蜻蛉日記
木陰いとあはれなり
木陰いとあはれなり。山かげのくらがりたるところを見れば、ほたるはおどろくまで照らすめり。里にて、むかしもの思ひうすかりしとき、
「二声(ふたこゑ)と聞くとはなしに」
と腹だたしかりしほととぎすもうちとけて鳴く。くひなはそこと思ふまでたたく。いといみじげさまさる物思ひのすみかなり。
人やりならぬわざなれば、とひ訪(とぶら)はぬ人もありとも、ゆめにつらくなど思ふべきならねば、いと心やすくてあるを、ただかかる住(すま)ひをさへせんとかまへたりける、身の宿世(すぐせ)ばかりをながむるにそひてかなしきことは、日ごろの長精進しつる人のたのもしげなけれど、見ゆづる人もなければ、かしらもさしいでず、松の葉ばかりに思ひなりにたる身の、おなじさまにて食はせたれば、えも食ひやらぬを見るたびにぞ、涙はこぼれまさる。
かくてあるはいと心やすかりけるを、ただ涙もろなるこそいとくるしかりけれ。夕暮れの入相(いりあひ)の声、ひぐらしの音、めぐりの小寺のちいさき鐘ども、我も我もとうちたたきならし、まへなる岡に神の社もあれば法師ばら読経たてまつりなどする声をきくにぞ、いとせんかたなくものはおぼゆる。
かく不浄なるほどは夜昼のいとまもあれば、端の方にいでゐてながむるを、このをさなき人、
「入(い)りね、いりね」
といふけしきを見れば、物をふかく思ひ入れさせじとなるべし。
「など、かくはの給ふ」
「なほいと悪し、ねぶたくもはべり」
など言へば、
「ひた心になくもなりつべき身を、そこにさはりて今まであるを、いかがせんずる。世の人のいふなるさまにもなりなん。むげに世になからんよりは、さてあらばおぼつかなからぬほどに通ひつつ、かなしき物に思ひなして見給へ。かくていとありぬべかりけりと身ひとつに思ふを、ただいとかくあしきものして物をまゐれば、いといたくやせ給ふをみるなん、いといみじき。 かたちことにても京にある人こそはと思へど、それなんいともどかしう見ゆることなれば、かくかく思ふ」
と言へば、いらへもせでさくりもよよになく。