皇帝ナポレオンで押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
ナポレオンの戴冠
・度重なる危機に対応するため、フランス国民は強力なリーダーシップをもった
ナポレオンを支持した。
1804年、ナポレオンは国民投票の結果圧倒的な票数を獲得、皇后ジョセフィーヌとともに戴冠式を行い、皇帝に即位し、
ナポレオン1世となった。
・ナポレオンが皇帝になったことで
第一共和政は終わり、新たに
第一帝政(1804〜1814,15)が始まった。1805年、第一帝政が始まった事により、イギリス首相ピットは
オーストリア・ロシアとともに新たに
第3回対仏大同盟を結成した。
プロイセンは中立であった。ナポレオンは、兄
ジョセフを
スペイン王・ナポリ王に、弟
ルイを
オランダ王に即位させた。
対外戦争の拡大
・皇帝となったナポレオンは対外戦争を再開させた。まずイギリスに侵攻する計画をたてたが、1805年10月に
トラファルガーの海戦で
ネルソン提督率いるイギリス海軍に敗れた。しかし、フランス陸軍は快進撃を続け、同年12月の
アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で
オーストリア・ロシア連合軍を撃破した。この結果、第3回対仏大同盟は崩壊した。
・1806年には、西南ドイツ諸領邦にナポレオンを盟主とする
ライン同盟(ライン連邦)を作らせ、神聖ローマ帝国皇帝位をフランツ2世が辞退したため、名目上続いていた
神聖ローマ帝国が崩壊した。また、1806年11月には、イギリスを孤立させるため、
大陸封鎖令を発した。
・プロイセンはフランスの強大化に脅威を感じ、ロシアとともに宣戦するが、
1806年10月の
イエナの戦いで、ロシアも
フリートラントの戦いでナポレオンに大敗し、
1807年フランスとロシア・プロイセンは、
ティルジット条約を結ぶこととなった。ティルジット条約により、
ウェストファリア王国建国、プロイセン領ポーランドに
ワルシャワ大公国建国、
ダンツィヒを自由市にすることなどが決められ、プロイセンは莫大な賠償金と領土の大半を割譲する屈辱的な条約に調印せざるを得なかった。ナポレオンは1810年にジョセフィーヌと離婚後オーストリア皇帝の娘マリー=ルイーズと結婚し、ヨーロッパの旧支配者層との結びつきを強めた。
・イギリスの孤立を目的とし、大陸封鎖令が発令されたが、イギリスの生活必需品・工業製品を輸入していたロシア・プロイセン・オーストリアでは、経済的な打撃が大きかった。
ナショナリズムの高揚
・ナポレオンの対外戦争は、自由や平等のフランス革命の精神を各地の被支配層の民族に広め、これにより
ナショナリズムや国民意識・国民国家成立の下地が出来上がっていった。
・ナポレオン支配下のプロイセンでは、
シュタインや
ハルデンベルクにより、
農奴制廃止・行政改革など近代化が進められた。また、哲学者
フィヒテはフランス占領下のベルリンで「
ドイツ国民に告ぐ」という演説をし、ドイツの国民意識を高めた。言語学者
フンボルトは、プロイセンの改革を行い、1810年に
ベルリン大学を創設し、プロイセンの文化復興を目指した。
ナポレオン帝国の崩壊
・ロシア皇帝
アレクサンドル1世は、ナポレオンの大陸封鎖令に強く反対していた。ロシアはイギリスに穀物を輸出し、生活必需品をイギリスから輸入していたからである。
1812年ロシアは大陸封鎖令を破り、イギリスとの貿易を再開させた。
・大陸封鎖令をロシアが破ったことに激怒したナポレオンは、制裁を加えるため、60万人の大陸軍を組織し、1812年
ロシア遠征を開始した。ロシアは各地で
焦土作戦をとり、首都のモスクワも大火を放った。遠征先で食料や軍事物資を手に入れられないナポレオン軍は撤退を決め、
1812年10月に退却した。しかし、退却の道中にロシア正規軍・ゲリラによる攻撃を受け、ロシア遠征軍は壊滅状態となった。
・ナポレオンのロシア遠征失敗を受け、
イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシアやヨーロッパ各国が
第4回対仏大同盟を結んだ。これ以降各地でナポレオン打倒のための
解放戦争が行われるようになった。
・
1813年10月には
ライプチヒの戦い(諸国民戦争)が起こり、プロイセン・オーストリア・ロシア同盟軍にナポレオン軍が大敗した。この戦いの後パリが陥落、1814年3月にナポレオンは退位し、ブルボン朝の
ルイ18世が即位した。退位後、ナポレオンは
エルバ島に幽閉された。
・
1814年9月にはナポレオン戦争の処理をめぐって
ウィーン会議が始まったが、1815年3月にエルバ島を脱出したナポレオンがパリで皇帝に復位すると、各国の指導者は動揺した。6月にナポレオン軍と
ウェリントン率いる
イギリス・プロイセン・オランダ連合軍が
ワーテルローの戦いで決戦を行い、ナポレオン軍は大敗し、再度退位した。このエルバ島脱出からワーテルローの戦いまでを
百日天下といい、ナポレオンは1815年10月に南大西洋上の
セントヘレナ島に流され、
1821年に死去した。