討幕運動
第1次長州征討により幕府・列強に屈服した長州藩は、幕府に恭順的な藩政になっていきました。攘夷が不可能だと悟った
高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允,1833~77)は、藩の上層部に反発し、高杉晋作は自ら
奇兵隊を編成し、1864年(元治元年)下関で挙兵しました。奇兵隊の活躍により、彼等は藩の主導権を握り、豪商・豪農・村役人層と結んで藩論を一変させ、軍制改革・軍事強化をはかるようになりました。
幕府は、長州藩の藩論が変わったことを受け、再度
長州征討(第2次)の勅許を得て、諸藩に出兵を命じました。しかし、過去に一度敵対した薩摩藩は、藩論が攘夷から開国へと変わっており、長州藩が禁じられていた武器購入をできるよう、イギリス貿易商人
グラバーとの仲介を行い、密かに長州藩を支持しました。
翌年1866年(慶応2年)、土佐藩の
坂本龍馬(1835~67)・
中岡慎太郎(1838~67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが
薩長連合という密約を結びました。こうして、反幕府の態度が決まったことにより、6月に攻撃を開始した幕府軍は長州藩領に攻め込むことができず、逆に小倉城が長州軍により落城するなど、幕府軍は不利になっていきました。まもなく幕府は、大坂城内で出陣中の将軍徳川家茂が急死したことを理由に戦闘を中止しました。また同年孝明天皇も急死し、攘夷主義者であると同時に公武合体論者であった天皇の死去は、幕府の大きな痛手となりました。
開国による経済混乱とさまざまな政治対立により社会は不安定化していき、各地で世直し一揆や打ちこわしが頻発しました。また、黒住宗忠が創始した
黒住教・中山みきが創始した
天理教・川手文次郎が創始した
金光教など教派神道という民間宗教が伊勢神宮への
お蔭参りの流行とともに各地に広がっていきました。また1867年(慶応3年)に伊勢神宮のお札降りからはじまった「
ええじゃないか」運動は、世直しを宗教的な態度で表現したものとして近畿・四国に広がっていきました。
徳川幕府の滅亡
第2次長州征討に失敗したことにより、幕府の権威は落ちていきました。徳川家茂の急死をうけ第15代将軍となった徳川慶喜は、公使ロッシュとフランスの協力のもと、中央集権的職制や軍制改革などを行い、幕府を立て直そうとしました。しかし、長州征討をめぐって幕府と対立した薩摩藩と長州藩は、1867年(慶応3年)武力による討幕を決意しました。軍事衝突の危機が高まる中、公武合体派の土佐藩では、藩士
後藤象二郎と坂本龍馬がはかり、前藩主
山内豊信を通じて将軍徳川慶喜に討幕派に先制し、政権の奉還を進めました。苦渋の決断のすえ、この策を受け入れた徳川慶喜は、同年10月14日、
大政奉還を朝廷に申し出て、翌日朝廷側もこれを受理しました。
徳川慶喜がなぜ大政奉還を行ったか様々な説がありますが、これは将軍が一度大政奉還し、朝廷のもとで徳川氏を含む諸藩の連合政権を作ろうとする
公議政体論に基づく行動で、一度討幕派の矛先をそらし、徳川氏の主導権を維持しようとする意図があったともいわれています。
しかし、同14日、武力討幕を目指す薩摩・長州両藩は、密かに朝廷内の急進派公家である
岩倉具視(1825~83)と通じ、討幕の密勅を引き出していました。大政奉還後、土佐藩などが主張する公議政体論が台頭しつつあり、これは雄藩連合政権論であったものの、実質的に将軍を議長とする諸侯会議を作る構想であり、徳川氏の主導権を認める内容でした。薩長両藩は、この公議政体論をおさえ、政治の主導権を握るため、両藩兵を結集させ軍事的圧力をかけるとともに、12月9日に
王政復古の大号令を発し、徳川氏を除く新政府を作りました。
新政府は、幕府とともに朝廷の摂政・関白も廃止し、天皇のもとに
総裁・議定・参与の三職を設置しました。これにより、約260年続いた徳川幕府は否定され、「諸事神武創業の始」に基づく天皇中心の新政府が樹立され、総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族・公家と松平慶永・山内豊信ら諸侯10名、参与には公家の岩倉具視、雄藩代表として薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通、土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らが任じられ、雄藩連合の形がとられました。その日の夜、京都御所で三職により小御所会議が開かれ、徳川氏の処分が議論されました。岩倉具視・大久保利通ら武力討幕派と松平慶永・山内豊信ら公議政体派が議論しましたが、最終的に討幕派の意見が通り、徳川慶喜には内大臣の辞退と領地の一部返上(
辞官納地)を命じることが決まりました。この決定を受けた徳川慶喜は大坂城に引き上げ、新政府と対決することになりました。