ペリー来航
17世紀、
清教徒革命と
名誉革命という市民革命を経たイギリスでは、18世紀後半から木綿紡績業から
産業革命がはじまり、その後さまざまな分野で技術革新が起こりました。特に、
蒸気機関を動力とする機械の発明により工業生産性が飛躍的に高まり、この流れはその他のヨーロッパ諸国にも波及していきました。ヨーロッパの列強は、工場制機械工業の生産品である様々な商品の原料確保とそれを販売する市場を求めて、世界各地で
植民地を広げていきました。資本主義的な世界市場が広がるなか、その動きは東アジアにも及ぶようになりました。
1840年から1842年にかけて、中国のアヘン取締りに激怒したイギリスが
アヘン戦争を始め、中国側がこれに敗北しました。こうした西欧列強の情報はオランダや清国の船によっていち早く伝えられ、幕府に大きな衝撃を与えました。幕府は、異国船打払令を緩和し、薪水給与令を制定し、西欧列強との衝突を避けようとしました。また、
上知令を出し、江戸湾防備や大坂周辺の支配強化を目指しました。
こうした中、1844年(弘化元年)にオランダ国王が幕府に対し親書を送り、開国してはどうかと勧告しました。しかし、1846年(弘化3年)にアメリカの東インド艦隊司令長官ビットルが来航した際には国交と通商の要求を幕府は拒絶しました。
1853年(嘉永6年)、フィルモア大統領の国書を携えたアメリカ東インド艦隊司令長官
ペリーが、軍艦4隻とともに浦賀に来航し、幕府に開国を求めました。ペリーの来航は、前年にオランダ商館長から情報を得ていたにも関わらず、幕府は対策を用意できませんでした。幕府はペリーの強い態度に押され国書を正式に受取り、翌年これに回答する旨を伝え、アメリカ艦隊を帰国させました。その直後、今度はロシアの使節
プゥチャーチンが長崎に来航し、開国と国境の画定を要求しました。
翌年の1854年(安政元年)、ペリーは軍艦7隻とともに浦賀に来航し、軍事的な圧力をかけつつ条約締結を強硬に迫りました。幕府は遂にアメリカ政府の求めに応じ、
日米和親条約(神奈川条約)を結びました。この条約で、アメリカ船への食料・燃料提供、遭難船や乗組員の救助、下田・箱館2港開港と領事駐在を認可、アメリカに
最恵国待遇を認めることなどが決められました。この最恵国待遇は日米相互ではなく、あくまでアメリカが優遇される
片務的最恵国待遇でした。
アメリカに次いで、ロシアのプゥチャーチンも再度来航し、下田で
日露和親条約を締結しました。この条約で、下田・箱館以外に、長崎も開港し、国境に関しても、千島列島お択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とし、樺太は両国人の雑居の地として国境を決めないことになりました。この後、イギリス・オランダも同様の条約を結び、江戸幕府は200年以上続いた鎖国政策を続けられなくなり、開国することになりました。