新規登録 ログイン

18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

シク教とは わかりやすい世界史用語2371

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
シク教とは

シク教は、15世紀末にインド亜大陸のパンジャーブ地方でグル・ナーナクによって創始された一神教の宗教であり、哲学です。 世界で5番目に大きい組織宗教であり、その信者はシク教徒として知られています。 「シク」という言葉はパンジャーブ語で「学習者」または「真理の探求者」を意味し、精神的な導きを求める人々がシク教の共同体、すなわちパンに参加しました。
シク教の教えは、最初のグルであるグル・ナーナク(1469年~1539年)と、彼に続いた9人のグルの精神的な教えから発展しました。 10人のグルはそれぞれ、前のグルの教えを補強し、発展させていきました。 10番目のグルであるグル・ゴービンド・シン(1666年~1708年)は、彼の死後、聖典であるグル・グラント・サーヒブを永遠のグルとして定めました。 シク教徒は、10人の人間のグル全員が単一の精神を宿していたと信じています。
グル・ナーナクは、1469年に南アジアのパンジャーブ地方、現在のパキスタンのナンカナ・サーヒブで生まれました。 彼は精神性、奉仕、そして誠実さに満ちた生涯を送りました。 幼い頃から探求心旺盛で、伝統的な宗教儀式に疑問を呈していました。 彼の教えに従うようになった弟子たちが、シク教徒として知られるようになりました。 グル・ナーナクは、インドの聖者たちの伝統、特に偉大な詩人であり神秘家であったカビール(1440年~1518年)に関連するサントの伝統に属していたと指摘する学者もいます。 彼はインド中の巡礼地を訪れ、多くの賛美歌を作曲しました。これらの賛美歌は、1604年に5番目のグルであるグル・アルジャンによってアディ・グラントに集められました。
シク教は、宗教的迫害の時代に発展し、ヒンドゥー教とイスラム教の両方から改宗者を得ました。 ムガル帝国の皇帝たちは、イスラム教への改宗を拒否したグル・アルジャン(1563年~1605年)とグル・テグ・バハードゥル(1621年~1675年)の2人のシク教のグルを拷問し、処刑しました。 この迫害がきっかけとなり、1699年にグル・ゴービンド・シンによって、良心と宗教の自由を守るための組織としてカールサーが設立されました。 カールサーのメンバーは、「聖なる戦士」の資質を体現することが求められました。
シク教の歴史は、パンジャーブ地方の歴史と密接に関連しています。 19世紀初頭には、マハラジャ・ランジート・シンの下でシク帝国が設立され、パンジャーブ地方を統治しました。しかし、彼の死後、帝国は内紛とイギリスの侵攻によって弱体化し、1849年にイギリスに併合されました。その後、多くのシク教徒がイギリス軍に入隊し、第一次世界大戦と第二次世界大戦で連合軍の一員として戦いました。



シク教の教義と哲学

シク教の核心的な教義は、唯一の創造主への信仰と瞑想、全人類の神聖な統一と平等、他者への無私の奉仕、すべての人の利益と繁栄のための正義の追求、そして正直な行動と生計を立てることにあります。
唯一神(イーク・オンカール)

シク教の中心的な信念は、唯一の神への信仰です。 この神は「イーク・オンカール」と呼ばれ、宇宙にはただ一人の創造主しかいないことを意味します。 シク教徒は、この唯一の神はすべての人のための同じ神であると信じています。 神は形がなく、ジェンダーもなく、時を超越し、生まれず、自己存在であり、あらゆる場所に遍在する霊であると考えられています。 この唯一神への信仰は、シク教の他のすべての教義の基礎となっています。 シク教は偶像崇拝や半神の崇拝を否定し、献身的な瞑想を通じて神に近づくことを教えます。
人類の平等

シク教は、すべての人間の平等を強く主張します。 シク教の教えによれば、人種、カースト、性別、社会的地位に関係なく、すべての人は神の前で平等です。 この信念は、グル・ナーナクが当時のインド社会に深く根付いていたカースト制度を断固として拒否したことに由来します。 彼は、人の価値はその人の行動と精神的な献身によって決まるのであり、生まれや社会的階級によるものではないと教えました。
この平等の原則は、シク教の慣習にも反映されています。例えば、グルドワーラー(シク教寺院)にある共同食堂「ランガル」では、背景に関係なく誰もが一緒に床に座って無料で食事を提供されます。 これは、社会的な階層をなくし、謙虚さを促進するためのものです。 また、男性は「シン」(ライオン)、女性は「カウル」(王女)という共通の姓を用いることも、カーストによる区別をなくすための慣行です。
シク教はまた、男女の完全な平等を教えています。 女性はあらゆる宗教的行事に参加し、儀式を執り行い、会衆を祈りで導くことができます。 これは、グル・ナーナクの時代には非常に革新的な教えでした。
三つの柱

シク教徒の生活は、三つの主要な原則に基づいています。
ナーム・ジャプナ(神の御名を唱える): 神の名を絶えず瞑想し、唱えることです。 これは、心を集中させ、精神的なつながりを保つための実践です。 この実践は、正式な祈りや儀式に限定されるものではなく、日常生活のあらゆる活動に織り込まれるべきものとされています。
キラット・カルニー(正直な生計を立てる): 正直で倫理的な手段によって生計を立てることです。 シク教は、勤勉、誠実さ、そして社会への積極的な貢献を重視します。
ヴァンド・チャクナ(分かち合う): 自分の収入や富を他者と分かち合うことです。 この原則は、無私、慈善、そして思いやりの考え方を促進します。 シク教徒は、地域社会の福祉に貢献し、困っている人々を助けることが期待されています。
これらの三つの柱は、シク教徒が精神的な成長と社会的な責任のバランスをとった生活を送るための指針となります。
セヴァ(無私の奉仕)

セヴァ、すなわち無私の奉仕は、シク教の信仰において中心的な役割を果たします。 これは、カースト、肌の色、信条、性別、国籍に関係なく、全人類への奉仕と見なされています。 シク教徒は、貧しい人々、困窮している人々、そして抑圧されている人々を助けることが人生の主要な務めであると考えています。
セヴァは、神への感謝を表す方法であり、祈りに満ちた行動であると見なされています。 ランガルでの食事の提供、グルドワーラーの清掃、あるいは地域社会でのボランティア活動など、様々な形で行われます。 セヴァの行為は、自我をなくし、謙虚さを育むのに役立つと信じられています。
マーヤーと輪廻転生

シク教は、他の多くのインドの宗教と同様に、輪廻転生の概念、すなわち誕生、死、そして再生のサイクルを信じています。 このサイクルからの解放(ムクティ)は、神への献身と瞑想、そして正しい行いを通じて達成されると考えられています。
シク教の教えでは、人々がこのサイクルに囚われる主な原因は、自我(ハウマイ)と五つの盗賊(パンジ・チョール)です。五つの盗賊とは、欲望(カム)、怒り(クロード)、貪欲(ローブ)、執着(モー)、そして傲慢(アハンカール)です。これらの否定的な感情は、人々を神から遠ざけ、利己的な行動に導きます。
シク教は、これらの弱点を克服し、神との合一を達成するために、ナーム・ジャプナ(神の御名を唱えること)、セヴァ(無私の奉仕)、そしてサット・サンガット(真理を求める人々の集まり)に参加することを奨励します。
10人のシク教のグル

シク教の伝統は、1469年から1708年までの間に生きた10人の人間のグルによって確立され、育まれました。 各グルは、前のグルのメッセージを補強し、シク教の教義と共同体を形成する上で重要な役割を果たしました。
グル・ナーナク(1469年~1539年)

グル・ナーナクはシク教の創始者です。 彼はパンジャーブ地方のタルワンディー村(現在のパキスタンのナンカナ・サーヒブ)で生まれました。 彼は唯一神の概念を説き、カースト制度、儀式主義、偶像崇拝を否定しました。 彼の教えは、神への愛ある献身(バクティ)を強調し、正直な生活と他者への奉仕の重要性を説きました。 彼は広範囲に旅をし、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒を含む様々な信仰を持つ人々と対話し、宗教間の調和と統一のメッセージを広めました。 彼の教えは、後に聖典グル・グラント・サーヒブにまとめられました。
グル・アンガド(1539年~1552年)

グル・ナーナクの後継者であるグル・アンガドは、グルナーナクの教えを広め続けました。 彼の最も重要な貢献の一つは、パンジャーブ語を表記するためのグルムキー文字を標準化し、普及させたことです。 これにより、シク教の聖典や教えを記録し、一般の人々がアクセスしやすくなりました。 彼はまた、グル・ナーナクが始めた共同食堂「ランガル」の制度を普及させ、拡大しました。
グル・アマル・ダース(1552年~1574年)

グル・アマル・ダースは、シク教共同体の組織化に大きく貢献しました。 彼は、増え続ける信徒を管理するための行政システム「マンジ」を設立しました。 彼はまた、カースト制度をさらに否定し、女性の地位向上に努めました。 彼は、シク教の結婚式であるアナンド・カラージの儀式を導入し、サティー(夫の死後に妻が殉死する慣習)やプルダ(女性が顔を隠す慣習)に反対しました。彼はまた、有名な賛美歌「アナンド・サーヒブ」を作曲しました。
グル・ラーム・ダース(1574年~1581年)

グル・ラーム・ダースは、シク教の聖地となるアムリトサル市を設立しました。 彼は、後にハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)が建設されることになる聖なる池「アムリト・サロヴァル」(不死の蜜の池)の掘削を開始しました。 この都市は、シク教徒の精神的および文化的な中心地となりました。 彼はまた、シク教の結婚式で歌われる4つの賛美歌「ラーヴァーン」を作曲しました。
グル・アルジャン(1581年~1606年)

グル・アルジャンは、シク教の歴史において極めて重要な人物です。 彼は、アムリトサルのハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)の建設を完成させました。 彼の最大の功績は、シク教の聖典であるアディ・グラント(後のグル・グラント・サーヒブ)を編纂したことです。 彼は、前の4人のグルと、カビールやバーバー・ファリードといったヒンドゥー教やイスラム教の聖者たちの教えを集め、この聖典に収めました。 1606年、彼はムガル皇帝ジャハーンギールによって迫害され、殉教しました。これはシク教の歴史における最初の殉教であり、シク教共同体に大きな影響を与えました。
グル・ハルゴービンド(1606年~1644年)

父グル・アルジャンの殉教を受け、グル・ハルゴービンドはシク教共同体を守るために新たな方向性を示しました。 彼は「ミーリー」(世俗的な権威)と「ピーリー」(精神的な権威)の二本の剣を帯び、シク教徒が精神的な生活と同時に自己防衛の準備をする必要があることを象徴しました。 彼は武装したシク教徒の戦士を維持し、アムリトサルにアーカーン・タクト(「永遠の玉座」、シク教の最高の世俗的権威の中心)を建設しました。
グル・ハル・ラーイ(1644年~1661年)

グル・ハル・ラーイは、平和を重んじる人物でしたが、祖父グル・ハルゴービンドが維持していた武装したシク教徒の戦士を解散させることはありませんでした。 彼の時代は、大きな戦闘はなく、シク教共同体の統合の時期でした。 彼は宣教活動に専念し、ムガル皇帝アウラングゼーブとの対立を慎重に避けました。
グル・ハル・クリシャン(1661年~1664年)

グル・ハル・クリシャンは、わずか5歳でグルに就任しました。 彼は幼いながらも、その知恵と精神的な成熟さで知られていました。しかし、彼はデリーで天然痘の流行に苦しむ人々を看護している間に病にかかり、8歳で亡くなりました。
グル・テグ・バハードゥル(1664年~1675年)

グル・テグ・バハードゥルは、宗教の自由を守るために殉教したことで知られています。 彼は、ムガル皇帝アウラングゼーブによるカシミールのヒンドゥー教徒への強制的なイスラム教への改宗に反対し、自らの命を犠牲にしました。 彼の殉教は、信教の自由を守るためのシク教の決意を象徴する出来事となりました。彼の詩はグル・グラント・サーヒブに収められています。
グル・ゴービンド・シン(1675年~1708年)

最後の人間のグルであるグル・ゴービンド・シンは、シク教を現在の形にまとめ上げました。 1699年のヴァイサーキーの日に、彼はカールサー(「純粋な者たち」)を創設しました。 これは、シク教の教えに献身し、不正と戦うことを誓った洗礼を受けたシク教徒の共同体です。 彼は、カールサーのメンバーに5つの信仰のシンボル(パンジ・カッケー)を身につけることを命じました。 彼はまた、彼の死後、聖典グル・グラント・サーヒブが永遠のグルとしてシク教徒を導くと宣言しました。
聖典グル・グラント・サーヒブ

グル・グラント・サーヒブは、シク教の中心的な聖典であり、シク教徒にとっては生けるグル、すなわち永遠の精神的な導き手と見なされています。 この聖典は、10人のグルのうち6人(グル・ナーナク、グル・アンガド、グル・アマル・ダース、グル・ラーム・ダース、グル・アルジャン、グル・テグ・バハードゥル)の教えと、カビール、ラーヴィダース、シェイク・ファリードといったヒンドゥー教やイスラム教の聖者や詩人たちの著作を含んでいます。
編纂と構造

グル・グラント・サーヒブの編纂は、5番目のグルであるグル・アルジャンによって1604年に完成されました。 彼は、シク教の教えの神髄を保存し、統一された聖典を提供することを目指しました。後に、10番目のグルであるグル・ゴービンド・シンが、9番目のグルであるグル・テグ・バハードゥルの著作を加え、最終的な形としました。
聖典はグルムキー文字で書かれており、1430ページにわたります。その内容は、音楽的なラーガ(旋律の形式)に基づいて構成されています。聖典は、神への賛美、瞑想、倫理的な生活、そして精神的な解放への道についての教えに満ちています。
シク教における役割と重要性

グル・グラント・サーヒブは、単なる書物ではなく、シク教徒の生活のあらゆる側面の中心です。 グルドワーラーでは、聖典は玉座に置かれ、最高の敬意をもって扱われます。 礼拝の中心は、グル・グラント・サーヒブからの賛美歌の朗読と歌唱(キールタン)です。
命名式、結婚式、葬儀といった人生の重要な儀式はすべて、グル・グラント・サーヒブの前で行われます。 子供が生まれると、聖典をランダムに開いたページの最初の文字から名前が付けられます。 結婚式(アナンド・カラージ)では、新郎新婦がグル・グラント・サーヒブの周りを4周し、その教えが新しい生活の中心であることを象徴します。
グル・ゴービンド・シンがグル・グラント・サーヒブを永遠のグルと定めたことにより、シク教は人間の指導者への依存から脱却し、聖典に記された神聖な言葉そのものに権威を置くという、ユニークな宗教的伝統を確立しました。
シク教の儀礼と実践

シク教徒の日常生活と宗教生活は、グルへの献身と共同体への奉仕を中心とした様々な儀礼と実践によって形作られています。これらの実践は、個人の精神的な成長を促し、シク教共同体の結束を強める役割を果たします。
礼拝とグルドワーラー

グルドワーラーは「グルへの扉」を意味し、シク教徒の礼拝所です。 しかし、それは単なる礼拝の場所以上のものです。グルドワーラーは、学習の場、共同体の集いの場、そしてランガル(共同食堂)を通じて誰もが歓迎される場所でもあります。
グルドワーラーの中心には、玉座に安置された聖典グル・グラント・サーヒブがあります。 礼拝は、グル・グラント・サーヒブからの賛美歌の朗読(パート)と歌唱(キールタン)から構成されます。 礼拝に参加する人は、靴を脱ぎ、頭を覆い、グル・グラント・サーヒブの前で敬意を表して頭を下げます。
シク教には聖職者階級が存在せず、礼拝は共同体の尊敬されるメンバーによって導かれます。 礼拝の終わりには、アルダースと呼ばれる共同の祈りが捧げられ、その後、カラフ・プラサードという甘いプディングが会衆全員に配られます。
ランガル(共同食堂)

ランガルは、グルドワーラーに併設された共同食堂で、宗教、カースト、性別、社会的地位に関係なく、すべての人々に無料で菜食の食事が提供されます。 この制度は、平等の原則を実践し、社会的な障壁を取り除くことを目的としています。 ランガルでは、誰もが同じ列に並び、床に座って食事を共にします。これは、謙虚さと人類の同胞愛を象徴しています。 食事の準備、調理、配膳、そして後片付けはすべて、セヴァ(無私の奉仕)として信者たちのボランティアによって行われます。
人生の儀式

シク教には、誕生から死まで、人生の節目を祝うための儀式があります。これらの儀式はすべて、グル・グラント・サーヒブを中心に行われます。
命名式(ナーム・カラン): 子供が生まれると、グルドワーラーで命名式が行われます。 グル・グラント・サーヒブをランダムに開き、そのページの最初の賛美歌の最初の文字が、子供の名前の頭文字として選ばれます。 男の子には「シン」(ライオン)、女の子には「カウル」(王女)という姓が付け加えられます。
アムリト・サンチャール(洗礼式): カールサーへの入会を望むシク教徒のための洗礼式です。 この儀式は、準備ができたと感じた時にいつでも受けることができます。 5人の洗礼を受けたシク教徒(パンジ・ピアーレー)によって執り行われ、聖水(アムリト)が準備されます。 志願者はアムリトを飲み、目に振りかけられ、カールサーの行動規範に従うことを誓います。
結婚式(アナンド・カラージ): 「至福の結合」を意味するシク教の結婚式です。 新郎新婦は、グル・グラント・サーヒブの前で、結婚に関する4つの賛美歌(ラーヴァーン)が朗読される中、聖典の周りを4周します。 これは、彼らの結婚生活がグルの教えを中心とすることを象徴しています。
葬儀: シク教徒は火葬を好みます。 遺体は、祈りと賛美歌の朗読の後、火葬されます。シク教の信念では、魂が肉体を離れた後、遺体は自然に還るべきだと考えられています。
五つのK(パンジ・カッケー)

1699年にグル・ゴービンド・シンによって創設されたカールサーの一員となったシク教徒は、5つの信仰のシンボル、通称「五つのK」(パンジ・カッケー)を常に身につけることが求められます。 これらは単なるシンボルではなく、シク教徒としてのアイデンティティと信仰への献身を示す信仰箇条です。
ケーシュ(切らない髪): 髪を切らないことは、神の創造物への敬意と、神の意志を受け入れることの象徴です。 シク教徒は、髪を自然のままに伸ばし、男性はそれをターバンで覆います。
カンガー(木製の櫛): 髪を清潔に保ち、整えるための小さな木製の櫛です。 これは、清潔さと規律を象徴しています。 シク教徒は、日に2度髪をとかし、結び直します。
カラー(鋼の腕輪): 通常、右手首にはめる鋼鉄製の腕輪です。 円い形は、始まりも終わりもない神を象徴し、鋼鉄は強さと不屈の精神を表します。 また、正しい行いをする前に、この腕輪を見ることで、自らの行動を省みるためのリマインダーとしても機能します。
カッチェーラー(短いズボン): 特定の形をした下着で、ショートパンツに似ています。 これは、貞節、自制心、そしていつでも行動できる準備ができていることを象徴しています。
キルパーン(儀式用の剣): 洗礼を受けたシク教徒が携える儀式用の剣または短剣です。 これは、弱者を守り、正義と真理のために立ち上がるというシク教徒の義務を象徴しています。 「キルパーン」という言葉は、「キルパー」(慈悲)と「アーン」(名誉)を組み合わせたものであり、攻撃のためではなく、防衛と正義のためにのみ使用されるべきであることを示しています。
これらの五つのKは、カールサーのシク教徒にとって、信仰を日常生活の中で常に意識し、シク教の価値観に従って生きるための助けとなります。
シク教の倫理と社会正義

シク教の倫理は、その教義と密接に結びついており、平等、無私の奉仕、そしてすべての人々の幸福を追求することに重点を置いています。 シク教の倫理観は、自己中心性(ハウマイ)を人間の悪の根源と見なし、それを克服するための実践的な指針を提供します。
平等と差別の拒否

シク教は、カースト、信条、人種、性別、経済的地位に基づくあらゆる形態の社会的差別を根本的に拒否します。 グル・ナーナクは、当時のインド社会に深く根付いていたカースト制度を公然と非難し、すべての人間は神の創造物として平等であると説きました。 この教えは、シク教の最も革命的な側面の一つです。
この平等の理念は、ランガル(共同食堂)や、男性に「シン」、女性に「カウル」という共通の姓を用いる慣習など、具体的な社会的実践によって支えられています。 シク教の聖典は、すべての人間の中に神の光(ジョット)が存在すると教え、すべての人々に対する尊敬を促します。
セヴァと社会貢献

セヴァ(無私の奉仕)は、シク教倫理の中核をなす概念です。 それは、他者のために自己の利益を顧みずに行動することであり、精神的な成長と社会の調和をもたらす手段と見なされています。 セヴァは、グルドワーラーでの奉仕活動にとどまらず、貧しい人々への援助、災害時の救援活動、教育や医療の提供など、社会のあらゆる場面で実践されます。 この奉仕の精神は、シク教徒が社会の不正義に立ち向かい、困窮している人々を擁護する原動力となっています。
正直な労働と分かち合い

シク教は、「キラット・カルニー」、すなわち正直な手段で生計を立てることの重要性を強調します。 創造的で生産的な労働を通じて得た収入は尊いものとされ、他者を搾取したり、不正な手段で富を得たりすることは非難されます。
さらに、「ヴァンド・チャクナ」の原則は、得たものを他者と分かち合うことを奨励します。 これは、単なる慈善行為ではなく、富は神からの預かりものであり、共同体全体の利益のために使われるべきであるという信念に基づいています。この考え方は、富の集中を防ぎ、より公平な社会を築くことを目指しています。
正義と人権の擁護

シク教の歴史は、不正義と圧政に対する闘いの歴史でもあります。 グルの殉教やカールサーの設立は、信教の自由と人権を守るためのシク教の強い決意を示しています。 ミーリー・ピーリーの教義は、シク教徒が精神的な生活を送ると同時に、社会的な責任を負い、必要であれば不正義に対して武力を行使することも辞さない「聖なる戦士」(サント・シパーヒー)であることを求めています。
シク教徒は、拷問、死刑、ジェノサイドといった人権問題に対して積極的に声を上げてきました。 すべての人々の尊厳を守るという義務感は、シク教の倫理観に深く根ざしています。
アムリトサルと黄金寺院

アムリトサル市と、その中心に輝くハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)は、シク教徒にとって最も神聖な場所であり、信仰、歴史、そしてアイデンティティの象徴です。
アムリトサルの設立

アムリトサル市は、1577年に4番目のグルであるグル・ラーム・ダースによって設立されました。 彼は、後に「アムリト・サロヴァル」(不死の蜜の池)として知られるようになる聖なる池の掘削を命じ、その周りに新しい町を築きました。 この池の名前が、市の名前の由来となりました。 この場所は、シク教徒のための礼拝と集いの中心地として意図されていました。
ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)の建設

ハリマンディル・サーヒブの建設は、5番目のグルであるグル・アルジャンによって監督され、1604年に完成しました。 寺院は、グル・アルジャン自身が設計し、アムリト・サロヴァルの中心にある島に建てられました。 その建築様式には、象徴的な意味が込められています。周囲の土地よりも低いレベルに建てられたのは、最も謙虚な人々でさえ、中に入るために階段を下りる必要があることを示すためでした。 また、通常一つの入り口を持つ寺院とは異なり、四方に四つの入り口が設けられています。これは、カーストや信条に関係なく、すべての人々に開かれていることを象徴しています。 礎石は、ラホールのイスラム教スーフィー聖者であったミアン・ミールによって置かれたと広く信じられており、これはシク教の宗教的包括性を示しています。
完成後、グル・アルジャンは、彼が編纂した聖典アディ・グラント(後のグル・グラント・サーヒブ)を寺院内に安置し、これによりハリマンディル・サーヒブはシク教徒の最高位の礼拝所としての地位を確立しました。
黄金寺院という名前の由来と歴史

「黄金寺院」という名前は、19世紀初頭にシク帝国の創始者であるマハラジャ・ランジート・シンによって行われた改修に由来します。 彼は、寺院の上層階を金箔で覆われた銅板で装飾しました。
ハリマンディル・サーヒブは、その歴史を通じて何度も破壊と再建を繰り返してきました。ムガル帝国やアフガニスタンの侵略軍によって繰り返し破壊されましたが、そのたびにシク教徒によって再建されました。 この再建の歴史は、シク教徒の不屈の精神と信仰の強さの証です。
1984年には、インド政府と過激派指導者ジャルナイル・シン・ビンドランワレとの間の対立の中心となり、「ブルースター作戦」と呼ばれるインド軍の攻撃によって、寺院と隣接するアーカーン・タクトは大きな損害を受けました。 この出来事は、シク教徒の心に深い傷跡を残しました。

カールサーの設立とアイデンティティ

カールサーは、1699年に10番目のグルであるグル・ゴービンド・シンによって創設された、洗礼を受けたシク教徒の共同体です。 カールサーの設立は、シク教の歴史における転換点であり、シク教徒に明確なアイデンティティと目的意識を与えました。
設立の背景

17世紀後半、シク教徒はムガル帝国の下で激しい迫害に直面していました。 9番目のグルであるグル・テグ・バハードゥルは、信教の自由を守るために自らの命を犠牲にし、1675年にデリーで殉教しました。 彼の息子であり後継者であるグル・ゴービンド・シンは、この出来事を深く受け止め、シク教徒が自らの信仰と共同体を守るためには、単なる精神的な鍛錬だけでなく、武力による自己防衛も必要であると確信しました。 彼は、抑圧と不正義に立ち向かうことができる、規律正しく献身的な「聖なる戦士」(サント・シパーヒー)の共同体を創設することを決意しました。
1699年ヴァイサーキーの日の出来事

1699年のヴァイサーキー(春の収穫祭)の日、グル・ゴービンド・シンはアナンドプル・サーヒブに集まった何千人もの信徒の前で、鞘から抜いた剣を掲げ、グルのために命を捧げる覚悟のある者はいるかと問いかけました。 会衆が静まり返る中、一人の男が前に進み出ました。 グルはその男をテントの中に連れて行き、しばらくして血の付いた剣を持って一人で戻ってきました。 彼は再び同じ問いを繰り返し、さらに4人の男が次々と志願しました。 5人目の男がテントに入った後、グルは5人全員を生きたまま連れて現れ、彼らを「パンジ・ピアーレー」(五人の敬愛される者)と名付けました。
グルは、鉄の鉢に入った水と砂糖菓子を二刃の剣(カンダ)でかき混ぜながら聖なる賛美歌を唱え、「アムリト」(不死の蜜)と呼ばれる聖水を作りました。 彼はこのアムリトをパンジ・ピアーレーに授け、彼らを最初のカールサーとして洗礼を施しました。 その後、驚くべきことに、グル自身がパンジ・ピアーレーにひざまずき、彼らからアムリトを授けてもらうよう求めました。 これにより、グルと弟子は平等であり、カールサー共同体が集合的な権威を持つことが示されました。
カールサーの行動規範とアイデンティティ

カールサーの一員となることは、特定の行動規範(レヘット・マリヤーダー)に従うことを意味します。 これには、唯一神への信仰、グル・グラント・サーヒブを唯一の導き手とすること、そして前述の「五つのK」(パンジ・カッケー)を常に身につけることが含まれます。 五つのKは、カールサーのシク教徒に統一された外見的なアイデンティティを与え、彼らがどこにいても容易に識別できるようにしました。これは、共同体意識を強めると同時に、自らの信仰に責任を持つことを促す役割も果たしました。
カールサーは、タバコ、アルコール、その他の酩酊物の使用を禁じられています。 また、正直な労働、他者との分かち合い、そして困っている人々を守るという義務を負っています。 カールサーの創設は、シク教を単なる信仰体系から、明確な社会的・政治的アイデンティティを持つ組織化された共同体へと変容させました。
シク教の離散(ディアスポラ)

シク教徒は、その故郷であるパンジャーブ地方を越えて、世界中にコミュニティを形成しています。 このシク教徒の離散(ディアスポラ)は、主に経済的な機会、政治的な動乱、そしてグローバル化の結果として、19世紀後半から始まりました。
初期の移住

シク教徒の海外移住の最初の波は、19世紀後半にイギリス帝国がパンジャーブを併合した後に起こりました。 多くのシク教徒がイギリス領インド軍に入隊し、兵士や警察官として東アフリカ、東南アジア(特にマレーシアとシンガポール)、香港など、大英帝国の各地に派遣されました。
同時期に、一部のシク教徒はカナダ、アメリカ、イギリスへと渡りました。 カナダのブリティッシュ・コロンビア州やアメリカのカリフォルニア州では、主に農業や林業の労働者として働き、厳しい条件下で生活基盤を築きました。 彼らはしばしば人種差別に直面しましたが、粘り強くコミュニティを形成し、最初のグルドワーラーを北米に建設しました。
インド・パキスタン分離独立後の移住

1947年のインド・パキスタン分離独立は、シク教徒の歴史における最大の悲劇の一つであり、大規模な移住の引き金となりました。 パンジャーブ地方はインドとパキスタンに分割され、多くのシク教徒が暮らしていた豊かな土地を含む西パンジャーブはパキスタン領となりました。 これにより、数百万人のシク教徒が家や土地を追われ、インド側の東パンジャーブへの避難を余儀なくされました。 この混乱と暴力の中で、多くの命が失われました。
この出来事の後、多くのシク教徒はインド国内だけでなく、国外にも新たな機会を求めました。 特にイギリスでは、戦後の労働力不足を補うために、連邦諸国からの移民が奨励され、多くのシク教徒が移住しました。 彼らは主に工場や公共交通機関で働き、ロンドンのサウスホールやバーミンガムといった都市に大規模なコミュニティを築きました。
ディアスポラにおけるアイデンティティの維持

世界中に散らばったシク教徒は、移住先の社会に溶け込みながらも、自らの宗教的・文化的アイデンティティを維持するために多大な努力を払ってきました。
グルドワーラーの設立: ディアスポラのシク教徒コミュニティにとって、グルドワーラーは信仰の中心であるだけでなく、文化的なハブとしての役割も果たしています。 グルドワーラーは、礼拝、ランガル、パンジャーブ語やキールタンの教室、そして社会的な集いの場を提供し、世代を超えてシク教の伝統を伝える上で不可欠な存在です。
信仰のシンボルの維持: ターバンや五つのKといった外見的な信仰のシンボルは、ディアスポラのシク教徒にとって特に重要です。 これらは、彼らのアイデンティティを明確に示し、共同体とのつながりを保つ助けとなります。 しかし、これらのシンボルは、特に9.11同時多発テロ以降、誤解や差別の対象となることもあり、シク教徒は自らの信仰について他者を教育し、理解を求める活動を続けています。
社会への貢献: 多くのディアスポラのシク教徒は、ビジネス、政治、学術、芸術、スポーツなど、様々な分野で成功を収め、移住先の社会に大きく貢献しています。 彼らはセヴァの精神に基づき、地域社会での慈善活動や人道支援活動にも積極的に参加しています。
シク教のディアスポラは、グローバルなネットワークを形成し、パンジャーブの故郷と世界中のコミュニティとの間に強いつながりを育んでいます。
女性の役割と地位

シク教は、その創始当初から男女の完全な平等を説いてきました。 これは、15世紀のインド社会においては非常に革新的で進歩的な教えでした。 グルたちは、女性が社会のあらゆる側面において男性と対等なパートナーであることを強調し、女性の地位を貶めるような慣習を非難しました。
教義における平等

シク教の教義では、男性も女性も神の前に平等であり、同じように精神的な悟りを開くことができるとされています。 グル・ナーナクは、「なぜ彼女を悪く言うのか、王を生むのは彼女なのだから」と述べ、女性の重要性を説きました。 聖典グル・グラント・サーヒブには、性別による区別はなく、すべての人間が神の光を宿していると記されています。
シク教は、女性が宗教的な儀式を執り行い、グルドワーラーで会衆を導き、グル・グラント・サーヒブを朗読し、キールタンを歌うことを完全に認めています。 聖職者階級が存在しないため、信仰心と知識があれば、性別に関係なく誰もが宗教的な指導者の役割を担うことができます。
社会的慣習への挑戦

シク教のグルたちは、女性を抑圧する当時の社会的な慣習に対して積極的に反対しました。
サティーの否定: グル・アマル・ダースは、夫の火葬の際に妻が自らも火に飛び込んで殉死する「サティー」の慣習を強く非難しました。 彼は、真のサティーとは、夫の死後も貞淑で敬虔な生活を送ることであると教えました。
プルダの否定: 女性が公の場で顔をヴェールで覆う「プルダ」の慣習も、グルたちによって否定されました。 シク教の女性は、グルドワーラーの礼拝に顔を隠さずに参加することが奨励されました。
女性殺害の禁止: 女児の嬰児殺しは、シク教の行動規範において厳しく禁じられています。
再婚の許可: 未亡人の再婚が認められており、これは当時のインド社会では一般的ではありませんでした。
カウルという姓: グル・ゴービンド・シンは、洗礼を受けた女性に「カウル」(王女)という姓を与えることで、彼女たちに尊厳と独立したアイデンティティを与えました。 これは、女性が父親や夫の所有物ではなく、一個の人間として尊重されるべきであることを示しています。
シク教のシンボルと芸術

シク教には、その教義、価値観、歴史を表現する豊かなシンボルと芸術の伝統があります。 これらは、シク教徒の信仰を視覚的に表現し、共同体のアイデンティティを強化する役割を果たしています。
カンダ

カンダは、シク教の紋章であり、最もよく知られたシンボルです。 この紋章は、4つの武器を組み合わせたもので、それぞれが象徴的な意味を持っています。
中央の二刃の剣(カンダ): 神の正義と力を象徴し、真理と偽りを切り分ける能力を表します。 また、アムリト(聖水)を作る際に使われる剣でもあります。
円(チャッカル): 始まりも終わりもない円は、唯一で永遠の神を象徴しています。 また、シク教徒を保護する要塞としての役割も示唆しています。
交差する二本の剣(キルパーン): 外側にある二本の交差した剣は、「ミーリー」と「ピーリー」の概念を表します。 ミーリーは世俗的な権威や政治的な力を、ピーリーは精神的な権威を象徴しており、シク教徒が精神的な生活と社会的な責任の両方をバランスよく追求する必要があることを示しています。
カンダは、シク教の旗であるニシャーン・サーヒブや、グルドワーラーの建築、出版物など、様々な場所で見られます。
イーク・オンカール

「イーク・オンカール」はグルムキー文字で書かれたシンボルで、「唯一の創造主」を意味します。 これはグル・グラント・サーヒブの冒頭の言葉であり、シク教の一神教の核心的な信念を要約しています。 このシンボルは、神が一つであり、すべての創造物の根源であることを示しています。 シク教徒は、このシンボルをペンダントとして身につけたり、家の装飾に用いたりすることがよくあります。
ニシャーン・サーヒブ

ニシャーン・サーヒブは、すべてのグルドワーラーの外に掲げられるシク教の旗です。 通常は三角形の黄色または青色の布でできており、中央にはカンダのシンボルが描かれています。 この旗は、その場所にグルドワーラーがあり、すべての人が歓迎されることを示す目印となります。 旗は高い旗竿に掲げられ、シク教の主権と存在を象徴しています。
シク教美術

シク教の美術は、主にグルの生涯、シク教の歴史上の出来事、そして聖典の教えを描いた細密画の形で発展しました。 19世紀のシク帝国時代、マハラジャ・ランジート・シンの庇護の下で、シク教美術は黄金期を迎えました。 この時代の絵画は、グルの肖像画や、戦闘、宮廷の様子などを鮮やかな色彩と緻密な筆致で描いています。
また、グルドワーラーの建築自体も、重要な芸術表現です。 ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)に見られるように、イスラム建築とラージプート建築の要素を融合させた独自の様式が特徴です。 壁画、象嵌細工、漆喰彫刻などが、寺院の内部を美しく装飾しています。
Tunagari_title
・シク教とは わかりやすい世界史用語2371

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 0 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。