鎌倉時代の中世文学
鎌倉文化は、新しく起こった鎌倉仏教の影響を強く受けて成立しました。武士の家庭に育った
西行は、世の無常を感じ妻子を残し出家し、歌集『山家集』を残しました。京都の日野山の庵に隠遁した
鴨長明(1155?〜1225)は動乱期の事件を元に『
方丈記』を書き記しました。天台宗の天主座主にあった
慈円は、貴族出身に出自から衰退する貴族社会を観察し、『
愚管抄』を著しました。
後鳥羽上皇は、院中に和歌所を置き、
藤原定家(1162〜1241)・
藤原家隆(1158〜1237)・
寂蓮法師(1139?〜1202)らに『
新古今和歌集』を選ばせました。『新古今和歌集』には、この三名の他、後鳥羽上皇・九条兼実の息子良経・兼実の弟慈円・西行らが優れた歌人として選ばれています。藤原定家に師事した将軍
実朝は、『
金槐和歌集』を残しました。しかし、その後藤原定家の子孫は、
二条・京極・冷泉の三家にわかれ家元を争い、歌の名手はあらわれなくなります。
小説では、『石清水物語』『苔の衣』などが書かれましたが、平安文学には及びませんでした。
歴史文学では、『大鏡』の影響を受けた『今鏡』『水鏡』が作られます。仏教書としては虎関師錬の『元享釈書』がかかれ、また、鎌倉幕府による史書『
吾妻鏡』が歴史的に重要な書物として残っています。
日記、紀行文学では、『東関紀行』『海道記』『
十六夜日記』などがあります。
説話文学では、『
宇治拾遺物語』『
十訓抄』『
古今著聞集』がつくられました。
随筆では、吉田(卜部)兼好(1283?〜1352?)の『徒然草』が名作として名高い作品として残っています。
軍記物語では、『
保元物語』『
平治物語』『
平家物語』『
承久記』などがあり、
和漢混淆文で書かれました。
注釈書では、『日本書紀』の注釈書として卜部兼好の『釈日本紀』、『万葉集』の注釈書として僧仙覚の『万葉集註釈』、源氏物語の注釈書として源光行・親行父子の『水原抄』がつくられました。
この時代、朝廷の儀式や作法を研究する
有識故実も広まり、順徳天皇(在位1210〜21)の『禁秘抄』や後鳥羽上皇の『世俗浅深秘抄』などが書かれました。
武士の間でも徐々に学問が広がり、北条実時は、武士の間での学問の便を図るため、金沢の称名寺に和漢の書を集め
金沢文庫をはじめました。
南宋の朱熹によってはじめられた儒学の一派
宋学(朱子学)は、俊芿や禅僧中巌円月によりこのころ日本に伝えられ、広がっていきます。
神道でも新しい思想がおこり、伊勢外宮の神官度会家行が『類聚神祇本源』を著し、伊勢神道(度会神道)を大成させます。