足利高氏の登場と鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府は船上山を攻撃するため、
足利高氏(1305〜58)を京都に派遣しました。足利氏は源氏の名門で、代々北条得宗家と縁戚関係を結び、得宗家に次ぐ家格でした。しかし、鎌倉を発った足利高氏は、ひそかに後醍醐天皇と連絡を取り、討幕に転じ、各地の有力御家人に協力を求めました。
足利高氏の離反は、情勢を見極めていた全国の武士たちに大きな影響を与え、討幕派に転じた武士たちは、次々に各地の鎌倉幕府・北条氏の拠点を攻め始めました。足利高氏は、赤松円心らとともに六波羅を攻め落とし、関東では鎌倉を脱出した足利高氏の子
千寿王(のちの足利義詮)のもとに多くの武士が集結しました。源氏一門の新田義貞(1301〜38)はこの大軍を指揮し、鎌倉に攻め入り、北条高時と一門・御内人は自害し、
1333年(元弘3年)5月、鎌倉幕府はついに滅亡しました。
後醍醐天皇は伯耆を発ち、途中で光厳天皇の廃位を宣言し、京都に戻りました。こうして、後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生し、新しく
建武の新政がはじまりました。