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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

ボッカチオ(ボッカッチョ)とは わかりやすい世界史用語2507

著者名: ピアソラ
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ボッカチオ(ボッカッチョ)とは

ジョヴァンニ=ボッカチオ。その名は、ダンテの神聖な高みとペトラルカの孤独な内省の間にあって、ひときわ人間的な温かみと、生き生きとした俗世の響きをもって私たちの耳に届きます。彼は、イタリア・ルネサンスの黎明期を飾る三大巨頭の一人でありながら、その眼差しは常に、天上の理念よりも地上の現実、聖人の奇跡よりも市井の人々の喜怒哀楽に向けられていました。彼の最高傑作『デカメロン』は、人間の機知と愚かさ、欲望と高潔さを、かつてないほど豊かで多彩な物語のタペストリーとして織り上げ、ヨーロッパ散文文学の伝統そのものを打ち立てたのです。
ボッカチオの生涯は、彼自身の物語のように、波乱に満ちた展開を見せます。フィレンツェの商人の私生児として生まれ、ナポリの華やかな宮廷で青春を謳歌し、愛と文学に目覚めた青年期。父の破産によってフィレンツェに呼び戻され、経済的な苦境と政治的な混乱の中で、人間の生の現実を直視した壮年期。そして、ペトラルカとの出会いを経て、古典研究に情熱を傾けるヒューマニストへと変貌を遂げ、敬愛するダンテの研究にその晩年を捧げた円熟期。彼の人生は、商業と宮廷文化、俗語文学と古典ヒューマニズム、そして世俗的な快楽主義とキリスト教的な道徳意識という、一見すると相容れない要素が複雑に絡み合ったものでした。
彼は、ダンテを「神のごとき」と称賛し、ペトラルカを生涯の師と仰ぎました。しかし、ボッカチオ自身の文学的個性は、その二人とは明らかに異なっています。彼は、人間の本性、特にその欲望や弱さを、道徳的な断罪の目ではなく、ある種の共感と、時には悪戯っぽい笑みを浮かべた、寛容な眼差しで見つめました。彼の物語の世界では、抜け目のない商人、恋に悩む若者、機知に富んだ女性、そして偽善的な聖職者たちが、まるで生命を吹き込まれたかのように躍動しています。ボッカチオの生涯を辿ることは、中世的な価値観が揺らぎ、人間そのものへの尽きない興味が花開いた、ルネサンスという時代の、最も人間味あふれる側面を発見する旅なのです。
フィレンツェでの誕生

出自の謎と商業教育

ジョヴァンニ・ボッカチオの誕生は、1313年の夏、フィレンツェ共和国の領内、おそらくはチェルタルドかフィレンツェそのものであったとされていますが、その正確な場所や日付、そして母親が誰であったのかは、確かな記録が残っておらず、謎に包まれています。彼が私生児であったことは、ほぼ間違いありません。彼の父、ボッカッチーノ・ディ・ケッリーノは、フィレンツェの有力な商人であり、当時ヨーロッパで最も強大な金融機関の一つであったバルディ家商会の代理人として活躍していました。
ボッカチオの幼少期は、父の商業活動に伴い、フィレンツェで過ごされました。父ボッカッチーノは、自らの後継者として、息子が商売の道に進むことを強く望んでいました。彼は、ボッカチオに、ダンテの師としても知られるジョヴァンニ・マッツォーリのもとで、初期の教育を受けさせました。しかし、ボッカチオの心は、算術や帳簿の世界には全く惹かれませんでした。彼は後年、この時期を振り返り、七歳になる前からすでに詩作への抗いがたい衝動を感じていたと記しています。商業教育は、彼の文学的な魂にとっては、息の詰まるような苦痛でしかありませんでした。
ナポリの宮廷=愛と文学の発

1327年頃、ボッカチオの運命は大きな転機を迎えます。父ボッカッチーノが、バルディ商会のナポリ支店長に任命され、14歳のボッカチオも父と共に、この南イタリアの華やかな港町へと移り住んだのです。ナポリは、当時、フランスのアンジュー家出身のロベルト賢王の治世下にあり、その宮廷は、イタリアだけでなく、ヨーロッパ各地から詩人、学者、芸術家が集まる、洗練された文化の中心地でした。フィレンツェが市民と商人の共和国であったのに対し、ナポリは貴族的な宮廷文化が花開く、全く異なる世界でした。
父は、ここでもボッカチオに銀行家としての実務を学ばせようとしましたが、彼の抵抗はますます強くなります。結局、父は商業の道を諦めさせ、次に、社会的地位の高い教会法を学ばせるために、ナポリ大学に入学させました。しかし、ボッカチオの関心は、ここでも法学の堅苦しい講義には向かいませんでした。彼の魂は、ナポリの宮廷が提供する、より自由で刺激的な文化の空気を渇望していたのです。
彼は、宮廷に出入りする機会を得て、そこで様々な知識人や詩人たちと交流しました。彼は、宮廷図書館で古典文学の写本を読みふけり、パオロ・ダ・ペルージャのような王の司書から、ギリシャ神話や古典の知識を吸収しました。また、チーノ・ダ・ピストイアのような著名な法学者であり詩人でもあった人物の講義に感銘を受けました。このナポリでの日々は、ボッカチオにとって、真の大学でした。彼は、ここで初めて、自らが生きるべき世界、すなわち文学の世界を発見したのです。
このナポリ時代はまた、ボッカチオの恋愛体験にとっても決定的な時期でした。彼は、宮廷で出会った一人の貴婦人に、情熱的な恋をします。彼は、自らの作品の中で、この女性を「フィアンメッタ」(小さな炎)という雅名で呼び、彼女を、自らの文学的ミューズとして、繰り返し登場させます。フィアンメッタの正体は、ロベルト王の私生児であったマリーア・ダクイーノであったとする説が有力ですが、これもまた確証はありません。
ペトラルカにとってのラウラが、詩人を精神的に高める、どこか手の届かない理想的な存在であったのに対し、ボッカチオにとってのフィアンメッタは、より現実的で、肉感的な恋愛の対象でした。彼らの関係は、報われぬ片思いではなく、実際に成就した恋愛であったと、ボッカチオ自身が示唆しています。このフィアンメッタとの恋愛経験は、彼の初期の作品群に、鮮烈なインスピレーションを与えました。彼は、自らの恋愛の喜びと苦しみを、物語の中に投影し、愛の心理を巧みに分析する手法を身につけていきました。
ナポリでの約13年間は、ボッカチオが、商人の息子から、洗練された宮廷詩人へと変貌を遂げた、彼の人生における形成期でした。彼は、この地で、古典文学の豊かさと、俗語による物語文学の可能性の両方に目覚めたのです。
初期の文学活動

ナポリ時代からフィレンツェへの帰還後にかけて、ボッカチオは、フィアンメッタとの恋愛経験を色濃く反映した、一連の物語作品を俗語(イタリア語)で執筆しました。これらの初期作品は、彼が、古典文学の壮大な主題や形式を、いかにして俗語文学の世界に取り入れ、新しい物語の形を模索していたかを示す、興味深い実験の記録です。
『フィローストラト』と『テセイーダ』

『フィローストラト』(愛の犠牲者)は、トロイア戦争を舞台にした、八行詩連(オッターヴァ・リーマ)で書かれた物語詩です。物語の中心は、トロイアの王子トロイルスと、ギリシャ側に引き渡された美女クリュセイス(後の作品ではクレシダとして知られる)との悲恋です。ボッカチオは、この作品で、恋愛における嫉妬や絶望といった、激しい心理的な葛藤を巧みに描き出しました。この物語は、後にチョーサーの『トロイルスとクリセイデ』や、シェイクスピアの戯曲『トロイラスとクレシダ』の直接の典拠となり、西洋文学に大きな影響を与えました。
一方、『テセイーダ・デッレ・ノッツェ・デミリア』(エミーリアの結婚をめぐるテセウスの物語)は、古代ギリシャの英雄テセウスの時代を舞台にした、同じくオッターヴァ・リーマによる長大な叙事詩です。物語は、テセウスに捕らえられた二人のテーバイの若き騎士、パレーモネとアルチータが、牢獄の窓からアテナイの王女エミーリアの姿を見て、二人とも彼女に恋をしてしまい、親友同士でありながら恋敵として争うというものです。ボッカチオは、この作品で、古典叙事詩の壮大さと、中世騎士道物語の恋愛テーマを融合させようと試みました。この作品もまた、チョーサーの『カンタベリー物語』における「騎士の話」の典拠となりました。
『フィローコロ』と『フィアンメッタ悲歌』

『フィローコロ』(愛の苦労)は、ボッカチオが手がけた最初の散文作品であり、中世に広く流布していた「フロリオとビアンシフィオーレ」の物語を、長大な恋愛小説として再構成したものです。物語は、異教徒の王子フロリオと、キリスト教徒の孤児ビアンシフィオーレとの間の、身分違いの恋と、それに伴う様々な冒険を描きます。ボッカチオは、この単純な物語に、古典神話からの引用や、神学的な議論、心理描写などをふんだんに盛り込み、散文という形式の可能性を追求しました。
そして、ナポリ時代の文学活動の集大成とも言えるのが、『フィアンメッタ悲歌』です。この作品は、西洋文学史上、最初の心理小説の一つと見なされています。物語は、恋人パンフィーロに捨てられたナポリの貴婦人フィアンメッタが、自らの絶望的な悲しみと嫉妬を、一人称で独白するという形式をとっています。ここでは、従来の物語のように、作者が女性の視点を代弁するのではなく、女性主人公自身が、自らの内面で渦巻く感情を、赤裸々に語ります。彼女は、過去の幸福な日々を思い出し、恋人の裏切りを嘆き、復讐を誓い、そして自殺さえ考えます。この、女性の内面心理の克明な描写は、当時としては画期的であり、ボッカ-チオの人間観察の鋭さを示しています。
これらの初期作品群は、ボッカチオが、来るべき最高傑作『デカメロン』に向けて、物語の語り方、登場人物の心理描写、そして散文というメディアの可能性を、いかに探求していたかを示しています。
フィレンツェへの帰還と『デカメロン』

経済的苦境と黒死病

1340年の末、ボッカチオのナポリでの自由で華やかな生活は、突然の終わりを告げます。父ボッカッチーノが深刻な財政難に陥り、息子にフィレンツェへ戻るよう命じたのです。さらに、1340年代半ばには、バルディ家とペルッツィ家という、フィレンツェの二大銀行が、イングランド王エドワード3世への巨額の貸し付けが焦げ付いたことなどが原因で、相次いで破綻します。この金融危機は、ボッカチオ家の経済状況に決定的な打撃を与えました。ナポリの宮廷詩人であったボッカチオは、一転して、フィレンツェで地道な仕事を探さなければならない現実に直面します。この経済的な苦境は、彼に、貴族的な理想の世界から、市民社会の厳しい現実へと、その目を向けさせるきっかけとなりました。
そして、1348年、フィレンツェを、そしてヨーロッパ全土を、未曾有のカタストロフが襲います。黒死病(ペスト)の大流行です。この疫病は、フィレンツェの人口の半分以上を奪ったとされ、社会の秩序を根底から揺るがしました。人々は、神の怒りを恐れ、あるいは自暴自棄になり、道徳は崩壊し、家族さえも互いを見捨てるという、地獄のような光景が繰り広げられました。ボッカチオ自身も、1349年に、この疫病で父を失いました。この黒死病の恐るべき体験は、ボッカチオに、人間の生の儚さ、そして極限状況における人間の本性を、まざまざと見せつけました。この体験が、彼の最高傑作『デカメロン』を生み出す、直接的な背景となったのです。
『デカメロン』

『デカメロン』(ギリシャ語で「十日間」の意)は、1349年から1353年頃にかけて執筆された、百の物語から成る、壮大な物語集です。この作品は、黒死病が猛威を振るうフィレンツェを舞台にした、枠物語の構造を持っています。
物語は、ペストによって崩壊したフィレンツェから始まります。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会に集った、七人の若い貴婦人と三人の若い紳士が、この恐ろしい現実から逃れるため、フィレンツェ郊外の美しい別荘に避難することを決意します。彼らは、そこで秩序ある共同生活を送りながら、十日間にわたって、毎日一人一話ずつ、合計百の物語を語り合うことで、この災厄の時を乗り越えようとします。
この枠物語の構造は、極めて巧みに機能しています。まず、冒頭の黒死病の描写は、当時の社会の混乱と道徳の崩壊を、リアルかつ克明に記録した、歴史的にも貴重な証言となっています。そして、この死と混沌の世界から、物語を語るという理性的で文明的な行為によって、新たな秩序と共同体を再建しようとする、語り手たちの試みそのものが、作品全体の大きなテーマとなります。語り手である十人の若者たちは、洗練され、礼儀正しく、彼らの存在そのものが、崩壊した世界に対する、人間性の理想を体現しています。
語られる百の物語は、実に多種多様です。悲劇もあれば喜劇もあり、騎士道的な高貴な物語もあれば、下品で猥雑な笑い話もあります。舞台も、イタリアの都市から、地中海全域、さらには東方の国々にまで及びます。登場人物も、王侯貴族、騎士、商人、聖職者、職人、農民、そしてその妻や娘たちと、当時の社会のあらゆる階層を網羅しています。
これらの物語群を貫く共通のテーマは、「運命」と「人間」の力です。多くの物語で、登場人物たちは、予測不可能な運命の女神フォルトゥーナの気まぐれに翻弄されます。しかし、彼らは、ただ運命に流されるだけではありません。彼らは、自らの「インジェーニオ」(機知、才覚)や「インドゥストリア」(勤勉、努力)を駆使して、運命に立ち向かい、困難を克服し、自らの望みを達成しようとします。特に、商人の抜け目のない知恵や、女性の機転が、多くの物語で称賛されています。
また、『デカメロン』は、当時の社会、特に聖職者の偽善と腐敗に対する、痛烈な風刺に満ちています。修道士や司祭たちは、しばしば、強欲で、好色で、人々を騙して私腹を肥やす、偽善者として描かれます。しかし、ボッカチオの風刺は、単なる悪意に満ちた非難ではありません。そこには、人間の弱さに対する、ある種の寛容な眼差しと、ユーモアが常に伴っています。
そして、『デカメロン』が画期的であった最大の理由は、それが、イタリア語の散文で書かれ、散文というメディアを、初めて高度な芸術の域にまで高めた点にあります。ボッカチオの文体は、ラテン語の構文を巧みに取り入れ、格調高く、複雑でありながら、同時に生き生きとしたリズムと明快さを備えています。彼は、物語の内容に応じて、荘重な文体から、口語的で軽快な文体まで、自在に書き分けることができました。『デカメロン』は、その後のヨーロッパにおける、散文小説というジャンルの、偉大な源流となったのです。
ペトラルカとの出会い

生涯の師との友情

1350年、ボッカチオの人生に、もう一つの決定的な出会いが訪れます。フィレンツェ共和国の使節として、聖年祭のためにローマへ向かう途中のフランチェスコ・ペトラルカがフィレンツェに立ち寄り、ボッカチオは彼を自らの家に迎え、歓待したのです。この時、ボッカチオは37歳、ペトラルカは46歳。ペトラルカは、すでにヨーロッパ随一の知識人、桂冠詩人として、絶大な名声を得ていました。ボッカチオは、若い頃からペトラルカの作品を深く敬愛しており、この出会いは、彼に大きな知的衝撃を与えました。
この出会いをきっかけに、二人の間には、生涯にわたる深い友情と、師弟にも似た関係が育まれていきました。彼らは、頻繁に書簡を交換し、互いの作品について意見を交わし、古典研究への情熱を分かち合いました。ペトラルカは、ボッカチオの中に、自らのヒューマニズムの理想を共有できる、数少ない理解者を見出しました。一方、ボッカチオは、ペトラルカの圧倒的な知性と、古典古代への深い学識に導かれ、自らの知的関心を、俗語による物語文学の創作から、ラテン語による古典の研究、すなわちヒューマニズムへと、大きく転回させていきました。
ペトラルカは、ボッカチオの俗語作品、特に『デカメロン』に対しては、複雑な態度を示しました。彼は、その内容が通俗的すぎると考え、長年読むことを避けていたと述べています。しかし、晩年に至ってようやく読み、特に最後の第百話「グリーゼルダの物語」に深く感動し、それをラテン語に翻訳しました。このペトラルカによるラテン語訳は、『デカメロン』の名声をヨーロッパ中に広める上で、大きな役割を果たしました。
古典研究とギリシャ語の復興

ペトラルカの影響のもと、ボッカチオは、晩年の精力的なエネルギーを、古典古代の知識の探求と普及に捧げました。彼は、ペトラルカと同様に、修道院の図書館に眠る古典写本の探索に情熱を燃やしました。特に有名なのが、モンテ・カッシーノ修道院を訪れた際の逸話です。彼は、そこで、ヴァロやタキトゥスといった貴重な古代の写本が、無残にも切り刻まれ、他の書物のために再利用されたり、護符として売られたりしているのを見て、涙ながらにその無知を嘆いたと伝えられています。
ボッカチオのヒューマニストとしての最大の功績の一つは、西ヨーロッパにおけるギリシャ語研究の復興に、決定的な役割を果たしたことです。中世の西ヨーロッパでは、ギリシャ語はほとんど忘れ去られており、プラトンやアリストテレスの著作でさえ、アラビア語からのラテン語訳を通して、間接的にしか知られていませんでした。ボッカチオは、南イタリア出身のカラブリアのレオーンツィオ・ピラートという人物をフィレンツェに招聘し、彼にフィレンツェ大学でギリシャ語を教える地位を与えました。これは、西ヨーロッパの大学で、ギリシャ語の講座が公式に設けられた、最初の例の一つでした。
ボッカチオは、自らもピラートのもとでギリシャ語を学び、彼の助けを得て、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を、初めてギリシャ語原典からラテン語へと翻訳させるという、画期的な事業を成し遂げました。この翻訳は、多くの誤りを含む、不完全なものでしたが、ホメロスの壮大な叙事詩の世界を、初めて西ヨーロッパの知識人たちに直接伝えるものであり、ルネサンス・ヒューマニズムの発展に、計り知れない影響を与えました。
ラテン語による学術的著作

このヒューマニストとしての活動の成果として、ボッカチオは、晩年に、ラテン語によるいくつかの大規模な学術的著作を執筆しました。
『異教の神々の系譜について』は、古代ギリシャ・ローマの神々に関する情報を集大成した、全15巻に及ぶ、巨大な神話学の百科事典です。ボッカチオは、この作品で、神話の物語を単に紹介するだけでなく、それらが寓意的に、自然の真理や道徳的な教訓を隠していると主張し、その解釈を試みました。この著作は、ルネサンス期の芸術家や詩人たちが、古典神話の主題を自らの作品に取り入れる際の、最も重要な典拠となりました。
その他にも、彼は、聖書から同時代までの著名な人物の伝記を集めた『著名な人々の没落について』や、古代から同時代までの百六人の女性の伝記を集めた『著名な女性について』などを執筆しました。これらの著作は、歴史上の人物の生涯を通して、道徳的な教訓を引き出そうとするものであり、ボッカ-チオのヒューマニストとしての博識と、教育的な関心を示しています。
ダンテ研究とチェルタルドでの隠棲

晩年のボッカチオは、フィレンツェ共和国の使節として、アヴィニョンやローマへ赴くなど、公的な活動も続けましたが、次第に政治の喧騒から離れ、父の故郷であったチェルタルドの家に引きこもるようになります。彼の最後の情熱は、彼が若い頃から最も深く敬愛してきた詩人、ダンテ・アリギエーリの研究と顕彰に注がれました。
ボッカチオは、ダンテの最初の本格的な伝記である『ダンテ伝』を執筆しました。この伝記は、多くの逸話や伝説を含んでおり、歴史的な正確さには欠ける部分もありますが、ダンテという詩人の人間的な肖像を、愛情を込めて描き出しており、後世のダンテ像に決定的な影響を与えました。彼はまた、ダンテが『神曲』を『喜劇』と名付けたのに対し、その偉大さを称えて「神のごとき」という形容詞を付け加え、『神聖な喜劇』という呼称を定着させたとされています。
1373年、フィレンツェ市政府は、ボッカチオに、市内の教会で『神曲』に関する公開講座を行うよう依頼しました。これは、ダンテを追放したフィレンツェが、公式にその偉大さを認め、市民にその作品を解説するという、画期的な試みでした。老いたボッカチオは、病を押してこの大役を引き受け、熱心に講義を行いましたが、健康状態の悪化により、『地獄篇』第十七歌の途中で、講義を中断せざるを得なくなりました。
1375年12月21日、ボッカチオは、チェルタルドの家で、62年の生涯を閉じました。彼の死は、生涯の友であったペトラルカが亡くなった、わずか一年半後のことでした。
ジョヴァンニ・ボッカチオは、商人の息子として生まれ、宮廷詩人として青春を送り、やがてルネサンスを代表するヒューマニストへと成長した、稀有な知性の持ち主でした。彼は、ダンテとペトラルカという二つの巨大な星の間にあって、人間性の豊かさと複雑さを、物語という形で探求し続けました。彼が『デカメロン』で描き出した、機知とユーモアに富み、欲望に忠実でありながらも、どこか憎めない人間たちの姿は、中世の厳格な道徳観から解放された、新しい人間像の宣言でした。
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・ボッカチオ(ボッカッチョ)とは わかりやすい世界史用語2507

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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