律令国家体制とは
律令国家体制とは、律令を当地の基本法とした国家体制のことを指し、主に、7世紀前後から9世紀にかけての日本の古代国家における法制度と行政制度を指します。この体制は、主に中国の唐王朝の律令制度を模倣して導入されました。律令国家体制は、律(りつ)と令(りょう)という二つの主要な法典から成り立っています。律は刑法を、令は行政法および民法を意味します。
律令国家体制の背景と導入
律令国家体制は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて導入されました。645年の大化の改新は、この体制の導入の最初の兆候とされています。大化の改新は、中央集権化を目指した一連の改革であり、これにより天皇を中心とした強力な国家体制が構築されました。
律令の構成
律令は、刑法である「律」と、行政法および民法である「令」に分かれています。律は犯罪とその罰則を規定し、令は国家の行政機構や官僚制度、土地制度、税制などを詳細に規定しています。
主な律令
大宝律令(たいほうりつりょう): 701年に制定されたこの律令は、11巻の行政法と6巻の刑法から成り立っています。
養老律令(ようろうりつりょう): 720年に制定され、757年に施行されたこの律令は、10巻の行政法と10巻の刑法から成り立っています。
行政機構
律令国家体制の下では、中央集権的な行政機構が整備されました。天皇を頂点とするこの体制では、以下のような主要な機関が設置されました。
神祇官(じんぎかん): 宗教儀礼や神社の管理を担当。
太政官(だいじょうかん): 国家の行政全般を担当し、八省(中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省)に分かれていました。
地方行政
地方行政は、国(くに)、郡(ぐん)、里(さと)という三層構造で構成されていました。
国: 複数の郡から成り立ち、国司が統治。
郡: 複数の里から成り立ち、郡司が統治。
里: 約50戸の家から成り立ち、里長が統治。
律令国家体制の意義と影響
律令国家体制は、日本の古代国家の基盤を形成し、中央集権的な統治体制を確立しました。この体制により、天皇を中心とした強力な国家が形成され、政治的安定と社会秩序が維持されました。また、律令制度は後の日本の法制度や行政制度にも大きな影響を与えました。
律令国家体制は、平安時代に入ると次第に形骸化していきました。土地の私有化が進み、公地公民制が崩壊し、地方豪族の力が強まるとともに、中央政府の統治力が弱まっていきました。これにより、律令制度は名目上は存続したものの、実質的には機能しなくなりました。
律令国家体制は、日本の古代国家の形成と発展において重要な役割を果たしました。この体制は、中央集権的な統治を実現し、法と秩序を維持するための基盤を提供しました。律令制度の導入とその後の変遷は、日本の歴史における重要な転換点であり、現代の日本の法制度や行政制度にもその影響が見られます。