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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

クスコとは わかりやすい世界史用語2297

著者名: ピアソラ
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クスコとは

クスコは、ペルー南東部に位置する都市であり、アンデス山脈のワタナイ川流域に広がっています。 標高約3,400メートルに位置し、かつて広大なインカ帝国の首都として栄えました。 その歴史的重要性から、1983年にユネスコによって「クスコ市街」として世界遺産に登録され、南米大陸における考古学的首都とも称されています。 この都市は、インカ文明の栄華とその後のスペイン植民地時代の変遷を物語る、生きた博物館としての役割を担っています。インカ帝国時代、クスコはタワンティンスウユ、すなわち「四つの地方」として知られる帝国の政治、行政、軍事、そして宗教の中心地でした。 伝説によれば、初代インカ皇帝マン コ・カパックによって創設されたこの都市は、聖なる動物であるピューマの形を模して計画されたと信じられています。 15世紀の皇帝パチャクティの治世下で、クスコは小規模な都市国家から大帝国の首都へと変貌を遂げ、その都市計画は他のインカの拠点でも模倣されるほどの影響力を持ちました。
クスコの地理的条件は、その発展において重要な役割を果たしました。肥沃な谷に位置し、複数の川から水を得られるこの地は、農業に適しており、インカ以前の時代から人々が定住していました。 気候は亜熱帯高地気候に分類され、乾季と雨季の二つの明確な季節が存在します。 乾季は4月から9月にかけてで、日照に恵まれる一方、夜間には霜が降りることもあります。 雨季は10月から3月で、温暖な気温と豊富な降雨が特徴です。 また、クスコは地球上で最も平均紫外線レベルが高い居住地の一つとしても知られています。
インカ帝国以前、この地域にはキルケ文化が栄えていました。 900年から1200年頃にかけて活動したキルケの人々は、クスコ郊外の要塞サクサイワマンの基礎を築いたとされています。 放射性炭素年代測定により、サクサイワマンの建設が紀元1100年頃にキルケ文化によって行われたことが示されており、インカ人は13世紀にこの地を拡張し、占有したと考えられています。
インカ時代、クスコは宇宙観の中心地、すなわち「世界のへそ」と見なされていました。都市は聖なる川であるサピ川とトゥルマヨ川に囲まれ、これら二つの川は都市計画において巧みに水路化されました。 都市構造は、上部のハナン地区と下部のフリン地区に二分され、それぞれが帝国の四つの行政区画、すなわちチンチャイスーユ(北西)、アンティスーユ(北東)、クンティスーユ(南西)、コジャスーユ(南東)のうちの二つを内包していました。 各地区からは、帝国の対応する地方へと続く道が伸びており、クスコが帝国の広大な領域を結ぶ結節点であったことを示しています。
1533年、フランシスコ・ピサロ率いるスペインのコンキスタドール(征服者)がクスコに到着し、インカ帝国は終焉を迎えます。 スペイン人は都市を略奪し、多くのインカ時代の建造物を破壊しましたが、その基礎構造は維持し、その上にバロック様式の教会や宮殿を建設しました。 この結果、クスコはインカの精緻な石造建築と、スペイン植民地時代の華麗な建築が融合した、他に類を見ない都市景観を持つに至りました。 この歴史の重層性こそが、クスコの持つ普遍的な価値の核心をなしています。



インカ帝国以前のクスコ:キルケ文化の遺産

インカ帝国がその壮大な首都を築く以前、クスコの谷には先行する文化が存在していました。考古学的調査により、紀元900年から1200年にかけてこの地域を占有していたキルケ文化の存在が明らかになっています。 インカの歴史はしばしば13世紀のマン コ・カパックによる建国から語られますが、クスコの都市としての基盤は、それ以前の時代にまで遡ることができるのです。キルケ文化は、インカ人がこの地に到着する前の時代に、クスコ周辺で独自の社会を形成していました。 彼らの活動の最も顕著な証拠の一つが、クスコ市街を見下ろす丘に築かれた巨大な要塞、サクサイワマンです。
長年、サクサイワマンはインカ建築の最高傑作としてのみ認識されてきましたが、近年の研究、特に放射性炭素年代測定法を用いた分析により、その建設の起源がインカ時代よりも古いことが判明しました。 2007年に行われた調査では、サクサイワマンの要塞の一部が紀元1100年頃にキルケ文化によって建設されたことが確認されています。 これは、インカ人が13世紀にこの地を占領し、既存の建造物を拡張・再利用して、我々が知る壮大な要塞へと変貌させたことを示唆しています。 したがって、サクサイワマンは単一の文化による創造物ではなく、キルケとインカという二つの文化が重なり合った複合的な遺跡であると言えます。
2008年には、サクサイワマンで更なる発見がありました。考古学者たちは、古代の神殿、道路、そして水道システムの遺跡を発見したのです。 この神殿は約250平方メートルの広さを持ち、内部には11の部屋がありました。これらの部屋は偶像やミイラを安置するために使われたと考えられており、この場所が宗教的な目的を持っていたことを強く示唆しています。 この発見は、キルケ文化が単なる小規模な集落ではなく、高度な建築技術と複雑な宗教体系を持っていた可能性を示しています。彼らは、後のインカ帝国と同様に、この地を聖なる場所として認識していたのかもしれません。
キルケ文化の陶器は、その様式によって特徴づけられます。彼らの土器は、インカの洗練された様式とは異なり、より素朴なデザインが見られますが、クスコ地域における文化の連続性と変遷を理解する上で重要な手がかりとなります。インカ以前の3000年以上にわたる占有の過程を経て、クスコは徐々に都市としての形を整えていきました。 キルケ文化は、その長い歴史の中の一つの重要な段階であり、インカ帝国の壮大な首都が誕生するための土台を準備した文化として評価されるべきです。インカの皇帝パチャクティが都市を再設計した際にも、彼は全くの白紙の状態から始めたのではなく、キルケ文化を含む先行する文化が残した遺産の上に、新たなビジョンを重ね合わせたのです。
このように、クスコの歴史を深く理解するためには、インカ帝国の輝かしい時代だけでなく、その礎を築いたキルケ文化の存在を認識することが不可欠です。彼らが残した建造物や遺物は、インカ人がこの地を選び、壮大な首都を建設するに至った背景を物語っています。サクサイワマンの石垣の下には、インカ以前のクスコの記憶が眠っているのです。

インカ帝国の首都:世界のへそとしてのクスコ

インカ帝国において、クスコは単なる首都以上の存在でした。 それは帝国の政治、行政、軍事、そして宗教の中心であり、インカの世界観においては宇宙の中心、すなわち「世界のへそ」(Qosqo)と見なされていました。 13世紀初頭にマン コ・カパックによって創設されたとされるこの都市は、15世紀の第9代皇帝パチャクティの治世下で、眠れる都市国家からタワンティンスウユとして知られる広大な帝国の首都へと劇的な変貌を遂げました。
インカの伝説によれば、都市の創設には神話的な起源が与えられています。最も有名な伝説の一つは、太陽神インティが自らの子であるマン コ・カパックとママ・オクリョをチチカカ湖から遣わし、黄金の杖が沈む場所に帝国を築くよう命じたというものです。 長い旅の末、杖はクスコの谷の肥沃な大地に沈み、そこが帝国の中心地として定められました。 別の伝説であるアイヤール兄弟の神話もまた、多くの試練と兄弟間の争いの末に、唯一生き残ったアイヤール・マン コがクスコの谷にたどり着き、聖なる都市を創設したと伝えています。 これらの神話は、クスコの創設が神々の意志によるものであり、その地が聖なる運命を帯びていたことを強調しています。
パチャクティによる都市再開発は、クスコの歴史における画期的な出来事でした。 考古学的証拠は、パチャクティ以前から都市が有機的に成長していたことを示唆していますが、彼が壮大な都市計画に基づいてクスコを再設計し、帝国の首都にふさわしい姿へと変貌させたことは間違いありません。 この計画の最も象徴的な特徴は、都市全体が聖なる動物であるピューマの形を模して設計されたという説です。 この都市計画において、サクサイワマンの要塞がピューマの頭部を、中心部の広場ハウカイパタが腹部を、そして二つの川、トゥルマヨ川とワタナイ川がその尾を形成したとされています。 このデザインは、インカの人々が自然界と深く結びつき、都市計画に宇宙論的な意味を込めていたことを示しています。
都市の構造は、インカの社会組織と宇宙観を反映していました。クスコは、上部のハナン地区と下部のフリン地区という二つのセクターに明確に分割されていました。 この二元的な区分は、アンデスの伝統的な社会構造に根差したものでした。さらに、これらのセクターは、帝国を構成する四つの広大な行政区画、すなわちチンチャイスーユ(北西)、アンティスーユ(北東)、クンティスーユ(南西)、コジャスーユ(南東)と結びつけられていました。 ハナンとフリンの各地区は、これら四つの地方のうちの二つをそれぞれ内包し、各地区からは対応する地方へと通じる幹線道路が伸びていました。 このように、クスコは帝国の縮図であり、その中心から広大な領土の隅々までを結ぶ結節点として機能していたのです。
クスコの市内には、壮麗な宮殿、神殿、そして広場が建設されました。 その中でも最も重要で神聖な場所が、太陽の神殿コリカンチャでした。 「黄金の中庭」を意味するこの神殿は、太陽神インティに捧げられ、その壁は純金の板で覆われていたと伝えられています。 コリカンチャは、地理的な中心であっただけでなく、帝国の宗教的中心でもありました。 328の聖地(ワカ)とクスコを結ぶ仮想的な線である「セケ」システムは、コリカンチャを起点として放射状に伸びており、クスコがインカ世界の聖なる地理の中心であったことを物語っています。
クスコはまた、帝国の行政と文化の中心地でもありました。 貴族、神官、そして専門技術を持つ職人たちがこの都市に居住し、帝国の文化的・芸術的な繁栄に貢献しました。 インカの支配者たちは、クスコの谷で特定の特権を享受し、帝国の統治を行いました。 このように、クスコはインカ帝国の権力と信仰、そして文化が凝縮された、まさに「世界のへそ」と呼ぶにふさわしい都市だったのです。

クスコの都市計画と建築:ピューマの都市と精緻な石造技術

インカ帝国の首都クスコの都市計画は、単なる機能性を超えた、深い象徴性と宇宙観に根差したものでした。 特に、15世紀の皇帝パチャクティによって再設計された都市は、聖なる動物であるピューマの形を模して計画されたという説が広く知られています。 この壮大な都市デザインは、インカ文明の高度な計画能力と、自然界や神々との調和を重視する世界観を体現しています。
ピューマの都市という概念では、クスコの主要な建造物や地理的特徴が、ピューマの体の各部位に対応するように配置されています。 市街の北側に位置する巨大な要塞サクサイワマンは、その力強いジグザグの城壁でピューマの頭部を表現しています。 都市の中心に広がるハウカイパタ(現在のアルマス広場)は、ピューマの腹、つまり生命の中心と見なされました。 そして、都市を挟むように流れる二つの川、ワタナイ川とトゥルマヨ川は、ピューマの尾を象徴していたと考えられています。 これらの川は、インカの技術者によって巧みに水路化され、都市の境界を定めると同時に、給水と排水のシステムとしても機能していました。 このように、クスコの都市計画は、地形を巧みに利用し、象徴的な意味を付与することで、都市全体を一つの生命体、聖なるピューマとして具現化しようとする試みでした。
クスコの建築を語る上で欠かせないのが、インカの石工たちが駆使した驚異的な石造技術です。 彼らは、巨大な石塊を、まるで粘土を扱うかのように精密に加工し、カミソリの刃一枚すら通さないほど隙間なく組み上げました。 この技術は、特にサクサイワマンの城壁でその真価を発揮しています。そこでは、高さ5メートル、重さ90トンから125トンにも及ぶ巨石が、モルタルを一切使用せずに完璧に組み合わされています。 石の一つ一つは多角形に切り出され、隣接する石と完全に密着するように複雑な形状をしています。 このような不規則な形状の石を組み合わせることで、地震の多いアンデス地域において、構造的な安定性を高める効果があったと考えられています。
この驚異的な技術がどのようにして可能になったのかは、未だに多くの謎に包まれています。 インカ人は鉄製の道具を持たなかったため、より硬い石を使って石を削り、磨き上げたと推測されています。石の切り出し、巨大な石の運搬、そして精密な加工に至るまで、その過程には膨大な労働力と高度な組織力、そして世代を超えて受け継がれた知識が必要でした。
クスコ市内の建造物にも、この石造技術は随所に見られます。太陽の神殿コリカンチャの基礎部分や、インカ・ロカの宮殿の壁に残る「12角の石」は、その代表例です。 12角の石は、その名の通り12の角を持ち、周囲の石と複雑に組み合わさっており、インカの石工たちの技術力の高さを象徴する存在となっています。
スペインによる征服後、多くのインカ建築は破壊され、その石材は植民地時代の教会の建設などに再利用されました。 しかし、スペイン人はインカの堅固な基礎構造をそのまま利用することが多く、その結果、インカの精緻な石垣の上にスペイン風の漆喰の壁が乗るという、独特の建築様式が生まれました。 この歴史の重なりは、クスコの街並みに他に類を見ない特徴を与えており、征服という歴史の断絶を乗り越えて生き続けるインカの技術力の証となっています。 クスコの都市計画と建築は、インカ文明が単なる軍事大国ではなく、自然と宇宙との深いつながりを持ち、それを壮大なスケールで表現する能力を持った高度な文明であったことを雄弁に物語っています。

宗教の中心地:コリカンチャと太陽神インティ崇拝

インカ帝国の首都クスコは、政治・行政の中心であると同時に、帝国全土で最も神聖な宗教の中心地でした。 その中核をなしたのが、太陽神インティを祀る壮麗な神殿、コリカンchaです。 ケチュア語で「黄金の中庭」または「黄金の囲い」を意味するコリカンチャは、インカの宇宙観と宗教儀礼のまさに中心であり、帝国の精神的な支柱でした。
コリカンチャは、クスコ市内のワタナイ川とトゥルマヨ川が合流する地点に戦略的に建設されました。 この場所は、インカ以前から聖地と見なされていたと考えられています。 伝説によれば、初代インカ皇帝マン コ・カパックによって最初の神殿が建てられ、15世紀に皇帝パチャクティが大々的に改築し、比類なき壮麗さを誇る神殿へと変貌させたと伝えられています。
この神殿の最も際立った特徴は、その名の通り、ふんだんに使用された黄金でした。 太陽神インティに捧げられた主神殿の壁は、内側も外側もすべて純金の板で覆われていたと、スペイン人の年代記作家たちは記録しています。 神殿の中庭には、トウモロコシやリャマ、羊飼いなどをかたどった金銀の実物大の像が置かれた黄金の庭園があったとさえ言われています。 太陽の光が黄金の壁に反射し、神殿全体が眩いばかりに輝く様は、まさに太陽神インティの地上における住居そのものであり、見る者を圧倒する神聖な空間を創り出していました。
コリカンチャは単一の神殿ではなく、複数の神々を祀る複合施設でした。 太陽神インティの神殿が最も重要で中心的な位置を占めていましたが、その他にも月の女神ママ・キリャ、星の神々、雷神イリャパ、虹の神クイチなどに捧げられた神殿がありました。 これらの神殿もまた、月の神殿は銀で覆われるなど、それぞれの神に対応した貴金属で装飾されていたとされています。この構造は、インカの神々が階層的に組織され、太陽神インティを頂点とするパンテオン(万神殿)を形成していたことを示しています。
コリカンチャはまた、インカの祖先崇拝においても重要な役割を果たしました。太陽神殿の内部には、歴代インカ皇帝のミイラが安置されていました。 これらのミイラは、金の椅子に座らされ、まるで生きているかのように扱われ、重要な儀式の際には神託を求められることもありました。 これは、インカの支配者が太陽神の子孫であると信じられていたことと深く関係しており、皇帝の権威を神聖化する上で不可欠な要素でした。
さらに、コリカンチャはインカの天文学と暦の基準点でもありました。 神殿は「セケ」と呼ばれる、クスコ周辺に点在する300以上の聖地(ワカ)とを結ぶ仮想的な線の起点となっていました。 これらのセケ・ラインは、天体の運行観測や、それに伴う農業儀礼の時期を決定するために用いられたと考えられています。コリカンチャから放射状に伸びるセケは、クスコがインカ世界の地理的、天文学的、そして宗教的な中心であることを象徴していました。
神聖な場所であったため、コリカンチャへの立ち入りは厳しく制限されていました。 皇帝とその近親者、そして最高位の神官など、ごく一部の特権階級のみが内部に入ることを許されました。 礼拝者は、神への謙虚さのしるしとして、断食し、裸足になり、背中に重荷を背負って神殿に近づかなければならなかったと伝えられています。
1533年のスペイン人による征服は、コリカンチャの運命を劇的に変えました。 征服者たちはその黄金の富に目を奪われ、神殿を徹底的に略奪し、壁から金の板を剥ぎ取りました。 その後、インカの精緻な石造りの土台の上に、サント・ドミンゴ修道院と教会が建設されました。 この結果、インカの直線的で隙間のない石垣と、スペイン・バロック様式の曲線的な建築が融合するという、他に類を見ない光景が生まれました。 コリカンチャの遺跡は、インカ宗教の中心地の栄華と、その悲劇的な破壊、そして文化の重なりを物語る、力強い証人として存在しています。

サクサイワマン:要塞か、神殿か、その謎に満ちた機能

クスコ市街の北側の丘に、威圧的な存在感を放つ巨大な石造建築物、サクサイワマンがあります。 その名はケチュア語で「満腹のハヤブサ」を意味するとも言われ、インカ建築の技術力の高さを象徴する最も印象的な遺跡の一つです。 サクサイワマンは、その巨大なジグザグ状の城壁から、長らくクスコを防衛するための軍事要塞であると考えられてきました。 しかし、その構造と配置には多くの謎が残されており、単なる要塞ではなく、宗教儀式や天体観測など、多様な機能を持った複合施設であった可能性が指摘されています。
サクサイワマンの最も顕著な特徴は、三層に重なる巨大な石灰岩の壁です。 これらの壁は、最大で高さ9メートル、重さ125トン以上にもなる巨石を、モルタルを使わずにカミソリの刃も通さないほど精密に組み上げて作られています。 壁が直線ではなくジグザグ状に設計されているのは、防御上の理由からと考えられています。この形状により、どの角度から敵が攻めてきても、複数の壁から十字砲火を浴びせることが可能になります。 1536年にマン コ・インカがスペインに対して起こした反乱(クスコ包囲戦)では、サクサイワマンがインカ軍の重要な拠点となり、激しい攻防戦の舞台となりました。 この歴史的事実は、サクサイワマンが軍事的な機能を持っていたことを強く裏付けています。
しかし、サクサイワマンの機能は軍事的なものだけにとどまらなかったと考えられています。考古学的調査により、壁の内側には広大な広場、塔、住居、倉庫、そして水路などの遺構が確認されています。 特に、頂上部にはかつて三つの大きな塔があったと記録されています。 そのうちの一つ、円形のムユク・マルカは、内部に水源を持ち、王族の居住区や太陽神殿として使われた可能性が指摘されています。これらの建造物の存在は、サクサイワマンが単なる砦ではなく、儀式や居住のための空間でもあったことを示唆しています。
さらに、サクサイワマンは宗教的な中心地としての役割も担っていたと考えられています。 2008年の発見では、インカ時代以前のキルケ文化によって建設された神殿跡が見つかっており、この場所が古くから聖地と見なされていたことが分かっています。 インカ人もまた、この場所を聖なる空間として認識し、雷神イリャパなど、様々な神々を祀る儀式を行っていた可能性があります。 毎年冬至に行われる太陽の祭り「インティ・ライミ」は、サクサイワマンの広大な広場で再現されており、この場所が持つ儀式的な重要性を物語っています。
また、都市全体がピューマの形をしていたという説では、サクサイワマンはその頭部に当たるとされています。 この象徴的な配置は、サクサイワマンがクスコの守護者であり、都市の最も神聖な部分の一つであったことを示しています。そのジグザグの壁は、ピューマの歯を表しているのかもしれません。
サクサイワマンの建設方法もまた、大きな謎の一つです。 15km以上離れた石切り場から、どのようにしてこれほど巨大な石を運び、精密に加工したのか、具体的な方法は解明されていません。 ロープと人力による集団作業(ミタ制度)が用いられたと考えられていますが、その技術の詳細は想像を絶します。
結論として、サクサイワマンは単一の機能を持つ施設ではなく、軍事要塞、宗教儀式の場、天文台、そして王族の居住区といった複数の役割を統合した、多機能的な複合施設であったと考えるのが最も妥当でしょう。 それはインカ帝国の権力、技術、そして宇宙観が凝縮された場所であり、その巨大な石垣は、訪れる者にインカ文明の偉大さと、未だ解明されざる多くの謎を問いかけています。

スペインによる征服と植民地時代の変容

16世紀初頭、アンデスに栄えたインカ帝国の運命は、遠くヨーロッパからやってきた少数の一団によって劇的に覆されます。フランシスコ・ピサロ率いるスペインのコンキスタドール(征服者)の到来は、クスコの歴史、そして南米大陸全体の歴史における決定的な転換点となりました。
インカ帝国は当時、皇帝ワイナ・カパックの死後、その後継者を巡るワスカルとアタワルパの兄弟間の内戦によって弱体化していました。 1532年、ピサロはこの内戦に勝利したアタワルパをカハマルカで捕虜にするという大胆な策略に成功します。 アタワルパは解放のための莫大な身代金として、部屋を埋め尽くすほどの金銀を差し出すことを約束し、その多くは首都クスコから集められました。 しかし、身代金が支払われた後もピサロはアタワルパを解放せず、1533年7月26日に彼を処刑しました。
皇帝を失ったインカ帝国の心臓部であるクスコへの道は、スペイン人にとって開かれました。ピサロは、ワスカル派の生き残りであり、アタワルパに敵対していた若き王子マン コ・インカ・ユパンキを新たな傀儡皇帝として擁立し、インカの貴族層の協力を得ようとしました。 1533年11月15日、ピサロの軍隊は、マン コ・インカと共に抵抗を受けることなくクスコに入城しました。
スペイン人にとって、クスコは約束された富の宝庫でした。彼らは入城後、直ちに都市の徹底的な略奪を開始しました。 太陽の神殿コリカンチャの壁を覆っていた黄金の板は剥がされ、神殿や宮殿に納められていた金銀の工芸品はことごとく溶かされ、インゴットに変えられました。 インカの精緻な芸術作品や宗教的な遺物の多くが、その本来の価値を理解されることなく、単なる貴金属の塊として失われたのです。
1534年3月23日、ピサロはスペイン国王の名においてクスコを再建国し、植民地都市としての新たな歴史が始まります。 スペイン人は、インカの都市計画の基本構造は維持しつつも、その上に自らの文化と権威を刻み込むように都市を改造していきました。 インカの宮殿や神殿は破壊され、その堅固な石造りの土台の上に、カトリックの教会や修道院、スペイン人入植者のための邸宅が次々と建設されました。 コリカンチャの跡地にサント・ドミンゴ修道院が建てられたのは、その最も象徴的な例です。 この結果、インカの直線的で力強い石垣と、ヨーロッパのバロック様式やルネサンス様式の建築が融合した、独特のハイブリッドな都市景観が生まれました。
当初はスペインに協力していたマン コ・インカでしたが、彼らが傀儡以上の役割を自分に与えるつもりがないことを悟ると、反旗を翻します。 1536年5月、マン コ・インカは数十万ともいわれる大軍を率いてクスコを包囲し、都市の奪還を試みました。 インカ軍は一時、サクサイワマン要塞を占領し、市街地の大部分を制圧するなど、スペイン人を窮地に追い込みます。 しかし、わずか200人足らずのスペイン兵と数千人の同盟先住民からなる守備隊は、騎兵の機動力と鉄製の武器を駆使して10ヶ月にも及ぶ包囲戦に耐え抜きました。 最終的に、チリ遠征から帰還したディエゴ・デ・アルマグロの部隊の到着により、インカ軍は撤退を余儀なくされ、クスコ奪還の試みは失敗に終わりました。
このクスコ包囲戦の敗北は、インカ帝国再興の望みを打ち砕く決定的な出来事でした。 マン コ・インカとその後の後継者たちは、ビルカバンバの密林地帯に逃れ、「新インカ国家」として抵抗を続けましたが、1572年に最後の皇帝トゥパク・アマルが捕らえられ処刑されたことで、インカの組織的な抵抗は完全に終結しました。
植民地時代を通じて、クスコはペルー副王領の重要な行政中心地の一つであり続けましたが、首都の地位は新たに建設されたリマに移されました。 それでもなお、クスコはアンデス地域における宗教と文化の中心地としての重要性を保ち続け、独自の芸術様式である「クスコ派絵画」を生み出すなど、新たな文化の創造の舞台となりました。 スペインによる征服は、インカ文明の破壊という悲劇をもたらしましたが、同時に二つの異なる文化の衝突と融合の中から、クスコ独自の複雑で豊かな歴史と文化を形成するきっかけともなったのです。

ビルカバンバ:最後のインカ抵抗の拠点

スペインによるクスコの占領と、1536年から1537年にかけてのクスコ包囲戦の失敗の後、インカ帝国の抵抗の物語は新たな章に入ります。 傀儡皇帝の地位を捨て、スペインへの徹底抗戦を決意したマン コ・インカ・ユパンキは、アンデスの山々を越え、クスコの北西に位置する深く険しいジャングル地帯へと逃れました。 この地で彼が築いたのが、新インカ国家、そしてその首都となったビルカバンバです。ビルカバンバは、インカの主権が失われた後、約40年間にわたって抵抗の炎を燃やし続けた、最後の砦でした。
ビルカバンバが選ばれたのは、その戦略的な地理的条件のためでした。 高い山々、深い渓谷、そして鬱蒼とした熱帯雨林に囲まれたこの地域は、スペインの騎馬隊が容易に侵入することを許さない天然の要害でした。 マン コ・インカは1539年頃、この地に新たな政府を樹立し、ビルカバンバを拠点としてスペイン支配地域へのゲリラ的な攻撃を繰り返しました。 ここは単なる軍事拠点ではなく、インカの宗教、文化、そしてアイデンティティを維持するための政治的中心地でもありました。 ビルカバンバは、失われた首都クスコに代わる、タワンティンスウユの最後の首都として機能したのです。
マン コ・インカは、スペイン人捕虜に銃や馬の扱い方を兵士に教えさせるなど、敵の技術を学び、取り入れることにも努めました。 しかし、1544年(または1545年)、彼は庇護を与えていたスペイン人たちに裏切られ、暗殺されるという悲劇的な最期を遂げます。
マン コ・インカの死後も、ビルカバンバの抵抗は彼の息子たちによって引き継がれました。長男のサイリ・トゥパックは、一時的にスペインと和解し、ビルカバンバを離れてクスコ近郊の土地を与えられましたが、若くして亡くなります。 彼の後を継いだティトゥ・クシ・ユパンキは、再び抵抗路線に転じ、巧みな外交と軍事行動でスペインを悩ませました。 彼はキリスト教の洗礼を受け、スペインとの交渉の窓口を開きつつも、ビルカバンバの独立性を保ち続けました。彼は自らの治世を口述筆記させた記録を残しており、インカ側からの視点でスペインとの関係を語る貴重な資料となっています。
1571年にティトゥ・クシが病死すると、彼の異母兄弟であるトゥパク・アマルが最後のインカ皇帝として即位します。 この頃、ペルー副王であったフランシスコ・デ・トレドは、インカの抵抗勢力を完全に根絶やしにすることを決意し、ビルカバンバへの大規模な遠征軍を組織しました。 1572年6月、マルティン・ウルタド・デ・アルビエトが率いるスペイン軍は、激しい戦闘の末にビルカバンバを攻略しました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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