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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 戦国時代・安土桃山時代

織田信長の主な戦い

著者名: 早稲男
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戦国時代で最も有名な武将の一人が織田信長でしょう。
信長の後を次いで天下統一を成し遂げた豊臣秀吉徳川家康とはよく比較されるところです。
ここでは、織田信長が戦ってきた戦の中で有名所をまとめてみました。
年代ごとにみていきましょう。

桶狭間の戦い

1560年に、東海一の大名だった今川義元を倒した戦いです。
3万近くの大軍を率いていた今川義元を、その10分の1程度の戦力した持たなかった織田信長が破ったこの戦いは、歴史上有名な戦いの1つです。
この戦いの後、東海地方に君臨していた今川家は没落し、尾張の小大名にすぎなかった織田信長は勢力を拡大していきます。まさに戦国時代のターニングポイントとなった戦いでしょう。

稲葉山城の戦い

織田信長が美濃の斎藤龍興を破り、この戦いの後この土地を岐阜と改めました。

もともと信長は、斎藤龍興の祖父、斎藤道三と争いを続けていました。しかし、道三の娘「濃」を奥さんにすることで信長と道三は和睦を結んだのです。
しかしながら、斎藤道三がその息子義龍に討ち取られたことで情勢は一変します。和睦も破棄され再びにらみ合うようになります。信長は、義龍から家督を継いだ龍興を滅ぼしこの戦いに終止符をうったのです。

この戦いの後、信長は天下布武という言葉を用い始め、天下統一への足がかりにしたと言われています。

姉川の戦い

1570年に、織田信長/徳川家康の連合軍が、浅井長政/朝倉景高の連合軍を打ち破った戦いです。
そもそも浅井長政は信長の妹「市」を妻としていました。しかしながら、織田家との同盟よりも朝倉家との同盟を重視した浅井長政は信長に反旗を翻します。
この戦いに敗れた浅井長政は逃走し、野田城・福島城の戦い、一乗谷城の戦い、小谷城の戦いを経て信長に滅ぼされます。
長政の妻であった市は戦いの後に3人の子どもをつれて信長の元にもどってきます。
この3人の子どもこそが、2011年の大河ドラマで扱われていた浅井3姉妹です。

比叡山延暦寺の焼き討ち

姉川の戦いの後、浅井家・朝倉家の軍勢をかくまったとして、比叡山にある延暦寺を焼き討ちにしました。僧侶だけではなく女性や子どもにも手をかけており、信長の残忍さがわかる戦いの一つです。

僧侶との戦い(戦いの名称ではありません)

武将との戦いに明け暮れる一方で、宗教的に力を持っていた寺院との抗争も激しさを増します。
特に大きな勢力を持っていた石山本願寺とは戦を重ね石山合戦や、長島の一向一揆の戦いは有名です。

長篠の戦い

1575年に、当時最強とうたわれていた武田勝頼の騎馬隊を破った戦いです。(武田勝頼は武田信玄の子どもです。)
この戦いを有名にしたのは、初めて鉄砲隊が戦で活躍したという点です。

まとめ

ここで書いたのは、織田信長が戦ってきた戦のほんのわずかです。(有名所ばかりです)
桶狭間の戦いは1560年でしたが、1570年以降の戦いの数は尋常ではありませんね。これを勝ち抜いた織田軍の兵力には目を見張るものがあります。
しかし、そんな信長も最後は本能寺の変で、明智光秀によって滅ぼされてしまい、天下統一は夢に終わってしまいます。
たった10年~20年で勢力が大きく変わってしまう、本当に動乱な時代だったのでしょう。
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『日本史用語集』 山川出版

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