皇帝ナポレオンの即位
1804年、ナポレオン=ボナパルトは、国民の圧倒的支持を受けて合法的に皇帝に即位します。
(ナポレオンの戴冠式:皇后ジョセフィーヌにナポレオンが戴冠)
皇帝
ナポレオン1世の即位とともに、フランス
第一共和政はおわり、新たに
第一帝政がはじまりました。
第一帝政は、基本的に統領政府の政策を踏襲し、対外戦争が再開されます。
第3回対仏大同盟と対外戦争
1804年イギリスで小ピット内閣が再度発足し、アミアンの和約が破られ、1805年
第3回対仏大同盟が成立します。
これを受けて同年10月ナポレオンはイギリス本土への侵攻を計画しますが、
トラファルガーの海戦で再度ネルソン提督に敗北し、イギリス上陸を断念しました。
(トラファルガーの海戦)
海軍は負けたものの、陸軍は非常に強かったフランス軍は、同年12月、現在のチェコを戦場に
アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア両軍を破り、第3回対仏大同盟は崩壊します。
(アウステルリッツの戦い)
ロシアのアレクサンデル1世、オーストリアの神聖ローマ皇帝フランツ2世、フランス皇帝ナポレオンの三人の皇帝の戦いだったことから、アウステルリッツの戦いは別名「三帝会戦」といいます。
この戦いに勝利したナポレオンは、1806年、ナポレオンを盟主とする
ライン同盟をつくり、西南ドイツ諸国をフランスの影響下に置きます。
ライン同盟成立により、16の領邦が脱退し、最後の皇帝フランツ2世が退位したため、962年以降続いていた神聖ローマ帝国が消滅しました。
同年10月、今度は
イエナの戦いでプロイセン軍を破り、1807年プロイセン・ロシアと
ティルジット条約を結びます。
この条約でプロイセンは領土の半分を奪われ、多額の賠償金と軍備制限を課せられました。
また、旧ポーランドの領地に新たにワルシャワ大公国を作ってフランスの影響下に置き、その後もナポレオンは兄ジョセフをナポリ王、弟ルイをオランダ王にし、自身も子供ができなかったジョセフィーヌと離婚後、ハプスブルク家の皇女マリ=ルイーズと再婚し、ヨーロッパの支配階層との結びつきを強固にしました。
トルストイの『戦争と平和』、ベートーヴェン作曲の交響曲第3番『英雄』など、この時代に優れた芸術作品が生まれました。