新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

ブルネレスキとは わかりやすい世界史用語2524

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
ブルネレスキとは

フィレンツェの空を支配し、その優美な曲線で都市の象徴となっているサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の巨大なクーポラ(円蓋)。この、建築史における不滅の金字塔を打ち立てた人物こそ、フィリッポ=ブルネレスキです。彼は、単なる一人の建築家という枠組みを遥かに超え、彫刻家、技術者、発明家、そして数学者としての顔を持つ、まさにルネサンスが理想とした「万能人」の原型でした。ブルネレスキの生涯は、中世の職人ギルドの伝統が色濃く残る時代に、芸術家個人の知性と創造性がいかにして世界を変えうるかを劇的に証明した物語です。
15世紀初頭のフィレンツェは、経済的な繁栄を背景に、文化的な活気が沸騰し始めていました。しかし、その中心にそびえる大聖堂は、建設開始から一世紀以上が経過してもなお、巨大な八角形の開口部を空に晒したまま、未完成の状態にありました。直径45メートルにも及ぶこの空間をいかにして覆うか。それは、当時の技術レベルを遥かに超えた、絶望的とさえ思える難問でした。伝統的なゴシック建築の技術では、巨大な仮枠(足場)が必要となりますが、それだけの木材を調達することも、その重量を支えることも不可能だったのです。この技術的な行き詰まりを、大胆かつ独創的な発想で打ち破ったのが、ブルネレスキでした。
彼は、金細工師としての精密な技術と、古代ローマ建築の研究から得た深い知識、そして何よりも常識にとらわれない発明家としての精神を融合させ、前代未聞の工法を次々と考案します。仮枠なしでドームを建設するための二重殻構造、煉瓦を魚の骨のように積むヘリンボーン積み、そして巨大な石材を天空高く吊り上げるための、牛の力で動く革新的な揚重機。彼の工房は、さながら近代的な建設現場の実験室のようでした。このクーポラの建設は、単なる建築プロジェクトではなく、人間の知性が自然の制約に挑み、それを克服した壮大な叙事詩だったのです。
しかし、ブルネレスキの功績は、このクーポラの建設だけに留まりません。彼は、絵画や彫刻における二次元の平面上に、数学的に正確な三次元空間を再現するための画期的な手法、すなわち「線遠近法(一点透視図法)」を発明(あるいは再発見)した人物としても知られています。鏡と絵画を用いた彼の有名な実験は、芸術家たちに、世界を合理的に把握し、それを秩序立てて表現するための強力な道具を与えました。この発明は、マザッチオのフレスコ画からレオナルド=ダ=ヴィンチの『最後の晩餐』に至るまで、ルネサンス絵画の根幹をなし、西洋美術のあり方を決定的に変えたのです。
さらに、フィレンツェの捨て子養育院やサン=ロレンツォ聖堂に見られる彼の建築様式は、ゴシックの複雑で垂直的な空間とは対照的に、古代ローマの円柱やアーチを再解釈した、明快で調和の取れた、人間的な尺度に基づいた空間を創造しました。それは、数学的な比例関係に基づいた、秩序と理性の美学であり、ルネサンス建築の基本言語を確立するものでした。
ブルネレスキの生涯は、同時代のライバルたちとの激しい競争、頑固で気難しいと評されたその性格、そして自らのアイデアを守るための執念に満ちた闘いの連続でもありました。彼は、芸術家が単なる依頼主の意向に従う職人ではなく、自らの知的権威に基づいてプロジェクトを主導する、独立した創造者であることを、その生涯を通じて主張し続けたのです。
金細工師から建築家へ

フィリッポ=ブルネレスキの芸術家としての道のりは、彼がその名を不滅のものとした建築の世界ではなく、より緻密で小規模な金細工の工房から始まりました。1377年、フィレンツェの公証人ブルネレスコ=ディ=リッポの息子として生まれた彼は、父親の期待に反して法律家の道を選ばず、職人の世界に身を投じます。この選択は、彼のキャリア全体を特徴づける、理論的な知識よりも実践的な技術と問題解決能力を重んじる姿勢の原点となりました。
1398年、ブルネレスキはフィレンツェの絹織物商ギルドに、金細工師の親方として登録されます。金細工師の仕事は、単に貴金属を加工するだけではありませんでした。それは、彫金、鋳造、彫刻、そして精密な機械装置の製作など、多岐にわたる技術を要求される、当時の先端技術が集約された分野でした。この工房での経験を通じて、彼は歯車やネジ、滑車といった機械工学の基礎を学び、様々な素材の特性を熟知し、そして何よりも、デザインを三次元の形へと正確に変換する能力を磨き上げました。この金細工師としての訓練が、後に彼が巨大な建築機械を発明し、複雑な構造物を構築する上での、かけがえのない土台となったのです。
彼の初期のキャリアにおける最初の大きな転機は、1401年に訪れます。フィレンツェの羊毛商ギルドが、サン=ジョヴァンニ洗礼堂の新しい青銅製の北門の制作者を選出するための、一大コンペティションを開催したのです。課題は、旧約聖書から「イサクの犠牲」の場面を、指定された四つ葉の形の枠の中に浮き彫りで表現することでした。このコンペには、ブルネレスキをはじめ、ロレンツォ=ギベルティ、ヤコポ=デッラ=クエルチャなど、当時のトスカーナで最も才能ある若手芸術家たちが参加し、熾烈な競争を繰り広げました。
ブルネレスキが提出した試作パネルは、彼の個性を鮮烈に示すものでした。彼は、物語の最も劇的な瞬間、すなわち、アブラハムが息子イサクの喉に刃を突き立て、天使がそれを寸前で制止する緊迫した一瞬を捉えています。人物たちの動きは激しく、感情は剥き出しです。アブラハムの顔は苦悩に歪み、その身体は力強くねじれています。天使は、まるで空中から突進してくるかのように、アブラハムの腕を荒々しく掴んでいます。場面全体が、生々しいリアリズムと、ほとばしるようなドラマ性に満ちています。これは、ゴシック後期の優雅な様式とは一線を画す、力強く、人間的な表現でした。
一方、彼の最大のライバルとなったロレンツォ=ギベルティのパネルは、全く異なるアプローチを示していました。ギベルティの作品は、より調和が取れ、優雅で、古典的な美しさを湛えています。イサクの身体は、古代彫刻を思わせる理想化された裸体として表現され、全体の構図は流れるように滑らかで、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。技術的にも、ギベルティは主要な人物像をほぼ一体で鋳造することに成功し、より少ない青銅で、より軽量なパネルを制作するという効率性も示しました。
審査の結果、勝利の栄冠はギベルティの頭上に輝きました。ブルネレスキの伝記作家によれば、審査員たちは二人の才能に甲乙つけがたく、共同での制作を提案しましたが、気位の高いブルネレスキがそれを拒否したとされています。また別の記録では、ギベルティが単独で勝者として選ばれたとあります。いずれにせよ、この敗北は、ブルネレスキにとって大きな屈辱であり、彼のキャリアの方向性を決定づける重要な出来事となりました。このコンペを境に、彼は彫刻の道を事実上断念し、その情熱を別の分野、すなわち建築と、それを支える技術へと向けることになります。
この敗北の直後、ブルネレスキは友人の彫刻家ドナテルロと共に、ローマへと旅立ちます。このローマ滞在は、彼の芸術的ヴィジョンを形成する上で、決定的な意味を持ちました。当時のローマは、古代帝国の栄光の廃墟が広がる、巨大な野外博物館のような場所でした。ブルネレスキは、来る日も来る日も、パンテオンの巨大なドームや、コロッセウムのアーチ構造、水道橋の工法などを、まるで考古学者のように熱心に調査し、測量し、スケッチしたと伝えられています。彼は、古代ローマ人がいかにして巨大な建造物を構築したのか、その技術的な秘密を解き明かそうとしました。彼は、古代建築の表面的な装飾ではなく、その合理的な構造原理、すなわち、アーチやヴォールト、そしてコンクリートといった素材の革新的な使用法に注目しました。
このローマでの研究を通じて、ブルネレスキは、ゴシック建築とは全く異なる、新しい建築の語彙と文法を吸収しました。それは、数学的な比例と幾何学的な明快さに基づいた、調和と秩序の建築でした。金細工師としての精密な技術、彫刻家としての立体把握能力、そしてローマ建築の研究から得た構造への深い理解。これらすべてが融合し、彼を、フィレンツェが直面していた最大の難問に挑む準備のできた、唯一無二の存在へと変えていったのです。洗礼堂の扉のコンペでの敗北は、彼にとって一つの扉が閉ざされた瞬間でしたが、それは同時に、建築という、より壮大な世界への扉を開くきっかけとなったのでした。
線遠近法

フィリッポ=ブルネレスキの名は、主に建築家として記憶されていますが、彼が西洋美術史に与えたもう一つの、そしておそらくより広範な影響は、絵画の分野における革命的な発明、すなわち「線遠近法(一点透視図法)」の確立にあります。この発明は、ルネサンスの芸術家たちに、平らな絵の表面に、数学的に正確で、視覚的に説得力のある三次元空間を表現するための、論理的で体系的な方法論を初めて提供しました。それは、芸術家の眼を、単なる手先の技術者から、世界の構造を理解し、それを合理的に再構成する知的な探求者へと変える、パラダイムシフトでした。
ブルネレスキがこの画期的なシステムを考案したのは、1415年から1420年頃にかけてのこととされています。彼の発明の詳細は、アントニオ=ディ=トゥッチョ=マネッティによる15世紀のブルネレスキ伝に記されています。それによれば、ブルネレスキは、この新しい描画方法の正確さを証明するために、二つの巧妙な公開実験を行いました。
最初の実験の舞台は、彼がその建築家としてのキャリアを捧げることになるサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の正面入り口でした。彼は、大聖堂の扉の内側から、向かいにあるサン=ジョヴァンニ洗礼堂を眺め、その光景を小さな板絵に極めて正確に描き出しました。この絵を描く際に、彼は自らが考案した遠近法のシステムを用いました。すなわち、まず鑑賞者の視点の位置(視点)と、そこから対象物までの距離を定め、地平線と、その上にある消失点(すべての奥行きを示す線が収束する点)を設定します。そして、洗礼堂の建物の輪郭線や、広場の敷石の線など、現実空間で平行であるすべての線が、絵の中ではこの消失点に向かって収束するように描いたのです。これにより、建物は奥に行くほど小さく見え、空間の奥行きがリアルに表現されました。
この絵が完成すると、彼はその絵に一つの仕掛けを施しました。絵の中の、空に当たる部分をくり抜き、そこを磨き上げた銀板で覆ったのです。そして、絵の表面、ちょうど消失点の位置に、小さな覗き穴を開けました。実験はこうです。鑑賞者は、大聖堂の扉の、ブルネレスキが絵を描いたのと全く同じ場所に立ち、板絵の裏側からこの覗き穴を覗き込みます。そして、その手には一枚の鏡を持ち、絵の表面が鏡に映るように構えます。すると、鑑賞者の目には何が見えるでしょうか。覗き穴を通して見えるのは、鏡に映った洗礼堂の絵です。そして、絵の空の部分は銀板になっているため、そこには、鑑賞者の背後にある本物のフィレンツェの空が映り込みます。その結果、鑑賞者は、鏡の中に、本物の空を背景にした、驚くほどリアルな洗礼堂の姿を見ることになります。そして、鏡を外して直接本物の洗礼堂を見ると、鏡に映っていた絵の光景と寸分違わぬ姿がそこにあるのです。この巧妙な装置は、ブルネレスキの遠近法が、単なる画家の勘や経験則ではなく、現実の視覚体験を数学的に正確に再現できる科学的なシステムであることを、疑いの余地なく証明しました。
第二の実験は、フィレンツェのシニョリーア広場で行われ、ヴェッキオ宮殿を描いたものでした。この絵では、空の部分を実際に切り抜いて、絵を本物の空にかざして見るという、より直接的な方法が用いられたと伝えられています。
ブルネレスキ自身は、この発明を絵画制作に直接応用することはありませんでした。彼は、このシステムを、建築の設計において、建物の完成後の姿を施主や委員会に正確に提示するためのプレゼンテーションツールとして考えていたのかもしれません。しかし、この発明の真の価値を即座に理解し、それを芸術の領域で開花させたのは、彼の友人であり、同時代の天才たちでした。
彫刻家のドナテルロは、1417年頃の作品『聖ゲオルギウスと竜』の台座のレリーフにおいて、この新しい遠近法を彫刻に応用しました(これは「浅浮き彫り」として知られます)。彼は、前景の人物を高く、後景の建物を低く彫ることで、浅い彫りの空間の中に、驚くほどの奥行き感を生み出すことに成功しました。
そして、ブルネレスキの遠近法を、絵画の分野で最も劇的に、そして最も完璧に実現したのが、若き画家マザッチオでした。1425年から1427年頃に描かれたサンタ=マリア=ノヴェッラ聖堂のフレスコ画『聖三位一体』は、ルネサンス絵画の宣言書とも言うべき作品です。マザッチオは、ブルネレスキのシステムを用いて、まるで壁の向こうに本物の礼拝堂が続いているかのような、完璧な錯覚的空間を描き出しました。鑑賞者の視点の高さは、床面から約1.7メートルに設定されており、鑑賞者が絵の前に立つと、絵の中の空間と現実の空間が、ごく自然に連続しているように感じられます。この絵画は、ブルネレスキの数学的な理論が、いかにして強力な精神的・感情的効果を生み出しうるかを示した最初の例でした。
ブルネレスキの線遠近法は、単なる作画テクニックではありませんでした。それは、世界を秩序立てて理解し、人間をその世界の中心に位置づけるという、ルネサンスの人間中心主義的な世界観の視覚的な表現でした。神の視点ではなく、一個の人間の視点から世界を構築するというこの方法は、芸術における人間理性の勝利を象徴するものであり、その後の西洋絵画の発展の基礎を築いた、まさしく革命的な発明だったのです。
クーポラ

フィリッポ=ブルネレスキの名を不滅のものとした最大の功績は、フィレンツェのサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂に架かる、壮麗なクーポラ(円蓋)の建設です。これは、単なる建築プロジェクトではなく、15世紀初頭の技術的限界に対する、一人の人間の知性と創造力の壮絶な闘いの物語でした。
残された難問

大聖堂の建設は、1296年にアルノルフォ=ディ=カンビオの設計で始まり、一世紀以上にわたって続けられてきました。1418年の時点で、身廊や後陣はほぼ完成していましたが、その中央、聖職者席の真上に、直径約45メートルにも及ぶ巨大な八角形の開口部が、ぽっかりと口を開けたまま残されていました。この巨大な穴をいかにして覆うか。それが、フィレンツェ共和国が直面していた最大の技術的課題でした。
問題は多岐にわたりました。まず、これほど巨大なドームを建設するためには、通常、その内側に石や煉瓦を積むための支えとなる、巨大な木製の仮枠(足場)が必要です。しかし、開口部の高さは地上55メートルにも達し、これほどの高さと大きさの仮枠を組むためには、トスカーナ中の森林を伐採しても足りないほどの木材が必要でした。仮に木材が調達できたとしても、その仮枠自体の重さと、その上に積まれるドームの重さを、既存の壁が支えきれる保証はありませんでした。
さらに、ドームの形状も問題でした。伝統的な半球形のドームは、その自重によって外側に開こうとする力(スラスト)が非常に強く働き、それを支えるために分厚い壁や巨大な控え壁が必要となります。しかし、大聖堂のドラム(ドームの基部となる八角形の壁)はすでに完成しており、後から大規模な補強を加えることはできませんでした。
ブルネレスキの独創的な解決策

1418年、大聖堂の運営委員会は、この難問を解決するためのアイデアを公募しました。多くの建築家や職人が、奇抜なものから非現実的なものまで、様々な提案をしましたが、決定的な解決策は見つかりませんでした。このコンペティションに、ロレンツォ=ギベルティと共に参加したブルネレスキは、大胆かつ革新的な提案を行います。それは、「仮枠なしで」ドームを建設するという、誰もが不可能だと考えるアイデアでした。
彼の計画の核心は、いくつかの独創的なアイデアの組み合わせにありました。
第一に、ドームの形状です。彼は、外側に開こうとする力が少ない、より垂直に近い尖頭形の輪郭を持つドームを提案しました。これは、ゴシック建築の尖頭アーチの原理を応用したものでした。
第二に、構造です。彼は、ドームを一枚の厚い殻で作るのではなく、内側の殻と外側の殻からなる「二重殻構造」にすることを提案しました。内側の殻が主要な構造体となり、外側の殻は内側の殻を風雨から守り、より壮麗な外観を与える役割を果たします。二つの殻の間には空間があり、作業用の通路として使え、また構造全体の重量を大幅に軽減することができました。この二つの殻は、水平方向の梁と垂直方向の肋材(リブ)によって強固に結びつけられ、一体となって力を分散させます。
第三に、工法です。彼は、煉瓦を「ヘリンボーン(ニシンの骨)」と呼ばれる、魚の骨のようなパターンで積んでいく工法を考案しました。この積み方では、垂直に置かれた煉瓦が、水平に積まれた煉瓦のストッパーとなり、モルタルが乾くまでの間に煉瓦が内側に滑り落ちるのを防ぎます。これにより、ドームは自己支持的に、少しずつ上へ上へと成長していくことが可能になりました。まるで、バスケットを編み上げるように、ドームは内側から構築されていったのです。
第四に、目に見えない補強です。ブルネレスキは、ドームの内部に、石と鉄の鎖を組み合わせた「鎖(チェーン)」を、木の梁で補強しながら水平に何重にも埋め込みました。この鎖は、樽の箍(たが)のように、ドームが外側に膨らもうとする力を内側から締め付け、構造全体を強固に結束させる役割を果たしました。
革新的な建設機械

ブルネレスキの天才は、構造設計だけに留まりませんでした。彼は、この前代未聞の建設を可能にするため、数々の革新的な機械を発明しました。当時、重い資材を吊り上げるには、馬やロバが円形の走路を回ることで動かすクレーンが使われていましたが、荷を降ろす際には、馬の進行方向を逆転させる必要があり、非常に効率が悪かったのです。
ブルネレスキは、牛の力で動く、巨大な「三段変速式揚重機」を設計しました。この機械の最も画期的な点は、リバーシブルギアとクラッチを備えていたことです。これにより、牛は常に同じ方向に歩き続けるだけでなく、歯車の組み合わせを変えることで、荷を上げたり下げたり、あるいは移動速度を変えたりすることが可能になりました。これは、建設の効率を劇的に向上させる、驚異的な発明でした。
さらに彼は、ドームの頂上部に設置され、資材を水平方向に移動させることができる「カステッロ」と呼ばれる旋回式のクレーンも考案しました。これらの機械は、金細工師時代に培った彼の精密な機械工学の知識の賜物でした。
建設の過程と完成

1420年、ブルネレスキは、ライバルであるギベルティと共に、クーポラ建設の総監督に任命されます。しかし、プロジェクトの実質的な主導権は、その技術的なヴィジョンを完全に把握していたブルネレスキが握っていました。建設は16年にも及び、数多くの技術的な困難や、ギベルティとの絶え間ない対立、そして職人たちのストライキなどを乗り越え、1436年8月31日、ついにドームの頂上にある最後の石が置かれ、クーポラは完成しました。
このクーポラの完成は、フィレンツェ市民にとって、自分たちの都市の誇りと、人間の知性の勝利を象徴する出来事でした。人文主義者レオン=バッティスタ=アルベルティは、このクーポラを「天を覆うほどに広大で、トスカーナのすべての人々をその影に覆う」と称賛し、古代以来忘れ去られていた偉大な技術が、ブルネレスキによって現代に蘇ったと述べました。
ブルネレスキのクーポラは、中世のギルド的な職人技の集大成であると同時に、一人の天才的な個人の知性と構想力が、巨大なプロジェクトを計画し、実行し、完成へと導いた、最初の近代的な建築でした。それは、ルネサンスという新しい時代の到来を、フィレンツェの空に刻み込んだ、不滅のモニュメントなのです。
ルネサンス建築の確立=捨て子養育院とサン=ロレンツォ聖堂

フィリッポ=ブルネレスキの建築家としての功績は、大聖堂のクーポラという一つの頂点に集約されがちですが、彼の真の革新性は、フィレンツェの街のそこここに見られる、他の建築作品において、より明確な形で示されています。彼が設計した捨て子養育院やサン=ロレンツォ聖堂は、クーポラのような技術的な離れ業とは異なり、新しい建築の「言語」そのものを創造しようとする試みでした。それは、ゴシック建築の神秘的で複雑な空間とは決別し、古代ローマの建築語彙を再解釈することで、明快さ、秩序、そして人間的な尺度に基づいた、全く新しい建築様式、すなわちルネサンス建築の誕生を告げるものでした。
捨て子養育院

1419年、ブルネレスキは、フィレンツェの絹織物商ギルドから、ヨーロッパ初とされる捨て子養育院(オスペダーレ=デッリ=インノチェンティ)の設計を依頼されます。この建物は、一般に「最初のルネサンス建築」と見なされており、ブルネレスキの新しい建築理念が初めて純粋な形で表現された、記念碑的な作品です。
この建物の最も印象的な特徴は、広場に面して伸びる、軽やかで優美なロッジア(開廊)です。このロッジアは、細身のコリント式の円柱が、等間隔に並んだ半円アーチを支えるという、極めてシンプルで明快な構成からなっています。アーチとアーチの間のスパンドレル(三角壁)には、後にアンドレア=デッラ=ロッビアによって加えられた、産着に包まれた赤ん坊の愛らしいテラコッタのメダイヨンが飾られています。
このデザインのどこが革命的だったのでしょうか。それは、ブルネレスキが、建築のすべての要素を、一つの基本単位(モジュール)から導き出される、厳密な数学的比例関係に基づいて設計した点にあります。この建物では、柱と柱の間の距離が基本モジュールとなり、アーチの高さ、ロッジアの奥行き、そしてその背後にある建物の部屋の大きさまですべてが、このモジュールの整数倍、あるいは単純な分数で決定されています。例えば、柱の高さは、柱間の距離と等しく、ロッジアの奥行きもまた同じ長さです。これにより、空間全体が、立方体と半球という、純粋な幾何学的形態の組み合わせとして認識されます。
この数学的な秩序は、落ち着いた色彩計画によってさらに強調されています。ブルネレスキは、構造を担う部分、すなわち円柱、アーチ、コーニス(軒蛇腹)などに、比較的暗い色調の地元産砂岩「ピエトラ=セレーナ」を用い、壁の面には白い漆喰を塗りました。このグレイとホワイトのコントラストは、建物の幾何学的な構造を視覚的に明瞭にし、空間全体に静かで知的な、調和の取れた雰囲気を与えています。
これは、垂直性、断片性、そして過剰な装飾を特徴とするゴシック建築とは全く異なる美学でした。ブルネレスキは、古代ローマの建築、特にローマのバシリカや神殿の構成原理を研究し、そこから円柱、半円アーチ、ペディメント(三角破風)といった古典的な語彙を抽出し、それをルネサンスの精神、すなわち理性と秩序への信頼に基づいて再構成したのです。捨て子養育院は、慈善施設であると同時に、新しい時代の建築理念をフィレンツェ市民に示す、一種の宣言書でもありました。
サン=ロレンツォ聖堂

ブルネレスキの新しい建築様式は、フィレンツェで最も有力な一族、メディチ家の庇護のもとで、さらに大規模な形で展開されます。1421年頃、彼は、メディチ家の教区教会であるサン=ロレンツォ聖堂の改築を依頼されます。特に、彼は聖具室(後に「旧聖具室」と呼ばれる)と、教会堂本体の設計を担当しました。
旧聖具室は、捨て子養育院で示された原理を、より凝縮された形で適用した、完璧な宝石箱のような空間です。そのプランは、正方形の主空間の上に、リブ(肋骨)で縁取られた傘型のドームが架かり、その奥に、やはり正方形の小さな祭壇室が付属するという構成です。ここでも、空間のすべての寸法は、厳密な比例関係によって支配されています。壁面は、ピエトラ=セレーナの角柱(ピラスター)とコーニスによって、幾何学的なグリッドに分割され、白い漆喰の壁との明快なコントラストを生み出しています。この空間は、静謐で、知的で、そして完璧に調和が取れており、ルネサンスの理想とする宇宙の秩序を、建築という形で体現しているかのようです。
教会堂本体の設計においても、ブルネレスキは同じ原理を適用しました。彼は、伝統的なバシリカ形式を踏襲しつつも、ゴシック的な高い天井や複雑なヴォールトを避け、平らな格天井と、円柱が支える軽やかなアーケードを持つ、明るく広々とした空間を創造しました。身廊、側廊、そして礼拝堂のすべての寸法は、一つの基本モジュールに基づいており、鑑賞者は、どこに立っていても、空間全体の合理的な構造を直感的に把握することができます。ブルネレスキの線遠近法の原理が、建築空間そのものに適用されているのです。床の敷石のパターンさえもが、空間の奥行きを強調し、鑑賞者の視線を主祭壇へと導きます。
ブルネレスキの建築は、神の超越的な力を感じさせることを目指したゴシック建築とは対照的に、人間の理性が理解し、把握できる空間を創造することを目指しました。それは、調和、明快さ、そして人間的な尺度を重んじる、新しい時代の美学でした。彼は、古代の語彙を用いながらも、単なる模倣に陥ることなく、それをルネサンスの精神に基づいて再編成し、その後何世紀にもわたって西洋建築の規範となる、全く新しい建築言語を創り上げたのです。
晩年と遺産

フィリッポ=ブルネレスキは、その生涯の最後まで、精力的にフィレンツェの都市景観を形作るプロジェクトに関わり続けました。大聖堂のクーポラが完成した後も、彼の仕事は終わりませんでした。彼は、クーポラの頂上に頂塔(ランタン)を設置する計画を進め、そのための木製模型を制作しました。この頂塔は、クーポラの構造的な要であるだけでなく、その優美なシルエットを完成させるための、美的な頂点でもありました。彼は、この頂塔がクーポラに過度な負荷をかけないように、そして強風に耐えられるように、その構造を慎重に設計しました。彼の死後、この計画は友人であったミケロッツォらに引き継がれ、1461年に完成します。
彼の晩年のプロジェクトには、サント=スピリト聖堂や、未完に終わったサンタ=マリア=デッリ=アンジェリ教会の設計などがあります。サント=スピリト聖堂では、彼はサン=ロレンツォ聖堂で探求したモジュール式の設計をさらに推し進め、より統一感のある、完璧な比例に基づいた空間を追求しました。しかし、彼の死後、その計画は後継者たちによって変更され、彼の当初の意図が完全に実現されることはありませんでした。
ブルネレスキは、その気難しく、頑固で、他人と妥協しない性格で知られていました。彼は、自らのアイデアの独創性を固く信じ、その知的財産権を守るために、しばしば同僚や依頼主と激しく対立しました。彼は、クーポラの建設中、自らが考案した揚重機の設計を秘密にし、ライバルであるギベルティを出し抜こうとしました。また、ある時には、自分の給料が支払われないことに抗議して、投獄されたことさえあります。これらの逸話は、彼が、単に依頼を受けて仕事をする中世的な職人ではなく、自らの知的権威と創造性に基づいてプロジェクトを主導する、近代的な意味での「芸術家」としての自己意識を持っていたことを示しています。彼は、芸術家が社会において果たすべき役割について、新しいモデルを自らの行動で示したのです。
1446年4月15日、フィリッポ=ブルネレスキはフィレンツェで亡くなり、彼がその生涯を捧げたサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂に埋葬されるという、一介の職人としては前例のない栄誉を与えられました。彼の墓碑銘には、「フィレンツェの市民、フィリッポ=ブルネレスキ、その偉大なる才能は、ダエダロスの古代の技術さえも蘇らせた」と刻まれています。
彼が後世に残した遺産は、計り知れません。
第一に、彼は建築家という職業の地位を、単なる職人から、知的な創造者へと高めました。彼のクーポラ建設は、一人の天才が、科学、技術、そして芸術を統合し、不可能を可能にした記念碑であり、その後の建築家の理想像となりました。
第二に、彼は線遠近法を発明し、芸術家たちに、世界を合理的に把握し、それを秩序立てて表現するための強力な道具を与えました。この発明なくして、ルネサンス絵画の発展は考えられません。
第三に、彼は、古代建築の原理を再解釈し、数学的な比例と幾何学的な明快さに基づいた、全く新しい建築様式を確立しました。彼の建築は、その後のルネサンス、そしてバロック、新古典主義に至るまで、何世紀にもわたって西洋建築の発展の基礎を築きました。
レオン=バッティスタ=アルベルティ、レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロといった、ルネサンスの巨星たちは、皆、ブルネレスキの肩の上に立っていました。彼は、技術的な問題解決者であり、科学的な探求者であり、そして偉大な芸術家でした。
Tunagari_title
・ブルネレスキとは わかりやすい世界史用語2524

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 111 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。