御輿はとくいらせ給ひて、しつらひゐさせ給ひにけり。
「ここに呼べ」
と仰せられければ、
「いづら、いづら」
と右京小左近などいふ若き人々待ちて、まゐる人ごとに見れどなかりけり。下るるにしたがひて、四人づつ、御前にまゐりつどひてさぶらふに、
「あやし。なきか。いかなるぞ」
と仰せられけるも知らず、あるかぎり下りはててぞからうじて見つけられて、
「さばかり仰せらるるに、をそくは」
とて、ひきゐてまゐるに、見れば、いつの間にかう年ごろの御すまひのやうに、おはしましつきたるにか、とをかし。
「いかなれば、かう、なきかとたづぬばかりまでは見えざりつる」
と仰せらるるに、ともかくも申さねば、もろともに乗りたる人、
「いとわりなしや。最果の車に乗りて侍らむ人は、いかでかとくはまゐり侍らむ。これも御厨子(みづし)がいとほしがりて、ゆづりて侍るなり。くらかりつるこそわびしかりつれ」
とわぶわぶ啓するに、
「行事するものの、いとあしきなり。また、などかは、心しらざらむ人こそはつつまめ、右衛門などいはむかし」
と仰せらる。
「されど、いかでかは走り先立ち侍らむ」
などいふ、かたえの人、にくしと聞くらむかし。
「さまあしうて、高う乗りたりとも、かしこかるべきことかは。定めたらむさまの、やむごとなからむこそよからめ」
と、ものしげにおぼしめしたり。
「下り侍るほどの、いと待ち遠に、苦しければにや」
とぞ申しなほす。
御経のことにて、明日わたらせ給はむとて、今宵まゐりたり。南の院の北面にさしのぞきたれば、高杯(たかつき)どもに火をともして、二人、三人、三四人、さべきどち屏風ひきへだてたるもあり。き丁など隔てなどもしたり。またさもあらで、集まりゐて衣どもとぢかさね、裳の腰さし、化粧するさまはさらにもいはず、髪などいふもの、明日よりのちはありがたげに見ゆ。寅の時になむわたらせ給ふべかなる。
「などか今までまゐり給はざりつる。扇持たせて、もとめきこゆる人ありつ」
と告ぐ。