フランス革命のはじまりで押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
アンシャン=レジーム
・フランスには、以前から国王を頂点とした封建的身分制度が維持されていた。
アンシャン=レジーム(旧制度)をいうこの社会体制では、
聖職者身分の
第一身分(0.5%)、
貴族身分の
第二身分(1.5%)、ほかの
農民と
市民からなる
第三身分に分かれていた。第一身分と第二身分を合わせて
特権身分といい、全人口の
2%が土地の
40%を支配していた。
・アンシャン=レジームは市民階層が経済的に成長するにつれ社会の実態に合わない制度となっていき、不満が高まっていった。特に1789年に
シェイエスが発行した『
第三身分とは何か』というパンフレットにより、世論は革命へと向かっていった。
立憲君主制の成立
・当時のフランス王室は、
ルイ14世以降の対外戦争や、
ルイ16世とその王妃
マリー=アントワネットなど宮廷の散財が日常的に行われ、また、
アメリカ独立革命への援助が財政危機を決定づけた。
・こうした状況の中、
テュルゴーと
ネッケルが起用され、財政改革が行われた。財政再建策として、宮廷費削減・貴族年金停止・特権身分の課税などが考えられたが、後に特権身分反対にあい、実現しなかった。
・また、1786年にはイギリスとフランスの間に
英仏通商条約(イーデン条約)が結ばれ、関税の引き下げが実施された。これに伴い、産業革命が進んだイギリスの安価な製品がフランスに流入し、フランスの国内産業は打撃を受けたため、フランス革命の遠因となった。
・フランスでは、
1302年に
フィリップ4世が
三部会という身分制議会をはじめて招集したが、その後
ルイ13世が
1614年〜1615年を最後に招集してから開催されていなかった。しかし、財政改革を進めるネッケルの政策に対し、反対する特権身分が三部会の招集を求めたため、
175年ぶりの1789年5月5日にヴェルサイユ宮殿で開催された。この際、
身分別議決法が主張された。
・こうした中、三部会の第三身分の代表は、三部会から分離して
国民議会を作った。これに対し国王は議場の使用を禁止したため、議員は
球戯場(テニスコート)に集まり、憲法制定まで解散しないことを誓った。これを
球戯場(テニスコート)の誓いという。1789年7月9日には、国民議会が
憲法制定議会に改称し、フランス初の憲法を作り始めた。
フランス革命の進展
・
1789年7月14日、国王がネッケルを罷免し、ヴェルサイユに軍隊を招集したことから、国事犯と武器があると信じられていた
バスティーユ牢獄をパリ市民が襲撃した。これ以降フランス革命は全国に広がっていった。
・1789年8月4日、農民反乱の広がりに対し、国民議会が
封建的特権の廃止を決定し、農奴制・領主裁判権・十分の一税などを廃止した。これにより、各地の農民反乱はしずまっていった。
・
1789年8月26日、アメリカ独立革命に参加した
ラ=ファイエットらにより、
フランス人権宣言が起草され、国民議会で採択された。人権宣言は17条からなり、普遍的な
自由・平等や圧政への
抵抗権を
自然権とし、
国民主権・法の支配・権力分立・私有財産の不可侵などを規定した。
・1789年10月5日、パンの高騰に対し、数千人の女性がヴェルサイユに向けて
ヴェルサイユ行進を行い、翌日国王一家はパリに連行された。
・1791年6月20日、国王ルイ16世が王妃マリーアントワネットの母国オーストリアに逃亡を企てた
ヴァレンヌ逃亡事件が起こる。国王とつながりのあった貴族出身の政治家
ミラボーが病死したことにより、国王一家が革命の急進化を恐れて行ったものであった。この事件の結果、国王はパリで軟禁され、国王への信頼は失墜し、共和派が力を持つようになった。
・1791年8月27日、フランス王権の復活を目指し、隣国オーストリア皇帝
レオポルト2世とプロイセンの
フリードリヒ=ヴィルヘルム2世が[redピルニッツ宣言]を出した。これ以降、諸外国がフランス革命に干渉するようになった。