建礼門院右京大夫集『悲報到来』
ここでは、建礼門院右京大夫集 の中の『悲報到来』の現代語訳と解説をしています。
原文(本文)
またの年の春ぞ、まことにこの世のほかに聞き果てにし。そのほどのことは、
まして何とかは言はん。みな
かねて思ひしことなれど、ただ
ほれぼれとのみおぼゆ。あまりに
せきやらぬ涙も、かつは見る人も
つつましければ、何とか人も思ふらめど、
「
心地のわびしき。」
とて、
引きかづき、寝暮らしてのみぞ、心のままに泣き過ぐす。
いかでものをも忘れむと思へど、
あやにくに面影は身に添ひ、言の葉ごとに聞く心地して、身を責めて、悲しきこと言ひ尽くすべき方なし。ただ、限りある命にて、はかなくなど聞きしことをだにこそ、悲しきことに言ひ思へ、これは、
何をかためしにせんと、返す返すおぼえて、
なべて世のはかなきことを悲しとはかかる夢見ぬ人や言ひけん
ほど経て、人のもとより、
「
さても、このあはれ、いかばかりか。」
と言ひたれば、なべてのことのやうにおぼえて、
悲しともまたあはれとも世の常に言ふべきことにあらばこそあらめ
現代語訳(口語訳)
次の年の春に、本当に、(資盛が)この世の外の人になってしまった(あの世の人になってしまった)と聞いてしまいました。その時のことは、まして何と言いましょうか、いや言いようががりません。みな前もって思っていたことでしたが、ただ呆然としてしまいました。あまりにもこらえ止められない涙も、一方では、(その様子を)見る人にもはばかられるので、どうしたのかと人も思っているでしょうが、
「気分が悪い。」
といって、頭から着物をかぶって、終日寝てばかりいて、心の思うままに泣いて過ごしています。どうにかして忘れようと思うのですが、意地が悪いことに資盛の面影が身にまとい、(資盛が生前口にした)一言一言を聞くような心地がして、この身を責める悲しさを(言葉では十分に)言い尽くすすべがありません。ただ、限りのある寿命を(全うして)亡くなったと聞くことでさえ、悲しいと言い思うのに、これ(資盛の死)は何を例としましょうか、いや例にするものはありません、と重ね重ね思われて(次の歌を詠みました。)
一般に、世の中の死のことを悲しいと思うのは、このような悪夢を見ていない人が言ったことでしょうか。
しばらくして、ある人のもとから、
「ところで、今回の悲しさは、どのようなほどでしょうか。」
と言ってきたので、一般的な(慰めの挨拶)ものに思われて、
悲しいとも、また、もの悲しいとも、世の中にあふれた感情で言うことができれば良いのですが。
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