平家物語
殿下乗合
平家もまた、別して朝家を恨み奉る事もなかりしほどに、世の乱れそめける根本は、去(い)んじ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男、新三位中将資盛(すえもり)卿、その時はいまだ越前守(えちぜんのかみ)とて十三になられけるが、雪ははだれに降ったりけり、枯野の景色、まことに面白かりければ、若き侍ども丗(さんじゅう)騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野・右近馬場(うこんのばま)にうち出でて、鷹どもあまたすゑさせ、うづら・雲雀(ひばり)を追ったて追ったて、終日に狩り暮らし、薄暮に及んで六波羅へこそ帰られけれ。その時の御摂禄は、松殿にてましましけるが、中御門東洞院の御所より、御参内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出に鼻づきに参りあふ。御供の人々、
「何者ぞ、狼藉なり。御出のなるに、乗り物よりおり候へおり候へ」
といらでけれども、あまりにほこり勇み、世を世ともせざりける上、召し具したる侍ども、皆廿より内の若き者どもなり。礼儀骨法弁(わきま)へたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼義にも及ばず、駆け破つて通らむとする間、暗さは闇し、つやつや入道の孫とも知らず、また少々は知りたれども、そら知らずして資盛朝臣をはじめとして、侍ども皆馬より取って引き落とし、すこぶる恥辱に及びけり。