷貿易の過程で最も悲惨な段階でした。利益を最大化するため、船主は可能な限り多くの人間を船倉に詰め込みました。男性は鎖でつながれ、身動きも取れないほどの狭い空間に押し込められました。女性や子供は、しばしば甲板上でより自由が与えられましたが、その分、船員からの性的暴行の危険に常に晒されていました。
船内の衛生状態は劣悪で、赤痢、壊血病、天然痘などの伝染病が蔓延しました。与えられる食事はわずかで、水も制限されていました。定期的に甲板に引きずり出され、無理やり運動させられることもありましたが、これは衰弱を防ぎ、商品価値を維持するための措置に過ぎませんでした。反乱を企てた者や抵抗した者は、見せしめとして残虐な方法で処刑されました。航海中の死亡率は極めて高く、平均して10%から20%に達しましたが、嵐や疫病の発生によっては50%を超えることも珍しくありませんでした。
販売と分配(アメリカ大陸)
数ヶ月に及ぶ過酷な航海を生き延びたアフリカ人たちは、カルタヘナ、ベラクルス、ポルトベロ、ブエノスアイレス、ハバナといったスペイン領アメリカの主要港に到着しました。そこで彼らは、アシエンティスタの代理人である商館員(ファクター)によって検疫を受け、陸揚げされました。
奴隷たちは、家畜のように市場で売買されました。買い手であるプランテーション所有者、鉱山経営者、あるいは裕福な都市住民は、歯を調べ、体を触り、その健康状態と労働能力を値踏みしました。家族は引き裂かれ、同じ言語を話す者たちは意図的に分散させられることもありました。これは、彼らが団結して反乱を起こすのを防ぐための措置でした。
販売された奴隷たちは、それぞれの労働現場へと送られました。ペルーのポトシ銀山での危険な採掘作業、キューバやイスパニョーラ島のサトウキビ畑での過酷な労働、メキシコの都市での家事労働や職人仕事など、彼らが従事させられた労働は多岐にわたりました。彼らは法的には動産と見なされ、所有者の意のままに売買され、罰せられ、殺されることさえありました。
アシエント制度は、このように大陸をまたぐ巨大で冷徹なシステムであり、人間の命を単なる「商品」として計算し、輸送し、販売するメカニズムでした。その運営には、国家の権威、国際金融、そして無数の個人の欲望が関わっていましたが、その土台にあったのは、暴力による強制と、人間の尊厳の完全な否定でした。
アシエントと密貿易
アシエント制度の歴史を語る上で、密貿易(コントラバンド)の問題を避けて通ることはできません。公式な奴隷供給契約であったアシエントは、その黎明期から終焉に至るまで、常に大規模な密貿易の隠れ蓑として機能し続けました。実際、多くの場合、アシエント契約者が密貿易から得る利益は、合法的な奴隷貿易から得られる利益をはるかに上回っていました。アシエントと密貿易は、いわばコインの裏表の関係にあり、スペイン帝国の商業独占体制を内部から侵食し、その衰退を早める一因となったのです。
スペインの商業独占体制(カレラ・デ・インディアス)
アシエントと密貿易の関係を理解するためには、まずスペインが築いた厳格な商業独占体制について知る必要があります。スペイン・ハプスブルク朝は、アメリカ植民地からもたらされる莫大な富(特に銀)を独占するため、「カレラ・デ・インディアス」と呼ばれる閉鎖的な貿易システムを構築しました。このシステムの下では、植民地とのすべての貿易は、セビリア(後にカディス)の港を通じて、商務院の厳格な管理下で行われなければなりませんでした。年に一度(後には不定期)、護送船団(フロータ)がスペインから植民地へ商品を運び、帰路で銀やその他の産物を持ち帰るという、高度に中央集権化された体制でした。
この体制は、外国の商人がスペイン領アメリカ市場に直接アクセスすることを固く禁じていました。しかし、スペイン本国の工業生産力は低く、植民地の旺盛な需要を満たすだけの質と量の商品を供給することができませんでした。その結果、植民地ではヨーロッパの商品が常に不足し、価格は高騰しました。この公式ルートの非効率性と供給不足が、密貿易が繁栄するための肥沃な土壌となったのです。
アシエントが密貿易の温床となった理由
アシエントは、この鉄壁のはずの独占体制に、合法的な風穴を開ける役割を果たしました。アシエント契約者は、奴隷を輸送するという名目で、自らの船をスペイン領アメリカの港に入れる公式な許可を持っていました。この特権が、密貿易を行うための絶好の機会を提供したのです。
奴隷船への商品の積載: 奴隷船は、奴隷を運ぶだけでなく、船倉の空きスペースにヨーロッパの工業製品(織物、金属製品、酒類など)を大量に忍び込ませていました。港に到着すると、これらの商品は、買収された役人の黙認の下、奴隷とともに陸揚げされ、闇市場で高値で取引されました。
帰路での植民地産品の密輸出: 密輸品を売りさばいた代金は、公式ルートでは課税対象となる銀や、タバコ、カカオ、真珠、染料といった植民地の貴重な産物で支払われました。これらの産品は、再び奴隷船に積み込まれ、セビリアやカディスを迂回して、直接アムステルダム、ロンドン、リスボンといったヨーロッパの商業都市へと運ばれました。これにより、スペイン王室が徴収するはずだった税金は、完全に回避されました。
商館(ファクトリー)の役割: アシエンティスタが植民地の主要港に設置した商館は、単なる奴隷販売の拠点ではなく、密貿易ネットワークの中核でした。駐在する商館員(ファクター)は、現地の商人やプランターと緊密な関係を築き、彼らの需要を把握し、商品の受け渡しや代金の回収を行いました。彼らはまた、植民地総督から下級役人に至るまで、幅広い層の当局者を買収し、密貿易活動への協力を取り付けました。
年次船の悪用: 特にイギリス南海会社の時代には、ユトレヒト条約で認められた「年次船」の権利が、大規模な密貿易のために組織的に悪用されました。公式には500トンの積載制限がありましたが、実際には、港の沖合で待機させた補給船から夜間に次々と荷物を補充する「忍び寄り」という手口で、規定の何倍もの商品を販売しました。これは公然の秘密であり、スペイン当局との間で絶え間ない紛争の原因となりました。
密貿易の担い手と拠点
アシエント契約者自身が密貿易の主役でしたが、彼らと競合し、あるいは協力する形で、様々な国の商人たちが密貿易に従事しました。ポルトガル商人は、アシエントを独占していた時代、ブエノスアイレスを拠点に、ペルーのポトシ銀山から産出される銀を、ラ・プラタ川を経由してブラジルへと密輸出する巨大なルートを確立しました。
オランダは、カリブ海のキュラソー島を一大密貿易基地へと発展させました。オランダ西インド会社は、ここからスペイン領の沿岸部(ティエラ・フィルメ)へ、奴隷やヨーロッパ製品を組織的に供給しました。イギリスはジャマイカを、フランスはイスパニョーラ島の西半分(サン=ドマング)を拠点として、同様の活動を展開しました。これらの外国領の島々は、スペイン帝国の脇腹に突きつけられた匕首のように機能し、帝国の商業独占を蝕んでいきました。
密貿易が与えた影響
大規模な密貿易は、スペイン帝国に深刻な影響を及ぼしました。第一に、王室の財政収入に壊滅的な打撃を与えました。本来ならばセビリア経由の公式貿易に課されるはずだった莫大な税収が、密貿易によって失われました。これは、常に財政難に苦しんでいたスペインの国力をさらに弱めることになりました。
第二に、スペイン本国の産業を衰退させました。安価で質の高いイギリス、オランダ、フランスの工業製品が密輸によって植民地市場に溢れたため、競争力のないスペインの製造業は立ち行かなくなりました。植民地は経済的にますます外国に依存するようになり、帝国の一体性は失われていきました。
第三に、植民地における法の支配と王室の権威を著しく損ないました。密貿易は、植民地の役人の腐敗を蔓延させ、住民の間に法を軽視する風潮を生み出しました。植民地のエリート層(クリオーリョ)は、密貿易を通じて外国の商人と直接的な経済関係を築き、本国に対する経済的・心理的な自立性を高めていきました。これは、後の19世紀初頭の独立運動につながる遠因の一つともなりました。
アシエントはスペイン帝国が自らの弱点を補うために導入した制度でしたが、皮肉にもその制度自体が、帝国の根幹である商業独占体制を破壊するトロイの木馬となりました。合法的な奴隷貿易と非合法な商品貿易は分かちがたく結びつき、大西洋経済のダイナミズムを生み出す一方で、スペイン帝国の衰退を決定づける重要な要因となったのです。