カイロとは
ファーティマ朝の時代、カイロはイスラーム世界における重要な政治、文化、宗教の中心地として成長しました。この期間は969年から1171年まで続き、カイロはファーティマ朝の首都としてその地位を確立しました。ファーティマ朝は、イスマーイール派シーア派の一部であり、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子孫を名乗るカリフ制を設けました。彼らはエジプトを征服し、カイロを新たな首都として築きました。この都市は初め「アル=カーヒラ(勝利の都市)」と名付けられ、ファーティマ朝の権威と文化を象徴する場所として発展しました。
経済的な活力
カイロの成長は、政治的な重要性だけでなく、経済的な活力にも支えられていました。ファーティマ朝は北アフリカからヨーロッパ、アジアに至る貿易ルートを活性化し、カイロを商業の中心地としての地位を確立しました。この都市は地中海と紅海を結ぶ戦略的な位置にあり、貿易の要衝として多くの富と文化的交流をもたらしました。この経済的繁栄は、科学、哲学、芸術などの分野での発展を促進しました。
文化的な多様性
文化的には、カイロは多様なコミュニティが共存する都市となりました。ファーティマ朝はイスマーイール派シーア派を国教としましたが、他のイスラーム教の宗派やキリスト教徒、ユダヤ教徒に対しても比較的寛容でした。この多様性は、異なる宗教コミュニティが共存し、都市の発展に寄与する文化的な土壌を形成しました。特にコプト教徒は、イスラーム教に改宗することなく官僚機構で重要な役割を果たし続けました。
アル=アズハル・モスク
この時代のカイロの建築的成果の一つとして、アル=アズハル・モスクが挙げられます。970年から972年にかけて建設されたこのモスクは、もともとはイスマーイール派の信者のためのものでしたが、後に世界最古の大学の一つとして発展し、イスラーム教の学問と奨学の中心となりました。アル=アズハルは、イスマーイール派の教義を広め、イスラーム世界全体での知的な議論を促す重要な役割を果たしました。
スンニ派との緊張とファーティマ朝の終焉
しかしながら、ファーティマ朝はその宗教的信念をスンニ派が大多数を占める人口に押し付けることに困難を抱えていました。このため、スンニ派とシーア派の間で緊張が続き、後のエジプトの政治的発展に影響を与えました。特に、スンニ派の指導者サラディンがファーティマ朝の衰退期に台頭し、1171年にカリフ制を廃止してエジプトをスンニ派の支配下に戻しました。
ファーティマ朝の遺産
ファーティマ朝時代のカイロは、建築の革新、貿易による経済的繁栄、文化的多様性によって特徴づけられました。この時期の遺産は、今日のカイロにも色濃く残っています。