平家物語
俊寛沙汰・鵜川軍
この法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言、させる弓矢をとる家にはあらねども、あまりに腹悪しき人にて、三条坊門京極の宿所の前をば、人をもやすく通さず、常は中門にたたずみ、歯を食ひしばり怒ってぞおはしける。かかる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心も猛(たけ)く奢れる人にて、由なき謀反にもくみけるにこそ。新大納言成親卿は、多田蔵人行綱をよびて、
「御辺をば、一方の大将に頼むなり。この事しおほせつるものならば、国をも庄をも所望によるべし。まづ弓袋の料に」
とて、白布五十端送られたり。
つづき