『世界の記述』の歴史的座標
マルコ=ポーロの『世界の記述』、一般的には『東方見聞録』として知られるこの書物は、13世紀のヴェネツィア共和国出身の商人、マルコ=ポーロが、父ニッコロと叔父マッフェオと共にアジア大陸を横断し、モンゴル帝国、特にクビライ=カアンが統治する元朝の中国で約17年間滞在した際の経験を記録した旅行記です。この書物は、当時のヨーロッパ人にとってほとんど未知であった東洋の地理、文化、産物、社会制度、そして驚異的な富について、具体的かつ体系的な情報を提供しました。その内容は、中世ヨーロッパの世界観に根底的な変革を迫り、地理的知識の飛躍的な拡大を促し、後の大航海時代の到来に決定的な影響を与えることとなりました。
『世界の記述』の成立背景
『世界の記述』という書物の価値を正しく理解するためには、その著者であるマルコ=ポーロの生涯、彼を育んだヴェネツィアという都市国家の特性、そして彼が生きた13世紀という激動の時代背景を多角的に把握することが不可欠です。
マルコ=ポーロの生涯と旅の始まり
マルコ=ポーロは1254年、アドリア海の女王と称された海洋国家、ヴェネツィア共和国の裕福な商人一家に生を受けました。彼の父ニッコロと叔父マッフェオは、レヴァント貿易(東方貿易)に従事する経験豊かな商人であり、すでに東方世界との交易で大きな成功を収めていました。彼らは、単なる商品の売買に留まらず、異文化への深い知識と国際的な政治情勢に対する鋭い感覚を兼ね備えた、当時のヴェネツィア商人の典型でした。
マルコが生まれる直前の1253年、ポーロ兄弟はヴェネツィアのコンスタンティノープル商館を拠点として、さらなる東方への交易路開拓を目指していました。1260年、彼らはコンスタンティノープルからクリミア半島の港湾都市スーダクを経て、ヴォルガ川下流域に広がるモンゴル帝国の一部、ジョチ=ウルスの支配者であるベルケ=ハンのもとを訪れました。しかし、ジョチ=ウルスと西アジアを支配するイル=ハン国との間で戦争が勃発したため、彼らは帰路を絶たれ、さらに東へと進むことを余儀なくされます。この偶然が、彼らを歴史の表舞台へと導くことになりました。
ブハラで3年間を過ごした後、彼らはイル=ハン国の君主フレグから、モンゴル帝国全体の大ハーンであるクビライ=カアンの宮廷へ向かう使節団と出会い、同行を勧められます。こうしてポーロ兄弟は、ヨーロッパ人として初めて、モンゴル帝国の最高権力者であるクビライ=カアンと謁見する機会を得たのです。
ニッコロとマッフェオはクビライ=カアンに大いに歓待されました。カアンは、彼らが語るヨーロッパの政治体制、社会、そして特にローマ教皇を中心とするキリスト教世界について、極めて強い知的好奇心を示しました。カアンは、ポーロ兄弟をローマ教皇への公式な使者として任命し、ヨーロッパの「七つの学芸」(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽)に通じた100人のキリスト教の賢者を連れてくること、そしてエルサレムの聖墳墓教会に灯るランプの聖油を持ち帰ることを依頼しました。これは、カアンがキリスト教を含む世界の諸宗教に対して寛容であり、またその教義や知識を自らの帝国の統治に役立てようとしていたことを示す重要な証拠です。
1269年、ポーロ兄弟はローマ教皇領のアッコン(現在のイスラエル)を経由してヴェネツィアに帰還しました。この時、父ニッコロは、自分が旅に出た後に生まれた息子マルコと初めて対面しました。当時マルコは15歳でした。
2年後の1271年、ニッコロとマッフェオは、17歳になった感受性豊かな青年マルコを伴い、再びアジアへの壮大な旅に出発しました。これが、後に『世界の記述』として記録される、人類史上最も有名な旅の始まりです。彼らの旅の目的は、単なる商業的な利益の追求に留まらず、クビライ=カアンから託された外交的・文化的使命を帯びたものであり、この公的な性格が、彼らの旅を特別なものにしました。
アジアへの壮大な旅路
ポーロ一家の二度目のアジアへの旅は、往路だけで3年半から4年の歳月を要する、困難を極めるものでした。彼らの旅程は、陸路と海路を巧みに組み合わせたものであり、その詳細な記録は、当時のユーラシア大陸の交通網を理解する上で極めて貴重な資料となっています。
ヴェネツィアを出発した一行は、まず地中海を東に進み、十字軍国家の最後の拠点であったアッコンに上陸しました。ここで彼らは、新教皇グレゴリウス10世からクビライ=カアンへの返書と、依頼された100人の賢者の代わりに2人のドミニコ会修道士を託されますが、修道士たちは旅の過酷さを恐れて途中で引き返してしまいました。
アッコンから陸路に入った彼らは、まず小アルメニア、トルコを経由して、イル=ハン国が支配するペルシャ(現在のイラン)へと向かいました。マルコは、ペルシャの都市タブリーズやヤズドの繁栄、そしてそこで生産される絹織物や絨毯について詳細に記述しています。その後、彼らは「世界の屋根」と称されるパミール高原を越え、タクラマカン砂漠の南縁に沿って続くシルクロードのオアシス都市、ヤルカンド、ホータン、ロプノールなどを経由しました。この地域は、盗賊の出没や厳しい自然環境など、旅人にとって危険に満ちた場所であり、マルコはゴビ砂漠を横断する際の幻覚や幻聴といった超自然的な体験についても言及しています。
約4年間の苦難の旅の末、1275年頃、ポーロ一家はついにモンゴル帝国が夏を過ごす首都、上都(ザナドゥ)に到着し、クビライ=カアンとの再会を果たしました。カアンは彼らを温かく迎え入れ、特に若きマルコに強い関心を示しました。マルコは、その明晰な頭脳、鋭い観察眼、そして驚異的な語学の才能(ペルシャ語やモンゴル語を含む4つの言語を習得したとされます)によって、瞬く間にカアンの信頼を勝ち取りました。
カアンは、地方に派遣した官吏たちが、任務に関する型通りの報告しかしないことに不満を抱いていました。そこで、マルコを自らの勅使、すなわち個人的な情報収集官として抜擢し、帝国の様々な地域へ派遣しました。この特別な任務を通じて、マルコは元朝中国の広大な領土を旅する比類なき機会を得ました。彼の足跡は、雲南、四川といった南西部の辺境地帯から、ビルマ(現在のミャンマー)、さらには外交使節としてインド、チベット、ベトナム、スリランカといった東南アジア・南アジアの諸国にまで及びました。これらの旅で得た見聞が、『世界の記述』の豊かで具体的な内容の源泉となったのです。
ポーロ一家は、約17年間にわたって中国に滞在し、カアンの厚遇のもとで莫大な富を築きました。しかし、彼らの庇護者であったクビライ=カアンが高齢になるにつれ、カアンの死後に起こりうる政変によって自分たちの安全と財産が脅かされることを懸念し、故郷ヴェネツィアへの帰国を強く望むようになります。カアンは彼らを手放すことを惜しみました が、1292年頃、絶好の機会が訪れます。ペルシャを治めるイル=ハン国の君主アルグンが、モンゴルの皇女コカチンを妃として迎えたいと要請してきたのです。陸路の治安が悪化していたため、皇女を海路で安全に送り届ける護衛役として、海洋航海の経験が豊富なポーロ一家に白羽の矢が立ちました。
帰路は主に海路を利用しました。中国南部の国際貿易港、泉州(ザイトン)から14隻の大船団で出発し、チャンパ(ベトナム南部)、シンガポール海峡、スマトラ島、スリランカ、インドのマラバール海岸とコロマンデル海岸を経由して、ペルシャ湾のホルムズに到着しました。この2年以上に及ぶ航海は、多くの船員を失う過酷なものでしたが、マルコにインド洋沿岸の諸地域の文化や産物に関する貴重な情報をもたらしました。ホルムズで皇女一行をイル=ハン国の宮廷に引き渡した後、ポーロ一家は陸路で黒海沿岸のトラブゾンへ向かい、そこから船でコンスタンティノープルを経て、1295年にヴェネツィアに帰還しました。出発から実に24年という歳月が経過していました。
『世界の記述』の執筆経緯
ヴェネツィアに帰還して3年後の1298年、ヴェネツィアとその長年のライバルであったジェノヴァ共和国との間で海戦(クルツォラ戦争)が勃発しました。マルコ=ポーロは、一説にはガレー船の司令官としてこの戦いに参加し、敗北してジェノヴァの捕虜となってしまいます。彼はジェノヴァの牢獄に収監されることになりましたが、この不幸な出来事が、結果的に人類史に残る傑作を生み出すきっかけとなりました。
牢獄で、マルコは同じく囚人であったピサ出身の物語作家、ルスティケロ=ダ=ピサと出会いました。ルスティケロは、アーサー王伝説などの騎士道物語を執筆することで知られていた人物です。マルコは、牢獄での退屈を紛らわすためか、あるいは自らの類稀な経験を後世に伝えたいという強い思いからか、24年間にわたるアジアでの冒険と見聞をルスティケロに口述し始めました。ルスティケロは、その物語の壮大さと重要性を即座に理解し、それを書き留める作業に取り掛かりました。こうして、一人の経験豊かな商人の記憶と、一人の物語作家の筆とが出会うことによって、『世界の記述』は誕生したのです。
この書物は1298年から1299年にかけて執筆され、当初は『世界の驚異の書』(Livre des Merveilles du Monde)や『世界の記述』(Devisement du Monde)といった題名で知られていました。原本は、当時の北イタリアで文学言語として用いられていたフランコ=イタリア語(フランス語の語彙とイタリア語の文法が混ざった言語)で書かれたとされていますが、残念ながら現存していません。今日我々が目にすることができるのは、トスカーナ方言、ヴェネツィア方言、ラテン語、フランス語など、様々な言語に翻訳・写本された約150種類の異本です。これらの写本は、写字生による誤記、意図的な加筆や削除、翻訳の際の解釈の違いなどにより、内容にかなりの差異が見られます。そのため、どの写本が最も原文に近いのか、そして原文はどのような内容だったのかを再構築することは、文献学における重要な研究課題となっています。
マルコは1299年に釈放され、ヴェネツィアで裕福な商人として尊敬を集めながら静かな晩年を送り、1324年に70歳でその生涯を閉じました。彼の死の床で、友人たちが「書物に記した多くの『作り話』を、神に赦しを請うために撤回してはどうか」と勧めた際、マルコは「私は、自分が見たことの半分も語ってはいないのだ」と答えたという逸話は、彼の体験の信憑性と、この書物が持つ情報の膨大さを象徴するものとして、あまりにも有名です。
『世界の記述』の構成と内容
『世界の記述』は、単なる時系列に沿った自叙伝や冒険譚ではありません。むしろ、マルコが訪れた、あるいは信頼できる情報源から伝え聞いた地域の地理、産物、住民の習慣、宗教、政治・社会制度などを体系的に記述することを目的とした、一種の地理学・民族誌的な百科全書としての性格を強く持っています。その構成は、序章とそれに続く4つの書から成り立っています。
序章:旅の始まりと目的
序章は、この書物の目的と執筆経緯を読者に伝える導入部です。冒頭で、「世界の大小様々な驚異について知りたいと願う皇帝、王、公爵、騎士、市民、そしてあらゆる身分の人々よ、この書物を手に取り、読ませたまえ」と高らかに宣言されます。そして、この書物が「ヴェネツィアの賢明で高貴な市民、マルコ=ポーロ」が自らの目で見たこと、そして他人から聞いた信頼できる事柄を、嘘偽りなく明確に述べたものであると保証しています。
続いて、マルコがジェノヴァの牢獄でルスティケロに旅の物語を口述した経緯が説明されます。これは、書物の信憑性を高めるための修辞的な工夫とも考えられます。
さらに、マルコの父ニッコロと叔父マッフェオによる最初の東方旅行(1260年〜1269年)についても詳述されています。彼らがクビライ=カアンの宮廷に招かれ、カアンからローマ教皇への使者として、100人のキリスト教の賢者を連れてくるよう依頼されたことが記されており、これがマルコを伴った二度目の旅の直接的な動機となったことが示されています。この序章は、物語全体の導入として、旅の壮大さとその公的な目的を読者に印象付け、これから語られる驚異的な内容への期待感を高める重要な役割を果たしています。
中東から中央アジアへの旅路
第1書は、ポーロ一家がヴェネツィアを出発し、モンゴル帝国の上都に至るまでの往路で通過した中東および中央アジアの諸地域について記述しています。その記述は、地理的な順序に従って体系的に整理されています。
マルコは、各地域の地理的特徴、主要な都市、特産物、そして住民の宗教や生活様式に鋭い観察眼を向けています。例えば、アルメニアでは、旧約聖書に登場するノアの箱舟が漂着したとされるアララト山について言及し、ペルシャでは、キリスト誕生の際に贈り物を携えて訪れた東方の三博士の墓とされる場所について記述しています。
商人としての彼の関心は、各地の経済活動にも向けられています。彼は、ペルシャ湾のホルムズがインドからの香辛料や宝石が集まる重要な交易拠点であること、バダフシャン(現在のアフガニスタン北東部)で産出される最高級のラピスラズリや、スピネル(当時はルビーの一種と考えられていた)について記録しています。
特に注目すべきは、科学的な視点からの記述です。マルコは、新疆ウイグル自治区で産出される鉱物であるアスベスト(石綿)について、火に入れても燃えない布を作ることができると述べ、当時ヨーロッパで信じられていた伝説上の火に耐える動物「サラマンダー」の正体が、この鉱物繊維であることを西洋の文献として初めて正確に報告しました。また、バクー(現在のアゼルバイジャン)周辺で湧き出る石油についても、燃やすための燃料や、ラクダの皮膚病の治療薬として用いられていることを記録しており、これも西洋の文献における石油に関する初期の貴重な記録の一つです。
この書では、旅の途上で遭遇する様々な困難、例えばカラウナスと呼ばれる盗賊団の危険や、砂漠の厳しい自然環境についても触れられています。これらの記述は、旅のリアリティを高めると同時に、シルクロードが単なるロマンチックな交易路ではなく、常に危険と隣り合わせの過酷な道であったことを伝えています。
中国とクビライ=カアンの宮廷
第2書は、『世界の記述』の全体量の半分以上を占める中核部分であり、マルコが最も長く滞在した中国(当時は北方をカタイ、南方をマンジと呼んでいました)と、その支配者であるクビライ=カアンの宮廷について、驚くほど詳細に記述しています。
まず、クビライ=カアンとその宮廷についてです。マルコは、クビライ=カアンを「アダムの創造以来、今日に至るまで、かつて存在したあらゆる君主の中で、最も強大で、最も広大な領土と財宝を所有する人物」と最大級の賛辞で称えています。彼は、カアンの冬の居城である大都(カンバルク、現在の北京)の宮殿の壮麗さについて、具体的な寸法を挙げて記述しています。宮殿を囲む城壁は一辺が1マイルの正方形で、その内部には武器庫や行政機関として機能する壮麗な建物が幾何学的に配置されていたと述べています。宮殿の屋根は赤、緑、青、黄など色鮮やかな瓦で葺かれ、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていたと描写しています。
また、カアンの私生活や統治体制についても詳細に触れています。カアンには4人の正妻と数多くの側室がおり、それぞれが独自の宮廷を持っていたこと、22人の息子たちがそれぞれ広大な領地を治める有能な君主であったことなどを記しています。マルコは、カアンの誕生日や新年に宮廷で開催される盛大な祝宴の様子や、その食卓の作法、カアンが鷹狩りや狩猟を楽しむ様子についても生き生きと描写しており、読者をモンゴル皇帝の華麗な世界へと誘います。
次に、元朝の社会と経済についてです。マルコは、元朝中国の高度に発達した社会システムに深い感銘を受けています。特に、ヨーロッパではまだ全く普及していなかった紙幣(交鈔)の存在は彼を驚かせました。彼は、その製造過程(桑の木の皮の内側の繊維から作られること)、皇帝の印璽が押されること、そして帝国内のあらゆる場所で強制的に通用し、金や銀と交換可能であるという洗練されたシステムについて詳細に報告しています。彼はこのシステムを「偉大なるカアンは、まさに完璧な錬金術を心得ている」と表現し、これがカアンの無限とも思える富の源泉であると正しく見抜きました。
石炭の使用についても、ヨーロッパ人には未知の「燃える黒い石」として紹介しています。彼は、中国の人々がこの石を薪のように燃やし、毎日熱い風呂に入る習慣があることに驚きを記しています。これは、ヨーロッパにおけるエネルギー利用の歴史を考える上で非常に興味深い記述です。
さらに、帝国の隅々まで張り巡らされた駅伝制度(ジャムチ、ポスタルシステム)の効率性にも驚嘆しています。約25マイルごとに宿駅が設けられ、常に40万頭もの馬が待機しており、皇帝の使者は1日に250マイル以上も移動することができたと述べています。この驚異的な情報伝達・交通網が、広大なモンゴル帝国を統合し、支配するための神経系として機能していたことを、マルコは的確に理解していました。
そして、都市の繁栄についてです。マルコは、自身が訪れた中国の諸都市の規模と繁栄ぶりを、具体的な数字を挙げて記述しています。例えば、彼が総督を務めたと主張する揚州、そして南宋の旧都であった杭州(キンサイ)については、「天上の楽園」とまで称賛し、「世界で最も壮麗で高貴な都市」であり、12,000もの石橋がかかっていると述べています。その湖の美しさ、豊かな商業活動、そして住民の洗練された生活を描写しています。また、帰路に出発した港である泉州(ザイトン)は、インドからの香辛料や宝石が集まる世界最大の国際貿易港の一つとして、その圧倒的な物流量と繁栄ぶりを伝えています。揚子江を行き交う船の数の多さにも言及し、ある港では15,000隻もの船が見られたと記しています。これらの記述は、当時の中国の経済力と都市文明の水準が、同時代のヨーロッパを遥かに凌駕していたことをヨーロッパに伝えるものでした。
日本、東南アジア、インド、アフリカ東岸の記述
第3書では、マルコが中国からの帰路の航海で直接訪れた、あるいはペルシャ商人などから伝え聞いたアジアの沿岸地域や島々について記述されています。その範囲は、日本(ジパング)から東南アジア、インド、さらにはアフリカ東岸にまで及びます。
まず、日本(ジパング)についてです。マルコは日本を直接訪れてはいませんが、中国で得た情報をもとに「黄金の国ジパング」として紹介しています。彼は、日本の君主が住む宮殿は屋根がすべて純金で葺かれており、床や部屋も厚さ2本の指ほどの純金の板で覆われていると述べ、その莫大な富について誇張を交えて記述しました。また、人々が偶像崇拝者であること、死者を火葬または土葬にすること、そして真珠が豊富に産出されることなども記しています。この「黄金の国」の伝説は、後の時代の探検家、特にクリストファー=コロンブスに強烈なインスピレーションを与え、彼が西廻り航路でアジアを目指す直接的な動機の一つとなりました。
次に、インドと東南アジアについてです。帰路の航海で立ち寄ったインドやスマトラ島などについても、その地域の物産や人々の風習が詳細に記録されています。コショウ、ナツメグ、クローブといった香辛料、ダイヤモンドやルビーといった宝石、そして藍などの染料といった、ヨーロッパ人が渇望した商品がどこで産出されるかについて、商人らしい正確さで記されています。
また、珍しい動植物に関する記述も豊富です。例えば、スマトラ島で見たサイを、角が一本あることから、ヨーロッパの伝説上の一角獣(ユニコーン)であると誤認したという記述は有名です。ただし、彼は「その姿は我々が想像するようなものではなく、水牛に似ており、泥の中にいるのを好む醜い獣だ」と正直に付け加えており、彼の観察の誠実さを示しています。
インドのバラモン僧の禁欲的な生活や、特定の地域で行われている奇妙な風習(例えば、債務者が債権者の周りに円を描き、債務が返済されるまでその円から出られないようにする習慣など)についても言及しており、民族誌的な価値も高いです。
モンゴル諸部族間の戦争と北方地域
第4書は、これまでの地理的な記述とは異なり、マルコが中国に滞在していた時期に起こったモンゴル諸部族間の内戦や、ロシアを含むユーラシア大陸の北方地域について記述しています。この部分は、他の書に比べて物語的な要素が強く、クビライ=カアンとその甥であるカイドゥとの間の長年にわたる戦争の様子などが、戦闘の描写を交えて生き生きと描かれています。
この書の内容は、モンゴル帝国が決して一枚岩ではなく、内部に深刻な対立を抱えていたことをヨーロッパ人に伝える上で重要な役割を果たしました。また、シベリアの広大な森林地帯や、そこで暮らす人々の毛皮交易、犬ぞりを使用する習慣など、ヨーロッパ人には全く知られていなかった北方世界の様子を垣間見せてくれます。
『世界の記述』の歴史的意義と後世への影響
『世界の記述』は、発表当初からその内容の信憑性を疑われることもありましたが、その影響はヨーロッパ社会の様々な側面に及び、中世から近代への移行期において、ヨーロッパの世界観を根底から覆し、その後の歴史に多大な影響を与えました。
地理的知識の拡大と地図製作への貢献
マルコ=ポーロの記述以前、ヨーロッパ人が持っていたアジアに関する地理的知識は、古代ギリシャ・ローマ時代のプトレマイオスの『地理学』や、聖書に基づく伝説、そしてごく少数の旅行者の断片的な報告に依存しており、非常に曖昧で不正確なものでした。『世界の記述』は、パミール高原から中国、東南アジア、インドに至る広大な地域の何百もの都市、山脈、河川、交易路、そしてそれらの間の相対的な位置関係について、前例のないほど具体的かつ詳細な情報を提供しました。
これらの情報は、14世紀後半以降の地図製作者たちにとって、まさに宝の山でした。彼らは、マルコが記述した地名を地図上にプロットし、アジア大陸の輪郭を劇的に修正しました。その最も顕著な例が、1375年にマヨルカ島で作成された豪華な世界地図『カタルーニャ地図』です。この地図には、カタイ(中国北部)、マンジ(中国南部)、カンバルク(北京)、ザイトン(泉州)といったマルコが用いた地名が明確に記されており、アジアの描写はそれ以前の地図とは比較にならないほど詳細になっています。また、15世紀にヴェネツィアで制作されたフラ=マウロの世界図も、『世界の記述』から多大な影響を受けています。このようにして、ヨーロッパの地図は飛躍的に正確性を増し、世界はより広大で、相互に連結された空間であるという新しい認識が知識人層に広まっていきました。
大航海時代への決定的な影響
『世界の記述』が描いた東洋の計り知れないほどの富、特に「屋根が黄金でできている」とされたジパング(日本)や、香辛料と宝石に満ちたインドの伝説は、ヨーロッパ人の想像力を強く刺激し、東方世界への渇望をかき立てました。当時、ヴェネツィアやジェノヴァが独占していたイスラム商人経由の香辛料貿易は、莫大な利益を生む一方で、価格が非常に高騰していました。そのため、ポルトガルやスペインといった新興国は、イスラム世界を介さずに東方と直接交易するルートを開拓しようとする強い野心に燃えていました。『世界の記述』は、その目的地の魅力を具体的に示すことで、この野心に火をつけ、大航海時代の到来を促す大きなイデオロギー的要因の一つとなったのです。
その最も有名な例は、ジェノヴァ出身の探検家、クリストファー=コロンブスです。現存するコロンブス所蔵の『世界の記述』(ラテン語版)には、彼の自筆による多くの書き込みが余白に残されており、彼がこの書物をいかに熟読し、自らの航海計画の理論的支柱としていたかが分かります。コロンブスは、地球球体説に基づき、マルコが記述したアジア大陸の東端とヨーロッパの西端は、広大な大洋を隔てて比較的近い距離にあると信じました。彼は、西へと航海することで、マルコが語った豊かなカタイや黄金の国ジパングに到達できると確信し、スペイン女王イサベルを説得して航海の支援を取り付けました。結果的に彼が到達したのはアメリカ大陸でしたが、彼の航海の第一の目的がアジアであったことは間違いありません。このように、『世界の記述』は、ヨーロッパ人の地理的想像力をかき立て、未知の世界へと乗り出させる強力な動機付けとなったのです。
ヨーロッパ人の東洋観の根底的変革
マルコ=ポーロ以前にも、プラノ=カルピニやウィリアム=ルブルックといった教皇使節がモンゴル帝国を訪れ、その報告書をヨーロッパにもたらしていました。しかし、彼らの報告では、モンゴル人はしばしばキリスト教世界の脅威となる野蛮で恐ろしい「タタール人」として描かれる傾向がありました。
これに対し、『世界の記述』は、モンゴル人が支配する元朝中国の、洗練された都市文明、高度な統治システム、そして驚異的な経済的繁栄を、賛嘆の念をもって詳細に伝えました。紙幣、石炭、効率的な駅伝制度、壮大な運河網、そしてヨーロッパのどの都市よりも巨大で清潔な都市の存在など、マルコが報告した事柄の多くは、当時のヨーロッパ人の常識を遥かに超えるものでした。
これらの記述は、ヨーロッパ人に大きな知的衝撃を与えました。それは、ヨーロッパが世界の文明の中心ではなく、東方には自分たちと同等か、あるいは特定の側面においてはそれ以上に進んだ文明が存在するという厳然たる事実を突きつけるものでした。この書物は、ヨーロッパ中心主義的な世界観に再考を迫り、異文化に対する一方的な偏見を相対化し、より客観的な好奇心と寛容さを育む上で、計り知れないほど重要な役割を果たしたと言えます。
信憑性をめぐる歴史的議論とその現代的評価
『世界の記述』は、その発表当初から多くの読者に驚きをもって迎えられた一方で、その内容の信憑性については常に議論の的となってきました。そのあまりに驚異的な内容から、読者の中にはこれを単なるロマンスや「イル=ミリオーネ(百万の嘘)」と揶揄し、作り話と見なす者も少なくありませんでした。
近代以降も、歴史家たちの間でその真実性をめぐる論争が続いています。懐疑論の主な論拠としては、以下の点が挙げられます。まず、重要な事柄の欠落です。マルコは、当時の中国を象徴するような事物、例えば万里の長城、漢字、茶、箸、そして女性の纏足といった習慣について、一切言及していません。次に、公的記録の不在です。マルコは自身がクビライ=カアンの高官(例えば揚州の総督)であったと主張していますが、膨大な記録が残る中国側の公的な歴史書(『元史』など)には、彼の名前やポーロ一家に関する記述が一切見当たりません。これらの点から、一部の研究者(例えばフランシス=ウッド)は、マルコは実際には中国に到達しておらず、黒海やペルシャの交易拠点などで他の商人から聞いた話を、自身の体験であるかのように語ったのではないか、という大胆な説を提唱しています。
一方で、これらの懐疑論に対する有力な反論も数多く存在します。まず、欠落事項の説明です。万里の長城については、マルコが滞在した元朝の時代には、その多くが荒廃しており、モンゴル支配下の平和な時代においては軍事的な重要性を失っていたため、特筆すべき対象とは見なされなかった可能性があります。茶や纏足は、彼が主に関わったモンゴル人や支配者層の文化ではなく、漢民族の庶民の習慣であったため、深く知る機会がなかったとも考えられます。箸については、フォークがまだ普及していなかった当時のヨーロッパ人にとって、特筆すべき奇異な習慣とは映らなかったのかもしれません。
次に、記述の驚くべき正確性です。マルコが記述した多くの事柄、特に紙幣や石炭、塩の専売制度、駅伝制度といった社会システムに関する記述は、その後の研究によって、中国側の史料と照らし合わせても極めて正確であることが確認されています。彼の記述は、同時代の他の旅行者の記録と比較しても、誇張や誤りが少なく、商人らしい実証的な観察眼の鋭さを示しています。
最後に、間接的な証拠の存在です。1940年代に発見されたペルシャの歴史家ラシードゥッディーンの『集史』には、マルコ=ポーロの名前こそないものの、彼が護衛したとされる皇女コカチンのペルシャへの旅に関する記録があり、その船団の構成や航海の時期、旅の途中で亡くなった高官の名前などが、マルコの記述と驚くほど一致することが指摘されています。
結論として、マルコの記述には、記憶違いや、特に数字に関する誇張、あるいは共著者であるルスティケロによる文学的な脚色が含まれている可能性は否定できません。彼が主張した官職の地位も、実際よりは誇張されていたかもしれません。しかし、彼の旅の基本的な行程や、彼が報告したアジア社会の核心部分の多くは事実に基づいており、『世界の記述』は、批判的な視点を持って注意深く利用すれば、13世紀のアジアに関する本質的に信頼できる第一級の歴史資料であるというのが、多くの研究者による現代的な評価です。マルコは、想像力豊かな作家というよりは、驚異的な記憶力と鋭い観察力を持った稀代の旅行者であり、彼が仕えたクビライ=カアンとその偉大な帝国に対して、深い敬意と忠誠心を持っていたと考えられています。