蜻蛉日記
その暮れて又の日
その暮れて又の日、なま親族(しぞく)だつ人とぶらひにものしたり。破籠(わりご)などあまたあり。まづ、
「いかでかくは。なにと、などせさせ給ふにかあらん。ことなることあらでは、いとびんなきわざなり」
といふに、心に思ふやう、身のあることをかきくづし言ふにぞ、
「いとことはり」
といひなりて、いといたく泣く。日ぐらしかたらひて、夕暮のほど、例のいみじげなることどもいひて、鐘の声どもしはつるほどにぞ帰る。心ふかくもの思ひしる人にもあれば、まことにあはれとも思ひ行くらんと思ふに、またの日、旅に久しくもありぬべきさまの物どもあまたある。身には言ひつくすべくもあらず、かなしうあはれなり。
「かへりし空なかりしことの、はるかに木高(こだか)き道をわけいりけんと見しままに、いといといみじうなん」
など、よろづ書きて、
「世中のよのなかならば夏草の しげき山べもたづねざらまし
物を、かくておはしますを見給へおきてまかり帰ることと思う給へしには、目もみなくれまどひてなん、あが君、ふかくものおぼし乱るべかめるかな。
世中は思ひのほかになるたきのふかき山ぢをたれあらせけん」
など、すべてさしむかひたらんやうに、こまやかに書きたり。鳴滝といふぞ、このまへより行水(ゆくみづ)なりける。
返りごとも思ひいたるかぎりものして、
「たづねたまへりしも、げにいかでと思う給へしかど、
物おもひのふかさくらべにきてみれば 夏のしげりもものならなくに
まかでんことはいつともなけれど、かくの給ふ事なん思う給へわづらひぬべけれど、
身ひとつのうくなるたきをたづぬれば さらにかへらぬ水もすみけり
と見れば、ためしある心ちしてなん」
などものしつ。