立法議会の成立
オーストリア・プロイセン両国による
ピルニッツ宣言が出されたことで、フランス国内に緊張が走ります。
こうした中、1791年憲法による選挙が行われ、国民議会を解散し、新たに一院制の
立法議会が成立しました。
この立法議会には様々な党派が存在しました。もともと、
ジャコバン=クラブという政治勢力に固まっていましたが、革命の進行と共に分裂していきます。
(革命政党の変遷)
フイヤン派
1791年7月にジャコバン=クラブから分裂した政党で、立憲王政派です。裕福な市民や自由主義貴族を代表していました。
指導した政治家は、
ラ=ファイエットや
パルナーヴなどです。
ジロンド派
ジロンド地方出身者によって結成された党派で、穏健共和派です。富裕・中流市民や商工業ブルジョワを代表していました。
ジャコバン派
ジャコバン=クラブに最後まで残った政党で、後に山岳派(議場の最も高い場所に席があったのでこの名で呼ばれた)という党派が主導権を握りました。急進的な共和派で、サン=キュロットという貧しい市民を中心に支持を受けました。指導した政治家は、
ロベスピエール、
マラー、
ダントン、
サン=ジュストなどです。
革命戦争
立法議会で、主導権を握ったジロンド派は、フイヤン派やジャコバン派の慎重論を押し切り、以前から主張していたオーストリアとの戦争を開始します。彼らは、フランス反革命勢力の一掃と、外国からの干渉を一気に払いのけ、革命を更に進めるために、オーストリアに宣戦布告したのです。
ところが、準備不足で、兵力も劣っていたフランス軍は、各地でオーストリア・プロイセン連合軍に負けてしまいます。
この責任を取り、ジロンド派内閣は倒れ、代わりにフイヤン派内閣が組閣されます。内閣は祖国の危機を全国に訴え、各地から多数の
義勇兵がパリに集まります。
そんな中、革命軍の劣勢の原因が国王にあると考えたジャコバン派は、義勇兵やサン=キュロットに呼びかけ、国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃します。スイス人警護兵は全滅し、国王一家はタンプル塔に幽閉され、王権は停止されました。これを
八月十日事件と言います。
(八月十日事件)
一方、前線では
ヴァルミーの戦いで革命軍がオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、フランスは軍事的に外国勢力を追い出すことに成功します。
ヴァルミーの戦いは、民兵からなる革命軍が絶対主義国の職業軍人を破ったことから、プロイセン軍に従軍していた文豪ゲーテが「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記した戦いでもあります。
(ヴァルミーの戦い)