建武の新政
鎌倉幕府滅亡後、
後醍醐天皇は天皇政治の理想といわれた醍醐天皇・村上天皇の治世を模範として、建武の新政を始めました。
後醍醐天皇は、まず形骸化していた官衙を復活させ、中務省以下太政官の八省の卿に大臣級の貴族を任命し、天皇の下で再編成しました。また知行国制の広まりにより力を失いつつあった国司を重視し、上級貴族や側近を積極的に国司に任命しました。天皇の権限も強化され、土地の所有権の確認は
綸旨(天皇の指令書)を唯一の根拠とし、幕府や院政の存在を否定しました。こうして、貴族たちは天皇の手の内にいることで、経済的基盤を保障されるようになっていきました。
新政府の中央機関として、国政の議決を行う
記録所、所領問題処理のための
雑訴決断所、討幕に功のあった者の恩賞を取り扱う
恩賞方が設置され、地方支配には国司・守護が併置されました。奥羽には
義良親王が派遣され、
北畠顕家が補佐し、関東には
成良親王が派遣され、
足利直義(足利高氏の弟)が補佐しました。これらは
陸奥将軍府・鎌倉将軍府と呼ばれました。
建武の新政は、後醍醐天皇が自ら指揮を取り推し進められましたが、結果的に3年ほどで破綻してしまいました。理由は以下でした。
・天皇への権力集中を急速に行ったことで、中央・地方政治共に無理が生じた。
・公家は貴族政治の復活を、武家は北条氏に代わる武家政治の誕生を望むなど、新政府へ参加した人々の思惑が一致していなかった。
・大内裏造営の大事業を行うため、全国に重税を課した。
・銅銭や紙幣などの新銭発行を場当たり的に行った。
・鎌倉時代に多くの富をもたらした鎌倉幕府の存在を否定した。
鎌倉幕府は確かに滅亡しましたが、北条氏や御内人の勢力が滅んだだけで、全国に広がる武士勢力の力は依然として強大なものでした。そのため、御家人の代表の
足利高氏や畿内の新興武士を統率した
護良親王が力を持ち始めました。足利高氏は御家人の挙兵を促した功績を評価され天皇の一字である尊治を許され
足利尊氏と名乗るようになりました。
護良親王は足利尊氏の勢力拡大を警戒し、強引に征夷大将軍に就任し、武士の掌握に乗り出しましたが、将軍位を中核とする武家政権に否定的な後醍醐天皇の怒りを買い、鎌倉に流されました。鎌倉にいた足利直義は護良親王を拘禁したのち殺害し、足利尊氏の武士の首領としての座は不動のものになりました。
建武の新政への不満は、地方武士の反乱として現れ、1335年(建武2年)北条高時の遺児時行が信濃で挙兵し、足利直義を破り鎌倉を占拠しました。この
中先代の乱に対し、足利尊氏は征夷大将軍の任命を求めましたが、後醍醐天皇はこの要請を却下します。足利尊氏は天皇の勅許を持たぬまま京を発ち、北条氏を破り鎌倉を奪還しました。こうして流れの中で、足利尊氏は朝廷に反旗を翻すことを決め、また朝廷はこれを討伐するため
新田義貞を派遣しました。しかし、新田軍は竹の下の戦いに敗れ敗走し、足利尊氏はこれを追い京都に侵入しました。
1336年(建武3年)、奥州から上洛した北畠顕家に敗れた足利尊氏は、一時九州に落ち延びましたが、ここで九州の武士たちの支持を受け大軍を率いて東上し、摂津の湊川で
楠木正成を戦死させ、京都を制圧しました。
足利尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の
光明天皇(在位1336〜48)を擁立し、当面の政治方針を明らかにした
建武式目を発表しました。こうして
1336年(建武3年)11月7日、建武式目制定の日をもって
室町幕府が成立しました。