イスラーム世界の成立で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
イスラーム以前のアラビア半島
・
イスラーム教成立以前の
アラビア半島は、
セム語系の
アラブ人が
ベドゥインという遊牧民として暮らしていた。ベドゥインは様々な部族に分かれており、統一されていなかった。このイスラーム教成立以前の時代を「無名」「無知」の時代を意味する
ジャーヒリーヤと呼ぶ。
・この時代、アラビア半島西南部の
イエメンに『旧約聖書』に登場する
シバの女王が統治した
サバー王国(紀元前950〜紀元前115)や、その後続王朝の
ヒムヤル王国(紀元前115〜紀元後525)、ヨルダン南部に
ナバタイ王国(紀元前4世紀〜紀元後106)などが存在していた。
・アラビア半島西部には
ヒジャーズという地域があり、
イエメンと
シリア・エジプトを結ぶ通商路が通り、オアシス集落や商業都市が生まれた。ヒジャーズ南部の宗教都市が
メッカで、古くから多神教を祀る
カーバ神殿を中心に栄えた。
5世紀にメッカを征服したのち、カーバ神殿の守護権を獲得したのが
クライシュ族で、
ハーシム家と
ウマイヤ家が有力家系であった。
ムハンマドとイスラーム教の成立
・メッカの
クライシュ族ハーシム家出身の
ムハンマド(マホメット)は、隊商交易に従事した後、
610年頃アッラーの啓示を受け、
預言者となった。ムハンマドが
イスラーム教を創始すると、クライシュ族の大商人たちからの迫害をはじめたため、
622年メッカの北
300kmにある
メディナ(旧名:ヤスリブ)に
聖遷(ヒジュラ)し、イスラーム共同体である
ウンマが成立した。このヒジュラを行った622年は、
イスラーム暦(ヒジュラ暦)元年となった。
・ムハンマドは、信者とともに布教や征服活動を始め、
630年にメッカを征服した後、
632年
メディナで病死した。
・ムハンマドが創始した
イスラーム教は、
キリスト教・仏教と並ぶ世界三大宗教の一つで、唯一神
アッラーを崇拝する一神教である。イスラームとは「神への絶対的服従」を意味する。イスラーム教徒は「神に身を捧げたもの」という意味の
ムスリムと呼ばれ、預言者ムハンマドがアッラーから授けられた啓示を記録した
コーランを経典とした。コーランは
650年頃、第3代カリフ
ウスマーンの時代に完成した。イスラーム教徒には以下の様な教えがある。
■六信
・唯一全能の神(アッラーフ)
・天使の存在(マラーイカ)
・啓典(神の啓示、キターブ)
・使徒・預言者(ラスール)
・来世の存在(アーヒラ)
・定命(カダル)
■五行
・信仰告白(シャハーダ)
「アッラーの他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
・礼拝(サラー)
一日五回、メッカに向かって神に祈ること。
・喜捨(ザカート)
収入の一部を困窮者に施すこと。
・断食(サウム)
ラマダーン月の日中、飲食や性行為を行わないこと。
・巡礼(ハッジ)
メッカのカーバ神殿に巡礼すること。
イスラーム世界の成立と正統カリフ時代
・632年にメディナでムハンマドが病死すると、預言者ムハンマドの後継者として
カリフが選出されるようになった。カリフは、イスラームの教義や法を変更する
宗教的権限は持っていなかったが、
ウンマ(イスラーム共同体)を率いるための
政治・社会的権限を受け継いでいた。
11世紀以降には
スルタンが誕生し、
政治的実権が移ると、カリフは
宗教行事のみに参加するようになる。
・ムハンマド以降、
初代アブー=バクル・第2代ウマル・第3代ウスマーン・第4代アリーまでを
正統カリフといい、この時代を正統カリフ時代と呼ぶ。正統カリフ時代には、イスラーム世界の防衛及び拡大を目指した
ジハード(聖戦)が積極的に行われた。各地には
ミスルという軍営都市が建設され、
クーファ(イラク)・バスラ(イラク)・フスタート(エジプト)・カイラワーン(チュニジア)などが代表的なミスルとなった。
■アブー=バクル
初代正統カリフ(在位632〜634)で、ムハンマドの義父であった。
■ウマル
第2代正統カリフ(在位634〜644)。ジハードを積極的に行い、
ビザンツ帝国から
シリア・エジプトを獲得し、
642年には
ニハーヴァンドの戦いで
ササン朝を破り事実上崩壊させた(651年に滅亡)。また、ヒジュラを元年とする
イスラーム暦を採用した。
■ウスマーン
第3代正統カリフ(在位644〜656)。ハーシム家と並ぶクライシュ族
ウマイヤ家の出身。同族を優遇しすぎたため、暗殺された。
■アリー
第4代正統カリフ(在位656〜661)。ハーシム家出身で、ムハンマドの娘
ファーティマを妻に娶り、最後の正統カリフとなる。ウマイヤ家のシリア総督
ムアーウィアと戦ったが、最終的にアリーがムアーウィアとの妥協策を取ろうとしたことに不満を持った
ハワーリジュ派によって暗殺された。
ウマイヤ朝の成立
・アリーが暗殺されると、ウマイヤ家出身のシリア総督
ムアーウィアは、カリフを称して
ウマイヤ朝(661〜750)を開いた。これ以降、カリフはウマイヤ家の
世襲となった。ウマイヤ朝は635年にイスラーム都市となったシリアの
ダマスクスを首都にし、対外戦争を続け、
711年にはイベリア半島のゲルマン人国家
西ゴート王国を滅ぼした。
732年の
トゥール=ポワティエ間の戦いでは
カール=マルテル率いる
フランク王国に敗北したが、その後西北インドからイベリア半島、アフリカ北岸にいたる大帝国となった。
・ウマイヤ朝は第
5代
アブド=アルマリクの時代に最盛期を迎えるが、アラブ人を優遇する政策をとり続けたため、さまざまな反発がおこった。イスラーム教徒は、アラブ人と、
マワーリー(非アラブ人ムスリム)に分かれていたが、アラブ人はわずかな救貧税のみ、マワーリーはイスラームに改宗後も
ハラージュ(地租)が課せられていた。そのため、イスラーム教の平等の教えに反するとして、非アラブ人ムスリムの不満が蓄積していった。アラブ人が優遇された正統カリフ時代からウマイヤ朝までを
アラブ帝国と呼ぶ。
・この他にも、
啓典の民(キリスト・ユダヤ教徒)や
ジンミー(庇護民)などがいたが、
ジズヤと
ハラージュ(地租)の双方の支払いをすれば信仰の自由が認められていた。
・こうしたアラブ人と非アラブ人の対立のほかにも、暗殺されたアリーとその子孫のみをムハンマドの正統な後継者として認める
シーア派と、スンナ(ムハンマドの言行)に従い、代々のカリフを正当と認める
スンナ(スンニー)派の対立も激しくなっていった。
・シーア派はのちの
ファーティマ朝で国教となった過激な
イスマーイール派や、穏健派の
十二イマーム派などに分立した。
・ウマイヤ朝を認めない
シーア派や
ハワーリジュ派、不満をもった
マワーリーたちが次々と反乱を起こしたため、ウマイヤ朝は次第に衰退していった。こうした混乱の中、
750年
ハーシム家の一族である
アブー=アルアッバースがウマイヤ朝を滅ぼし、新たに
アッバース朝を開いた。