はじめに
このテキストでは、
土佐日記の一節『
楫取りの心は神の御心』(かく言ひて、眺めつつ来る間に〜)の原文、現代語訳・口語訳とその解説を記しています。
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土佐日記は平安時代に成立した日記文学です。日本の歴史上おそらく最初の日記文学とされています。作者である
紀貫之が、赴任先の土佐から京へと戻る最中の出来事をつづった作品です。
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紀貫之は、柿本人麻呂や小野小町らとともに
三十六歌仙に数えられた平安前期の歌人です。『
古今和歌集』の撰者、『新撰和歌』(新撰和歌集とも)の編者としても知られています。
読む前に知っておきたいこと
このストーリーが始まる前に、頭に入れておきたいことがあります。この日記は、住吉というところを船が進んでいるときの話です。このシーンに進む前に、住吉の神にお祈りするシーンがありました。そのため、住吉の神が登場したときに「先ほど話した」という訳し方をしています。そしてその道中に住の江、忘れ草に関する歌を詠んでいました。その歌を詠んだことを受けて、出だしが「かく言ひて」となっています。
原文
かく言ひて、眺めつつ来る間に、
ゆくりなく風吹きて、漕げども漕げども、後へ退きに退きて、
ほとほとしくうちはめつべし。楫取りのいはく、
「この住吉の明神は、例の神ぞかし。
ほしき物
ぞおはすらむ。」
とは、今めくものか。さて、
「幣(ぬさ)を奉りたまへ。」
と言ふ。言ふに従ひて、幣奉る。かく奉れれども、
もはら風止まで、
いや吹きに、いや立ちに、風波の危ふければ、楫取りまたいはく、
「幣には御心のいかねば、御船もゆかぬなり。なほ、うれしと思ひたぶべき物奉りたべ。」
と言ふ。
また、言ふに従ひて、
「いかがはせむ。」とて、「眼もこそ二つあれ、ただ一つある鏡を奉る。」
とて、海にうちはめつれば、口惜し。されば、
うちつけに、海は鏡の面のごとなりぬれば、ある人の詠める歌、
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
いたく、住江、忘れ草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。目も
うつらうつら、鏡に神の心をこそは見つれ。楫取りの心は、神の御心なりけり。
現代語訳
このように歌を詠んで、海を眺めながら来ている間に、不意に風が吹いてきて、漕いでも漕いでも後ろへと戻っていってしまい、もう少しで船を沈めてしまいそうだ。船頭が言うには
「この住吉神社の神は、(先ほど話しに出た)例の神様です。何か欲しいものがおありなのでしょう。」
とのことで、なんとまあ今時な話であることよ。そして(船頭が)
「神にお納めものをしてください」
と言うので、船頭の言うことにしたがって、お金を納める。このように納めたのだが、まったく風はやまずに、ますます風は吹き、ますます波は立ち、波風が危険になったので、船頭がまた言うには
「先ほどの納め物では神の御心に届かなかったようなので船も進まないのです。もっと神がお喜びになるものを捧げてください。」
とのことなので、また船頭の言うことにしたがって
「どうしたものか、眼も2つあるが、たった1枚だけの鏡をお納めする」
と海に投げ込んだので、口惜しいことをした。するとあっという間に、海が鏡の表面のように静かになったので、それを見たある人が次の歌を詠んだ。
荒々しい海に神の御心を見ましたが、鏡を入れると、神の別の側面の御心も見えました
とても、住江、忘れ草、岸の姫松のような(歌に詠むような)神ではなかった。眼にはっきりと、鏡に神の御心を見た。船頭の心は、まさに神の御心だったのだ。
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