平家物語
大納言死去
かくて四五日過ぎければ、信俊、
「これに候ひて、御最後の御有様見参らせむ。」
と申しければ、あづかりの武士、難波次郎経遠、かなふまじき由しきりに申せば、力及ばで、
「さらば上れ。」
とこそのたまひけれ。
「我は近う失はれむずらむ。この世になき者と聞かば、相かまへて我が後世とぶらへ。」
とぞのたまひける。御返事書いてたうだりければ、信俊これをたまはつて、
「またこそ参り候はめ。」
とて、暇申して出でければ、大納言、
「汝がまたこんたびを、待ちつくべしともおぼえぬぞ。あまりに慕はしくおぼゆるに、しばししばし。」
とのたまひて、たびたび呼びぞかへされける。
さてもあるべきならねば、信俊涙をおさへつつ、都へ帰り上りけり。北方に御文まゐらせたりければ、これをあけて御覧ずるに、はや出家し給ひたるとおぼしくて、御ぐしの一房、文の奥にありけるを、二目とも見給はず、
「形見こそ中々今はあだなれ。」
とて、臥しまろびてぞなかれける。をさなき人々も、声々になきかなしみ給ひけり。
さる程に大納言入道殿をば、同じき八月十九日、備前備中両国の堺庭瀬の郷、吉備の中山といふ所にて、つひに失ひ奉る。その最期の有様、やうやうに聞えけり。酒に毒を入れてすすめたりけれども、かなはざりければ、岸の二丈ばかりありける下に、菱をうゑて、上より突き落し奉れば、菱に貫かつて失せ給ひぬ。無下にうたてき事共なり。ためし少なうぞおぼえける。
大納言の北の方は、この世になき人と聞き給ひて、
「いかにもして、今一度変はらぬ姿を見もし見えむとてこそ、今日まで様を変へざりつれ。今は何にかはせむ。」
とて、菩提院といふ寺におはし、様を変へ、かたの如くの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひ給ひける。この北の方と申すは、山城守敦方の娘なり。すぐれたる美人にて、後白河法皇の御最愛ならびなく御思ひ人にておはしけるを、成親卿、有難き寵愛の人にて、たまはられたりけるとぞ聞こし。をさなき人々も、花を手折、閼伽の水を結んで、父の後世をとぶらひ給ふぞ哀れなる。さる程に、時移り事去つて、世の変はり行く有様は、ただ天人の五衰にことならず。
つづき