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17_80 近代日本の形成とアジア / 開国・明治維新

【ペリー来航と開国、日米和親条約、日米修好通商条約、安政の五カ国条約】 受験日本史まとめ 50

著者名: Cogito
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1853年(嘉永6年)にペリーが来航した際、老中阿部正弘はペリー来航とアメリカ大統領の国書について朝廷に報告し、幕府は越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・宇和島藩主伊達宗城などの有力大名の協力も得ながら、幕臣の永井尚志・岩瀬忠震・川路聖謨らの人材を登用し、前水戸藩主徳川斉昭を幕政に参与させました。

列強諸国の来航により国防拡充の必要性が高まり、幕府は江川英竜に命じ江戸防備のために台場(砲台)を築き、武家諸法度で禁止されていた大船建造の禁を解きました。その結果、長崎には洋式軍艦の操船を訓練するための海軍伝習所、江戸には軍事を中心とした洋学の研究・翻訳機関として蕃書調所、幕臣とその子弟に対し軍事教育を施す講武所を設けました。これを安政の改革といいます。また諸藩でも独自にこうした取り組みがはじまり、水戸・鹿児島・萩・佐賀藩などでは反射炉建造・大砲製造・洋式武器や軍艦購入などにより軍事力を高めようとしました。

1856年(安政3年)、日米和親条約締結により初代アメリカ総領事ハリスが下田に駐在することになり、翌年1857年(安政4年)に江戸で将軍に謁見し、通商条約の成立を強く要求しました。この要求に対し、交渉にあたった老中首座堀田正睦は、朝廷による勅許を得て、国内の反対意見を押さえ込む必要があると考えました。京都に赴いた堀田正睦は、列強との戦争を避けるため、条約締結は不可避と朝廷を説得しましたが、孝明天皇(在位1846~66)をはじめ、朝廷内の条約締結反対・尊皇攘夷の方針により、勅許を得ることができませんでした。

しかし1858年、アロー号事件(第2次アヘン戦争)が勃発し、清国が敗北後にイギリス・フランスと屈辱的な天津条約を結んだという情報が日本に入ると、ハリスはこれをイギリス・フランスの脅威として幕府に世界情勢を伝え、早期の通商条約締結を迫りました。緊迫した状況の中、大老井伊直弼(1815~60)は、勅許を得られないまま同年6月に日米修好通商条約を調印しました。しかし、この調印は違勅調印であるとして、幕府への激しい非難と攻撃を生むようになりました。

日米修好通商条約は14条からなり、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の市場開放、自由貿易の成立、居留地を設けることなどが盛り込まれました。しかし、居留地内の裁判は、本国の法に基づきその国の領事が行うという領事裁判権を認め、関税については関税自主権がなく協定関税制をとるという不平等条約でした。

幕府はこの後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスなどの西欧列強とも同様の条約を結び、これらを安政の五カ国条約といいます。こうして日本は欧米諸国と貿易を開始し、資本主義的世界市場に組み込まれました。開港した神奈川は交通量が多い宿場町だったため、近隣の横浜にかえられ、横浜開港とともに下田は閉鎖され、兵庫も1867年(慶応3年)ようやく開港の勅許を得たものの実際には現在の神戸になり、新潟も貿易港として改修する必要があるとして遅れ、開港は1868年(明治元年)となりました。1860年(万延元年)に幕府は日米修好通商条約批准書交換のため外国奉行新見正興を主席全権としてアメリカに派遣し、このとき勝義邦(勝海舟,1823~99)らが幕府艦咸臨丸を操縦して太平洋横断に成功しました。
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『詳説日本史』 山川出版社
『日本史用語集』 山川出版社

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