文明開化
明治維新は、王政復古の大号令ではじまったように、はじめは復古的特徴が強いものでしたが、明治政府は「百事一新」「旧制打破」のスローガンのもと、欧米社会からさまざまな制度・知識・文化などを取り入れたため、日本にもさまざまな分野で
文明開化が起こりました。
宗教
明治政府は、最初王政復古と「神武創業の始」に立ち返る立場から、祭政一致を目標に神祇官を再興し、様々な国学者や神道家を登用しました。神道を中心とした国民教化をすすめるため、1870年(明治3年)に
大教宣布の詔を出し、神社制度を作り、神社神道の普及に努めました。明治政府は1869年(明治2年)、戊辰戦争の戦死者を合祀するため
招魂社を創設し、その後1879年(明治12年)に
靖国神社と改め、別格官幣社としました。神社神道の普及により、天皇親政が強調され、国民に対し天皇が古来からの統治者であるという宣伝も広く行われ、神格化が進みました。こうした流れを受けて、天長節や紀元節が国の祝祭日となりました。
1868年(明治元年)、明治政府は
神仏分離令を出し、全国で寺や仏像・仏具・経典などが破壊される
廃仏毀釈の運動が起こりました。廃仏毀釈により、多数の貴重な仏教の品々が失われましたが、神仏分離は国民に浸透しませんでした。1872年(明治5年)に、
教部省が設置されますが、この機関もさしたる成果を上げることができず、のちに廃止されました。
江戸幕府により、禁教となっていたキリスト教も、明治政府成立後
五傍の掲示により依然として禁じられ、長崎では多数の信者が改宗を強制された
浦上信徒弾圧事件が起こりました。キリスト教弾圧に対し、欧米列強は激しく抗議し、キリスト教禁教が条約改正交渉に悪影響を与えるとして岩倉使節団帰国後の1873年(明治6年)に禁教が解かれました。
教育制度
明治政府は、欧米の近代的学校教育制度を採用するため、1871(明治4年)に
文部省を設置し、翌年
学制を公布しました。江戸時代の寺子屋に代わり、全国に2万校以上の小学校が設立され、1875年(明治8年)の男子就学率は50%を超えました。一方女子の就学率は18.7%で、男女間に大きな格差がありました。学校制度は負担が増えるとして農民一揆がおこった地域もありました。学制はフランス式を採用し、全国に8大学区、32中学校区、210小学区を設置する計画でしたが、実際はうまくいかず、1879年(明治12年)の教育令公布により廃止されました。
幕府の昌平坂学問所や開成所を受け継いだ明治政府は、1869年(明治2年)に
大学南校(のち東京開成学校)を設置し、洋学者や外国人教師を招いて高等教育機関の設置をはじめました。1877年(明治10年)に
東京開成学校と
東京医学校が合併し、西洋風の近代的総合大学の
東京大学が創設されました。女子教育の拡充もすすめられ、1872年(明治5年)に官立女学校、女子師範学校が創設されました。一方民間でも、
福沢諭吉(1834~1901)が
慶應義塾、
新島襄(1843~90)が
同志社を創設し、さまざまな私立学校が全国で開学しました。