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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

デューラーとは わかりやすい世界史用語2541

著者名: ピアソラ
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デューラーとは

アルブレヒト=デューラーは、十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、ドイツ=ルネサンスを代表する芸術家として、ヨーロッパ美術史に不滅の足跡を刻みました。
彼は、単なる職人ではなく、知性と教養を備えた芸術家としての自己意識を確立した、北方ヨーロッパにおける最初の人物の一人です。
デューラーは、画家としてだけでなく、版画家・素描家・そして美術理論家としても、その非凡な才能を遺憾なく発揮しました。
イタリア=ルネサンスの革新的な芸術思想や科学的探求心をアルプス以北に持ち帰り、それをドイツの伝統的な写実主義と融合させることで、独自の芸術世界を切り開いたのです。
特に、木版画や銅版画といった複製技術の可能性を飛躍的に高め、芸術作品をより広範な人々に届ける道を拓いた功績は計り知れません。
彼の作品は、鋭い観察眼に裏打ちされた自然の精密な描写、人間の内面を深く洞察する肖像画、そしてキリスト教信仰と人文主義的思索が交錯する複雑な寓意に満ちています。



ニュルンベルクでの幼少期と初期の修業

アルブレヒト=デューラーは、1471年5月21日、神聖ローマ帝国の自由都市として繁栄を極めていたニュルンベルクに、ハンガリーから移住してきた同名の金細工師アルブレヒト=デューラー=シニアの息子として生を受けました。
彼は、十八人兄弟の三男として、幼い頃から父の工房で金細工の基礎技術を学び、金属を扱う精密な手わざと、細部に対する鋭い観察眼を養いました。
その早熟な才能を示す最も有名な作例が、1484年、彼がわずか十三歳の時に描いた自画像であり、銀筆で描かれたこの素描は、驚くほど的確な観察力と、すでに確立された自己への意識をうかがわせます。
金細工師としての将来を期待されていたにもかかわらず、デューラーの情熱は絵画制作へと向かい、父を説得して、1486年末からは、ニュルンベルクで最も高名な画家であったミヒャエル=ヴォルゲムートの工房に弟子入りしました。
ヴォルゲムートの工房は、祭壇画の制作だけでなく、当時の出版業の中心であった木版画の制作も手掛ける大規模なものであり、デューラーはここで、絵画の技術はもちろん、木版画のデザインと制作工程に関する実践的な知識を習得しました。
この工房での経験は、彼の後のキャリアにおいて、版画というメディアを芸術的な表現手段として確立する上で、決定的な基盤となったのです。
遍歴修行の旅=ヴァンダージャール

1490年、デューラーは、当時のドイツの職人の慣習に従い、徒弟期間を終えた後の見聞を広めるための遍歴修行の旅、いわゆる「ヴァンダージャール」に出発しました。
この旅の主な目的は、当時、北方で最も革新的な版画家として名声を博していたマルティン=ショーンガウアーに会うため、アルザス地方のコルマールを訪れることでした。
しかし、彼がコルマールに到着した1492年には、ショーンガウアーはすでに亡くなっており、デューラーは代わりにショーンガウアーの兄弟たちに迎えられ、その工房で制作を続けました。
その後、彼は、人文主義と出版の中心地であったスイスのバーゼルへと向かい、そこで、セバスティアン=ブラントの風刺詩『阿呆船』の木版画挿絵など、いくつかの重要な出版プロジェクトに参加したと考えられています。
さらにストラスブールにも滞在し、そこで活躍していた彫刻家ニコラウス=ゲルハールト=ファン=ライデンの作品から強い影響を受け、人体の立体的な表現に対する関心を深めました。
この四年に及ぶ旅は、デューラーに各地の多様な芸術様式に触れる機会を与え、彼の視野を大きく広げるとともに、後の芸術活動の礎となる貴重な経験をもたらしました。
第一次イタリア旅行とニュルンベルクでの独立

1494年の夏、デューラーは遍歴修行の旅を終えてニュルンベルクに帰郷し、父の取り決めによってアグネス=フライと結婚し、自身の工房を設立して独立したマイスターとなりました。
しかし、その年の秋、おそらくはニュルンベルクで流行したペストを避けるため、そして何よりもイタリア=ルネサンスの芸術を直接学ぶために、彼は新婚の妻を残して、単身アルプスを越えるという、当時としては異例の決断を下します。
ヴェネツィアに到着したデューラーは、ジョヴァンニ=ベリーニやヴィットーレ=カルパッチョらの色彩豊かな絵画、そしてアンドレア=マンテーニャの古代彫刻に基づく厳格な人体表現に大きな衝撃を受けました。
この旅の道中で、彼はアルプスの壮大な風景を題材にした一連の水彩画を制作しており、これらは、西洋美術史において、風景を独立した主題として描いた最初期の作例として極めて重要です。
デューラーは、イタリアの人文主義者たちが熱心に研究していた古典古代の芸術と、人体比例論や遠近法といった科学的な理論に強い関心を抱き、それらの知識を貪欲に吸収しました。
1495年にニュルンベルクに戻った彼の作品には、イタリアで学んだ成果が明確に表れ始め、北方の緻密な写実性とイタリアのモニュメンタルな構成感や理想化された人体表現が融合した、独自の様式が確立されていきました。
版画芸術の黄金時代=黙示録と三大銅版画

ニュルンベルクに自身の工房を構えたデューラーは、1490年代後半から1500年代初頭にかけて、版画、特に木版画の制作に精力的に取り組み、このメディアを前例のない芸術的高みへと引き上げました。
その最初の金字塔が、1498年に出版された、新約聖書の「ヨハネの黙示録」を主題とする十五点組の木版画シリーズ『黙示録』です。
デューラーは、これまでの挿絵の役割を超えて、版画一枚一枚が独立した芸術作品として完結する、大判で力強い表現を追求し、終末論的な預言の劇的なヴィジョンを、渦巻くようなダイナミックな構図と、光と影の劇的な対比によって見事に視覚化しました。
この『黙示録』シリーズは、ラテン語版とドイツ語版で出版され、ヨーロッパ全土に流通してデューラーの名声を確立するとともに、木版画が単なる複製技術ではなく、画家の独創性を表現するための強力な媒体であることを証明しました。
木版画と並行して、デューラーは銅版画の技術も極め、その緻密な線描の可能性を最大限に引き出し、『アダムとイヴ』(1504年)のような作品では、イタリアで学んだ理想的な人体比例論に基づき、完璧な肉体を持つ原初の人間像を創造しました。
彼の銅版画制作の頂点とされるのが、1513年から1514年にかけて制作された『騎士と死と悪魔』、『メレンコリアI』、『書斎の聖ヒエロニムス』の三作品で、これらは「マイスターシュティッヒェ」(三大銅版画)と総称され、それぞれ道徳的、知的、神学的な生の理想を、複雑な寓意と驚異的な技術で表現しています。
第二次イタリア旅行とヴェネツィアでの成功

1505年、すでに北方ヨーロッパで最高の芸術家として名声を確立していたデューラーは、再びアルプスを越えてヴェネツィアへと旅立ちました。
今回の旅は、かつての一介の修行者としてではなく、著名なマイスターとしての訪問であり、彼はヴェネツィア在住のドイツ商人たちのコミュニティから熱烈な歓迎を受けましたが、同時に、一部の地元画家たちからは、その名声と才能に対する嫉妬と敵意にも直面しました。
この滞在中の最大の成果は、サン=バルトロメオ教会にあったドイツ商人のための祭壇画として制作された『薔薇冠の祝祭』(1506年)です。
この大作において、デューラーは、ジョヴァンニ=ベリーニの影響が明らかな、鮮やかで輝くような色彩と、調和のとれた人物配置を見事にこなし、イタリア絵画の様式を完全に自らのものとしたことをヴェネツィアの芸術界に証明しました。
デューラー自身、この作品の成功に大きな自信を得て、故郷の友人ヴィリバルト=ピルクハイマーに宛てた手紙の中で、「ここでは私は紳士だが、故郷では寄食者にすぎない」と書き送り、イタリアにおける芸術家の社会的地位の高さと、職人として扱われるドイツの状況とを比較しています。
ヴェネツィア滞在中、彼はさらにボローニャまで足を延ばし、ルカ=パチョーリらと会って、遠近法の理論について学んだとも伝えられており、その理論的探求への情熱は衰えることがありませんでした。
皇帝マクシミリアン一世の庇護と宮廷での活動

1507年にニュルンベルクへ帰還したデューラーは、その後の数年間、絵画制作に集中し、『ヘラー祭壇画』など、宗教画の傑作を次々と生み出しましたが、やがて神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の知遇を得ることになります。
人文主義的な教養を持ち、芸術の力を自己顕示とプロパガンダに利用したマクシミリアン一世は、デューラーの卓越した版画技術に注目し、1512年頃から、彼を自身の壮大な記念プロジェクトに起用し始めました。
その最も巨大なものが、192枚の木版画を組み合わせて作られる、高さ3.5メートル、幅3メートルにも及ぶ巨大なプリント『マクシミリアンの凱旋門』です。
デューラーは、このプロジェクト全体の芸術監督として、多くの芸術家たちをまとめ上げ、皇帝の系譜、領土、そして武勲を、古代ローマの凱旋門の形式を借りて、複雑な寓意と装飾の内に描き出すという壮大な構想を実現しました。
並行して、皇帝の栄光を讃える長い行列を描いた木版画シリーズ『マクシミリアンの凱旋式』の制作にも主要なデザイナーとして関わり、その類まれな構想力と表現力を示しました。
これらの功績により、デューラーは皇帝から終身年金を約束され、帝国の宮廷画家として、その地位を不動のものとしましたが、1519年にマクシミリアン一世が崩御したことで、年金の支払いが不確実なものとなりました。
ネーデルラント旅行と晩年の活動

皇帝マクシミリアン一世から約束された年金の支払いを、新皇帝カール五世に承認してもらうため、デューラーは1520年から1521年にかけて、妻アグネスを伴ってネーデルラントへの大旅行を敢行しました。
彼はこの旅行の詳細な日記を残しており、それは、当時の芸術家の生活、経済状況、そして彼が訪れた都市や出会った人々に関する、他に類を見ない貴重な歴史的資料となっています。
アントワープ、ブリュッセル、ゲントなど、フランドルの繁栄する都市を巡る中で、デューラーは、当代随一の芸術家として各地で盛大な歓迎を受け、クエンティン=マサイスやヨアヒム=パティニールといった現地の画家たちとも交流しました。
この旅のハイライトの一つは、ブリュッセルで、当代きっての人文主義者であるデジデリウス=エラスムスに会い、その肖像を描いたことであり、これは、芸術と学問の二人の巨人の出会いとして象徴的な出来事でした。
ネーデルラントで、彼は、ヤン=ファン=エイクやロヒール=ファン=デル=ウェイデンといった初期フランドル派の巨匠たちの作品を改めて研究し、その油彩画の緻密な写実表現に深い感銘を受けました。
新皇帝からの年金確約という目的を果たしてニュルンベルクに戻った後の彼の作品、特に『四人の使徒』(1526年)には、ネーデルラントで受けた影響が反映され、より簡潔でモニュメンタルな様式へと変化していきました。
宗教改革と晩年の傑作『四人の使徒』

デューラーの晩年は、マルティン=ルターによって引き起こされた宗教改革の動乱と深く関わっており、彼自身、ルターの思想に強い共感を寄せていました。
1520年のネーデルラント旅行中にルターが誘拐されたという誤報に接した際、彼は日記に深い嘆きを記しており、その思想への強い傾倒ぶりがうかがえます。
しかし、デューラーは、一部の急進的な改革派が引き起こした聖像破壊運動には批判的であり、芸術が信仰において果たすべき役割について深く思索しました。
彼の宗教的思索と芸術的探求の集大成といえるのが、1526年にニュルンベルク市参事会に寄贈された対のパネル画『四人の使徒』です。
この作品には、福音書記者ヨハネ、ペテロ、マルコ、そしてパウロが描かれており、伝統的なカトリックの聖人画とは一線を画す、厳格でモニュメンタルな人物表現は、ルターが強調した「聖書のみ」というプロテスタントの信仰原理を力強く視覚化したものと解釈されています。
パネルの下部には、ルター訳の新約聖書から引用された、偽預言者に対する警告の言葉が記されており、この作品が、デューラーの芸術的かつ宗教的な遺言として、故郷の市に託されたものであることを示しています。
美術理論家としてのデューラー

デューラーは、その生涯を通じて、単に直感や経験に頼るだけでなく、芸術制作の背後にある普遍的な法則を理論的に解明しようと努めた、探求心旺盛な思索家でもありました。
彼は、イタリアの芸術家たちが数学的な知識を駆使して、より説得力のある空間表現や理想的な人体像を創造していることに刺激を受け、ドイツの芸術家たちのためにも、そうした理論を体系化する必要性を痛感していました。
その最初の成果が、1525年に出版された『コンパスと定規による測定法教則』であり、これは、幾何学の基礎から、遠近法、文字のデザイン、そして様々な立体の作図法に至るまでを、職人や芸術家のために分かりやすく解説した画期的な教科書でした。
続いて1527年には、当時の火器の発達に対応した要塞建築の理論書『城塞、都市、集落の要塞化に関する手引き』を出版し、芸術家としての知識を実用的な軍事技術に応用する能力も示しました。
彼の理論的研究の集大成となったのが、彼の死の直後、1528年に未亡人アグネスによって出版された『人体比例論四書』です。
この著作の中で、デューラーは、男女や子供など、様々なタイプの人間の体を、詳細な測定と幾何学的な作図に基づいて体系的に分析し、多様な人体を描き分けるための方法論を提示しました。
デューラーの遺産

アルブレヒト=デューラーは、1528年4月6日、故郷ニュルンベルクでその波乱に満ちた生涯を閉じましたが、彼の芸術が後世に与えた影響は計り知れません。
彼は、自らの作品と生き方を通じて、芸術家が単なる手仕事の職人ではなく、知的で創造的な個人であるという新しい理想像を確立し、北方ヨーロッパにおける芸術家の社会的地位を飛躍的に向上させました。
デューラーの芸術は、ドイツの伝統である緻密な写実性と、イタリア=ルネサンスの科学的探求心や理想主義的な美学とを、かつてないレベルで融合させたものであり、その後の北方美術の展開に決定的な方向性を与えました。
彼の革新的な版画作品は、ヨーロッパ中に流通し、国境や言語の壁を越えて、彼の様式と主題を広め、イタリアのラファエロを含む同時代の多くの芸術家たちに直接的な影響を及ぼしました。
また、彼が著した美術理論に関する著作は、芸術教育のための体系的なテキストとして、その後何世紀にもわたって利用され、芸術が学問的な基礎を持つべきであるという考え方を普及させました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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