社会の変容
享保の改革以降、年貢増徴政策により各地の農民の生活は苦しくなっていきました。一部の村役人は、年季奉公人を使って
地主手作を始め、商品生産を行いました。こうした人々は
豪農となり、一方田畑を手放した小百姓は小作人となったり、都市や農村の年季奉公や日用稼ぎで生計をたてました。農民層の解体により、豪農と小作人との間で対立がはじまり、
村方騒動が起こるようになりました。
都市では、経済活動の担い手である商人の自立が確立し、問屋商人の金融網は全国に及びました。
三井家などの大商人が成長する中、生産そのものにも関与する問屋制家内工業が発展していきました。また、各地で卸売市場が発達し、大坂堂島の米市場、雑喉場の魚市場、天満の青物市場、日本橋の魚市場、神田の青物市場などが著名な市場となっていきました。町も大きく変容し、大商人が町屋敷を買い占めたため持家町人が減り、住民の多くは地借・店借・商家奉公人となっていきました。また、其日稼ぎという長屋に住む人々も多くおり、わずかな収入で暮らしていました。
一揆と打ちこわし
村請制度のもと、百姓は年貢などの重い負担に耐えていましたが、藩や幕府による年貢増徴により更に大きな負担を強いられる場合には、領主に対して村を単位に要求をかかがてしばしば
百姓一揆を起こしました。百姓一揆は江戸時代に3000件以上確認され、時代ごとに形態が変わっていきました。17世紀はじめの百姓一揆は、徳川政権に抵抗する武士を交えた武力蜂起や逃散などで、中世の一揆の形態に近いものでした。これに対し、17世紀後半からは、村々の代表者が、百姓全体の要求を携え領主に直訴する
代表越訴型の一揆が増加し、下総の
佐倉惣五郎や上野の
磔茂左衛門たちは伝説的な代表者として、義民と言われています。また、この時期には、村を越え広い地域の農民が団結して行動する惣百姓一揆も起こるようになり、一揆が藩領全体に及ぶ
全藩一揆も見られるようになりました。1686年(貞享3年)の信濃松本藩の嘉助騒動、1738年(元文3年)の陸奥磐城平藩の元文一揆などは全藩一揆の代表例です。他方で、領主や特権商人の流通独占に対し、在郷商人と農民が団結し、郡や国の規模まで広がり、訴願する
国訴も起こり、1823年(文政6年)には菜種・綿の流通規制に反対する摂津・河内・和泉の1000以上の村が結集し、国に訴願しました。一揆の際には、農民は新税廃止や専売制撤廃などを藩に要求し、聞き入れられない場合、ときには藩政策に協力した商人や村役人の家を打ち壊すなど実力行動も取りました。徳川幕府や諸藩は、一揆の要求を部分的に認めることもありましたが、その多くは武力で鎮圧し、首謀者を厳罰にしました。こうした幕府の厳しい弾圧にも関わらず、度重なる凶作や飢饉を背景に百姓一揆は増加していきました。
1732年(享保17年)に、西日本一帯でイナゴの大発生が契機となり全国的に大凶作となり、
享保の飢饉が起こりました。深刻な米不足により、米価の値段が高騰し、民衆の生活は苦しさを増しました。翌年、江戸の高間伝兵衛という有力米問屋が、米を買い占め米価を高騰させたとして民衆により打ち壊されました。また、1782年(天明2年)に、東北地域の冷害がきっかけとなり飢饉となり、更に翌年追い打ちをかけるように
浅間山が大噴火したため江戸時代有数の
天明の大飢饉が起こりました。津軽藩では餓死者が十数万人に達し、村々の荒廃と食糧不足から百姓一揆が発生し、江戸や大坂では貧民を中心に激しい打ち壊しが起こりました。江戸時代にはこうした飢饉が度々起こり、
享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉を江戸時代の三大飢饉といいます。