『肝試し(道長の豪胆)』
ここでは、大鏡の中の『『肝試し・道長の豪胆』の『「子四つ。」と奏して〜』から始まる部分の現代語訳と解説をしています。
※前回のテキスト:
大鏡『肝だめし・道長の豪胆(さるべき人は、とうより〜)』の現代語訳
※
大鏡は平安時代後期に成立したとされる歴史物語です。
藤原道長の栄華を中心に、宮廷の歴史が描かれています。
原文(本文)
「子四つ。」
と
奏して、かく
仰せられ議するほどに、
丑にもなりにけむ。
「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ。」
と、それをさへ分かたせ給へば、しかおはしましあへるに、中関白殿、陣まで
念じておはしましたるに、宴の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術なくて帰り給ふ。粟田殿は、露台の外まで、
わななくわななくおはしたるに、仁寿殿の東面の砌のほどに、軒とひとしき人のあるやうに見え給ひければ、
ものもおぼえで、
「身の候はばこそ、仰せ言も承らめ。」
とて、おのおの立ち帰り参り給へれば、御扇をたたきて笑はせ給ふに、入道殿は、いと久しく見えさせ給はぬを、いかがと思し召すほどにぞ、いと
さりげなく、ことにもあらずげにて、参らせ給へる。
「いかにいかに。」
と問はせ給へば、いと
のどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、
「こは何ぞ。」
と仰せらるれば、
「
ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり。」
と、
つれなく申し給ふに、いと
あさましく思し召さる。異殿たちの御気色は、
いかにもなほ直らで、この殿のかくて参り給へるを、帝よりはじめ
感じののしられ給へど、うらやましきにや、またいかなるにか、ものも言はでぞ候ひ給ひける。
なほ疑はしく思し召されければ、つとめて、
「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ。」
と仰せ言ありければ、持て行きて、押しつけて見たうびけるに、つゆ
違はざりけり。その削り跡は、いと
けざやかにて侍めり。末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。
現代語訳(口語訳)
「子四つ。」
と(誰かが帝に)申し上げ、このようにおっしゃって相談しているうちに、丑の刻にもなったでしょうか。
「道隆は右衛門の陣から出発しなさい。道長は承明門から出発しなさい。」
と、(帝は)出発する門までもお分けになられました。中関白殿(道隆)は、右衛門の陣までは我慢なさっていましたが、宴の松原のあたりで、得体のしれない声が聞こえたので、なす術がなくお帰りになります。粟田殿(道兼)は、露台の外まで、震えていらっしゃいましたが、仁寿殿の東面の砌のあたりに、軒と同じぐらいの大きさの人がいるようにお見えになったので、どうしてよいかわからなくなり、
「体が無事だからこそ、ご命令をお受けすることができましょう。」
といって、それぞれ引き返していらっしゃったので、(帝は)扇をたたいてお笑いになります。入道殿(道長)は、ずいぶんとお見えにならないので、どうしたものかと(帝が)お思いになっているうちに、さりげなく、何事もなかったかのように、参上なさいます。
「どうであったか。」
と(帝)がお尋ねなさると、大変落ち着いて、(借りた)刀と削られた物を一緒にして(帝に)差し上げなさいます。
「これは何か?」
と仰るので(道長は)、
「むなしく(手ぶらで)帰って参りますのは、(行ったという)証拠がございませんから、高御座の南面の柱の下(の部分)を削って参りました。」
と平然と申し上げなさるので、とても驚きあきれていらっしゃいます。他の殿たちのお顔色は、どのようにしても依然として元通りにならないで、この殿(道長)がこのように帰ってまいられたのを、帝をはじめ(周りの人たちが)感心してお褒めになられたのを、うらやましく思ったのでしょうか、それともどのような理由ででしょうか、何も言わずに控えていらっしゃいました。
(帝は)それでも疑わしくお思いになったので、(次の日の)早朝に、
「蔵人に、削り屑と柱の削った跡を合させてみなさい。」
とお命じになられたので、(蔵人が削屑を)持って行って、(柱の傷に削り屑を)押しあててご覧になったところ、少しも違いませんでした。その削り跡は、大変はっきりとしているようです。後の世でも、(その削り跡を)見る人はまた、驚きあきれることだと申しました。
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