日清戦争が終了してから日露戦争が起こるまでに、各国間でどのような背景があったのかについて説明しましょう。
三国干渉の後
日清戦争の後、日本は下関条約にて
遼東半島の譲渡を講和条約の条項に組み入れました。これは遼東半島が、清や朝鮮半島を監視するため、そして影響力を及ぼす上で大変重要な場所だったからです。
当時、極東への南下政策を進めていたロシアは、その終着点を遼東半島にしたいと考えていました。冬になるとロシアの港はどこも凍ってしまうので、凍らない港が欲しい。清や朝鮮半島に影響力をもつ土地が欲しい。
南下政策を進めるために、遼東半島はロシアにとって喉から手が出るほどほしい土地だった
その結果は御存知の通り、
ロシア・
フランス・
ドイツが遼東半島の返還を日本に迫ります。これがいわゆる
三国干渉です。
三国干渉の後ロシアは清と密約を結び、なんと遼東半島を清から租借(借りる)という暴挙にまで出ます。(日本からの侵略を阻止してあげたのだからお礼をよこせということでしょう。)
これを知った日本国民は大激怒し、反ロシアの世論が高まりました。
■義和団事件と日英同盟
そんな最中、清で
義和団事件が起こります。
ロシアはこの鎮圧のために清に軍隊を送り、そのまま駐留を続けます。(このまま居座って自分たちの領土にしちゃえという思惑があったのでしょうね)。
これに危機を感じたのが、
日本とアジアの植民地化を進めていた
イギリスです。両国の思惑が一致したのでしょう、日本とイギリスは1902年に
日英同盟を結びます。ロシアとの戦争を覚悟した瞬間でしょう。
直前交渉
日露戦争の開戦は
1904年ですので、日英同盟を結んだ1902年から少し開きがあります。
いくらイギリスと同盟を結んだとはいえ、ロシアはとてつもない大国。小さな日本が正攻法で勝てる相手ではありません。そこで日本は日露交渉を提案します。
提案の内容は、「ロシアの満州への進出を認める代わりに、日本の朝鮮半島への支配を認めて」というものでした。しかしながらロシアはこの提案を拒否します。大国ロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかったので、このように大きく出たのです。
当時外務大臣だった
小村寿太郎は、この交渉の決裂をもってロシアに国交断絶を宣言し、両国は戦争へと向かっていくことになるのです。