蜻蛉日記
三月になりぬ
三月になりぬ。木の芽、すずめがくれになりて、まつりのころおぼえて、榊(さかき)笛こひしう、いとものあはれなるにそへても、音なきことを猶おどろかしけるもくやしう、例の絶えまよりもやすからずおぼえけんは、なにの心にかありけん。
この月七日になりにけり。今日ぞ
「これ縫ひて。つつしむことありてなん」
とある。めづらしげもなければ、
「給はりぬ」
など、つれなうものしけり。昼つ方より、雨のどかにはじめたり。
十日、おほやけは八幡のまつりのこととののしる。我は、ひとのまうづめるところあめるに、いとしのびて出でたるに、昼つか方かへりたれば、あるじのわかき人々、
「いかでもの見ん。まだわたらざなり」
とあれば、かへりたる車もやがて出だし立つ。
又の日、かへさ見んと人々のさはぐにも、心ちいとあしうてふしくらさるれば、見ん心ちなきに、これかれそそのかせば、ただ檳榔(びらう)ひとつに四人許のりて出でたり。冷泉院の御門(みかど)の北の方にたてり。こと人おほくも見ざりければ、人ごこちしてたてれば、と許ありてわたる人、わがおもふべき人も陪従(べいじう)ひとり、舞人にひとりまじりたり。
このごろ、ことなることなし。