化政文化
江戸時代後期、文化・文政期の年号から名付けられた
化政文化が花開き、町人文化が最盛期を迎えました。商業活動によって全国にこの文化は広がり、学問や思想の分野では科学的・実証的な研究が発展しました。
化政文学
小説では
浮世草子が衰えたあと
草双紙が発展し、江戸の風俗を諷刺した黄表紙と、江戸の遊里の生活を描いた
洒落本が流行しました。しかし、寛政の改革で山東京伝が処罰されると衰えました。洒落本からは、滑稽本が生まれ、式亭三馬や『
東海道中膝栗毛』を書いた
十返舎一九などが有名でした。また、人情本も盛んとなり、
為永春水が活躍しましたが、天保の改革で処罰されました。合巻では柳亭種彦が代表的でしたが、同じく天保の改革で弾圧されました。
小説の読本では、上田秋成のあと、
滝沢馬琴が『
南総里見八犬伝』『
椿説弓張月』を著しました。
俳諧では、与謝蕪村以降、化政期に
小林一茶が名作を残しました。また、
柄井川柳の名にちなんだ
川柳や、大田南畝・石川雅望らにより、和歌から派生した狂歌が盛んに作られました。
和歌では、化政期から天保期にかけて香川景樹らの桂園派をおこしましたが浸透しませんでした。しかし、禅僧
良寛が優れた和歌を残しました。
演劇では、近松門左衛門の指導を受けた
竹田出雲が優れた浄瑠璃を残し、そのあとを近松半二が継ぎました。しかし、人形浄瑠璃は次第に歌舞伎に圧倒され、座敷で歌われる歌浄瑠璃へと移っていきました。歌舞伎は人気を集め、
中村座・市村座・森田座は江戸三座として栄えました。この時代の歌舞伎狂言の名作は、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』や河竹黙阿弥の『白浪五人男』などがあります。また、鈴木牧之が『北越雪譜』で雪国の生活を紹介し、国学者菅江真澄は、『菅江真澄遊覧記』で各地の民俗や地理を紹介しました。
国学の発達
元禄時代にはじまった古典研究は、やがて国学に発展していきました。
契沖に学んだ荷田春満やその門下賀茂真淵が国学の基礎をつくり、
本居宣長が『源氏物語』の研究をすすめ「もののあわれ」を主張しました。またその影響をうけた
平田篤胤は、復古神道を大成し、幕末の尊皇攘夷論に大きな影響を与えました。国学は日本の古典研究の先駆けとなり、塙保己一は幕府の援助を受け和学講談所を創設し、伴信友も古典を考証しました。
洋学の発展
長崎のオランダ人からの知識をもとに、洋学も発展していきました。
新井白石は屋久島に潜入して捉えられたイタリア人宣教師シドッチを尋問し、その知識をもとに『采覧異言』『西洋紀聞』を著しました。将軍吉宗によりキリスト教以外の漢訳洋書の輸入制限を緩和し、
青木昆陽・野呂元丈らにオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学と呼ばれるようになっていきました。医学や科学技術は盛んに学ばれ、漢方医学では山脇東洋が解剖図録『蔵志』を著しました。蘭方医学では、
前野良沢や
杉田玄白が西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』を訳した『
解体新書』を出版しました。仙台藩の医師大槻玄沢は江戸に芝蘭堂をひらき多くの門人を育て、そのひとりである宇田川玄随は『西洋内科撰要』を著し、
稲村三伯は蘭日辞書の『
ハルマ和解』を作りました。天文学では、幕府が
蛮書和解御用という専門機関を設置し、幕府統制下のもと研究が進みました。また、オランダ商館のドイツ人医師
シーボルトが長崎郊外に鳴滝塾を、緒方洪庵が大坂に適塾を開き、多くの優れた人材を育てました。
しかし幕府は、洋学から社会批判が起こるのを恐れ、1828年(文政11年)にシーボルトが国内持ち出し禁止の日本地図を持っていたことから国外追放し、高橋景保ら関係者を処罰した
シーボルト事件や、渡辺崋山らを処罰した
蛮社の獄などを起こしました。