惣村の形成と土一揆
鎌倉時代後期以降、荘園や公領(郷)の内部に、自然発生的に
村が形成されていきました。南北朝時代に各地に広がり、こうした村を
惣村や
惣といいました。惣村は、更に荘園や郷を中心にまとまり、惣荘や惣郷という大きく強い結合体となっていきました。また、荘園や郷が複雑に入り組んだ近畿地方では、領主が異なる複数の惣村が荘園・公領の枠組みを超えて連合し、
与郷という地域横断的な共同体を結成することもありました。一方で関東では緩やかな村落形成が主で、
郷村が形成され、その社会体制を
郷村制といいました。
惣村のメンバーは、不法行為を行う代官や荘官の罷免や水害被害による年貢減免などを求めて一揆を結び、要求を百姓申状に書き連ね荘園領主に
愁訴を行いました。要求が認められない場合は退去して荘園領主のもとに押しかける
強訴や、耕作放棄し他領や山林に逃げ込む
逃散を行うときもありました。
惣村は有力農民の名主たちに加え、新たな小農民もメンバーとなり、神社の宮座などを中心に結束を強めていきました。惣村の正規のメンバーとして宮座への出席を認められた者を
惣百姓といいました。惣村では寄合という会議で物事が決められ、おとな(乙名・長・年寄)・沙汰人・番頭などの指導者によって運営されました。惣村の発展とともに、荘園領主に納める年貢を惣村がひとまとめにして請け負う
地下請が広まり、惣村内では惣掟(村掟・地下掟)や村民が警察権を行使する地下検断などを行うようになりました。惣村の有力者の中には、やがて守護大名と主従関係を結び侍身分を獲得する者も現れ、彼らを
地侍と呼びました。
1428年(正長元年)には、
正長の土一揆(徳政一揆)がおこり、近江の馬借が徳政を求めて蜂起し、京都近郊の惣村から土一揆が起こり、京都の土倉・酒屋を襲って売買・貸借証文を奪いました。こうした私徳政の様子は柳生碑文に刻まれています。翌年1429年(永享元年)には
播磨の土一揆が、守護赤松氏の家臣を追い出す目的で起こされ、1441年(嘉吉元年)には
嘉吉の徳政一揆が起こり、ついに室町幕府は徳政令を発布しました。徳政一揆は天皇や将軍が代わるときに起こることが多く、こうした時期に所有関係や貸借関係が精算されるという社会通念が作用したともいわれます。幕府はこうした徳政一揆に対し、
分一銭の制度をはじめました。