阿倍仲麻呂とは
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698年頃 - 770年頃)は、奈良時代の日本の学者であり、和歌詩人です。彼は遣唐使として中国に渡り、唐の安南都護(現在のベトナム)としても活躍しました。
生い立ちと初期の経歴
阿倍仲麻呂は、皇族の血を引く阿倍氏の一族として生まれました。彼の父は阿倍船守であり、彼自身も若い頃から学問に秀でていました。717年、彼は20歳の若さで遣唐使に選ばれ、中国に渡りました。
中国での生活と官職
中国に渡った仲麻呂は、唐の科挙に合格し、官僚としてのキャリアをスタートさせました。彼は洛陽で行政職に就き、728年と731年には昇進を果たしました。彼は唐の皇帝玄宗に仕え、様々な官職を歴任しました。特に、安南都護としての任務は彼のキャリアの中でも重要なものでした。
帰国の試みと挫折
734年、仲麻呂は日本への帰国を試みましたが、乗っていた船が難破し、帰国は叶いませんでした。その後も何度か帰国を試みましたが、いずれも失敗に終わりました。特に753年の帰国の試みでは、暴風雨に遭い、再び長安に戻ることを余儀なくされました。
詩人としての仲麻呂
仲麻呂は詩人としても高く評価されており、李白や王維といった唐代の著名な詩人たちと親交を持っていました。彼の詩は、日本への望郷の念を強く表現しており、その中でも特に有名なのが『百人一首』に収録されている以下の和歌です:
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出し月かも
この和歌は、彼が日本への帰国を決意した際に詠んだもので、故郷への強い思いが込められています。
晩年と死
仲麻呂はその後も唐で官職に就き続け、761年から767年まで安南都護としてハノイに駐在しました。彼は770年に長安で亡くなり、故郷日本への帰国は果たせませんでした。
阿倍仲麻呂は、奈良時代の日本と唐の文化交流の象徴的な存在です。彼の生涯は、学問と詩に捧げられ、異国の地での成功と挫折が交錯するものでした。