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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

シャー=ジャハーンとは わかりやすい世界史用語2381

著者名: ピアソラ
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シャー=ジャハーンとは

ムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーン(在位1628年-1658年)は、その治世においてムガル建築と文化の頂点を極めた人物として歴史に名を刻んでいます。 彼の本名はシャハブッディーン・ムハンマド・フッラムであり、1592年1月5日に現在のパキスタン、ラホールで生まれました。 皇帝ジャハーンギールとその妻ジャガト・ゴーサーインの三男として生まれた彼は、祖父であるアクバル大帝から「フッラム」(ペルシャ語で「喜び」を意味する)という名を授かり、幼少期から深い愛情を注がれました。 ジャハーンギール帝は、フッラムが他の息子たちとは比較にならないほど優れており、自分の真の息子であると考えていたと述べています。 彼の治世は、壮麗な建築物の建設によって特徴づけられ、その中でも最も有名なものが、愛妃ムムターズ・マハルのために建てられたタージ・マハルです。 しかし、その栄華の裏では、デカン地方での絶え間ない軍事行動、ポルトガルとの衝突、そしてサファヴィー朝との戦争など、多くの対外的な課題に直面していました。 彼の治世の終わりは、息子たちの間での熾烈な後継者争いによって影を落とされ、最終的には三男アウラングゼーブによってアグラ城に幽閉され、1666年1月22日に74歳でその生涯を閉じました。



若き日の皇子時代

皇子フッラムとしてのシャー=ジャハーンの若い頃は、幅広い教養と卓越した軍事的才能によって特徴づけられます。彼は洗練された教育を受け、武術の腕を磨くとともに、父親であるジャハーンギール帝の軍隊の指揮官として数々の戦役でその名を馳せました。 実際に、父の治世における領土拡大の大部分は、彼の功績によるものでした。 早くから軍事的な才能を発揮した彼は、メーワール王国やデカン地方のローディー朝貴族の反乱など、ムガル帝国に対する敵対勢力との戦いに参加しました。 1614年、約20万の兵を率いてラージプートのメーワール王国への攻撃を開始し、1年にわたる消耗戦の末、マハラナ・アマル・シン2世を降伏させ、メーワールをムガル帝国の属国とすることに成功しました。
彼の軍事的な成功は、父であるジャハーンギール帝に深い感銘を与えました。 1617年、デカン地方のローディー家への対応を命じられたフッラムは、帝国の南の国境を確保し、この地域における帝国の支配権を回復するという任務を成功させます。 この功績を称え、ジャハーンギール帝は彼に「シャー=ジャハーン」(ペルシャ語で「世界の王」を意味する)の称号を授けました。 これは、皇太子としての彼の地位を暗黙のうちに認めるものであり、前例のない名誉でした。 さらに、彼の軍事階級は引き上げられ、宮廷での特別な玉座も与えられました。
軍事的な才能に加え、フッラムは建築にも早くから並外れた才能を示していました。 16歳の時には、カーブル城塞内に自身の居住区を建設し、アグラ城内のいくつかの建物を改築するなどして、父帝を感心させました。 この建築への情熱は、後の彼の治世における壮大な建築事業の礎となります。
1607年、15歳の時に、ペルシャ貴族の孫娘であるアルジュマンド・バーヌー・ベーグムと婚約し、1612年に結婚しました。 彼女は後にムムターズ・マハルとして知られるようになります。 彼女の美貌と人柄に深く魅了されたフッラムは、彼女を「宮殿の宝石」を意味するムムターズ・マハルの称号で呼び、生涯にわたって深い愛情を注ぎました。
しかし、彼の皇子としての道は平坦ではありませんでした。父ジャハーンギールの妃ヌール・ジャハーンとその一族が宮廷で大きな影響力を持つようになると、フッラムは自身の後継者としての地位が脅かされていると感じるようになります。 1622年、ヌール・ジャハーンが彼を後継者争いから排除しようとしていると感じた彼は、父に対して反乱を起こしました。 数年間にわたり、彼は帝国中を追われる身となりましたが、1626年に無条件降伏し、父と和解しました。 この反乱と和解の経験は、彼の政治家としての狡猾さと忍耐力を養う一因となったと考えられます。
帝位への道

1627年10月に父であるジャハーンギール帝が崩御すると、ムガル帝国の帝位を巡る争いが本格化しました。 シャー=ジャハーンは、弟のシャフリヤール・ミルザを打ち破り、アグラ城で皇帝として即位しました。 彼は、自身の地位を確固たるものにするため、シャフリヤールをはじめとする多くの帝位請求権者を処刑するという冷徹な決断を下しました。 このようにして、彼は反対勢力を一掃し、帝国の絶対的な支配者としての地位を確立したのです。1628年2月、彼は正式に皇帝として即位し、シャー=ジャハーンと名乗りました。
彼の即位当初、帝国はいくつかの課題に直面していました。 ブンデーラ族のジュジャール・シングによる反乱や、デカン地方のムガル総督であったハーン・ジャハーン・ローディーの反乱など、国内の不安定要因を鎮圧する必要がありました。 シャー=ジャハーンは、これらの反乱に対して断固たる態度で臨み、持ち前の軍事的手腕を発揮して、帝国内の秩序を回復させました。 彼は、アクバル帝以来の領土拡大政策を継承することに意欲的であり、帝国の版図をさらに広げるための軍事行動を積極的に展開していきます。
彼の治世は、ムガル帝国の「黄金時代」と称されることが多いですが、その始まりは、権力基盤を固めるための容赦ない行動と、国内の反乱を鎮圧するための軍事力によって支えられていたのです。 彼は、帝国の安定と繁栄のためには、いかなる犠牲も厭わないという強い意志を持った統治者でした。
軍事遠征と領土拡大

皇帝として即位したシャー=ジャハーンは、祖父アクバルや父ジャハーンギールの方針を引き継ぎ、帝国の領土拡大に積極的に取り組みました。 彼の軍事政策は、特にデカン地方、中央アジア、そして北西辺境地域に焦点を当てていました。彼は有能な軍司令官であり、帝国の安全保障と覇権確立のために、数々の遠征を指揮しました。
デカン政策

シャー=ジャハーンのデカン政策は、アフマドナガル、ビジャープル、ゴールコンダといったデカン・スルターン朝の脅威に対処することを目的としていました。 彼は、これらの王国を併合するか、あるいはムガル帝国の宗主権を認めさせることを目指しました。 デカン地方の政治を熟知していた彼は、軍事力と外交交渉を巧みに組み合わせ、この地域の安定化を図りました。
アフマドナガルの併合は、彼のデカン政策における重要な成果の一つです。アフマドナガルの宰相であったマリク・アンバルの死後、その後継者であるファテープ・ハーンは無能で腐敗しており、国は混乱状態にありました。 シャー=ジャハーンはこの好機を逃さず、アフマドナガルに圧力をかけました。ファテープ・ハーンはスルターンを殺害し、幼いフサイン・シャーを王位に就けるなど、裏切りを繰り返しました。 最終的に1633年、ファテープ・ハーンはフサイン・シャーをムガル側に引き渡し、アフマドナガルはムガル帝国に併合されました。 その後、マラーターの指導者シャハージー・ボーンスレーが一時的に抵抗を続けましたが、1636年には彼も降伏し、アフマドナガルは完全にムガル帝国の支配下に入りました。
アフマドナガルを併合した後、シャー=ジャハーンはビジャープルとゴールコンダに目を向けました。彼は、これらの王国を孤立させることに成功し、1636年に両国と条約を締結しました。 ビジャープルはムガル帝国の宗主権を認め、200万ルピーの賠償金を支払い、ゴールコンダの内政に干渉しないことを約束しました。 ゴールコンダもまた、ムガル皇帝への忠誠を誓い、ペルシャのシャーの名を祈りから除外し、毎年20万フンの貢物を支払うことに同意しました。 これらの条約により、デカン地方には約20年間の平和がもたらされ、ムガル帝国はこの地域における覇権を確立しました。
シャー=ジャハーンは、三男のアウラングゼーブをデカン地方の総督に任命しました。 アウラングゼーブは、その在任中にバグラーナを征服するなど、父の政策を忠実に実行しました。 シャー=ジャハーンのデカン政策は、帝国の南の国境を安定させ、その後の帝国の発展の基礎を築く上で大きな成功を収めたと言えます。
中央アジアへの遠征

シャー=ジャハーンは、ティムール朝の栄光を取り戻すという野心から、中央アジアへの遠征を計画しました。 彼の主な目標は、ムガル帝国の発祥の地であり、先祖の地でもあるトランスオクシアナ地方を征服することでした。 1646年から1647年にかけて、彼はブハラ・ハン国に対して軍を派遣し、バルフとバダフシャーンの地を一時的に占領しました。
この遠征は、バルフの支配者ナズル・ムハンマドが息子の反乱に遭い、シャー=ジャハーンに助けを求めたことがきっかけでした。 シャー=ジャハーンはこれを好機と捉え、皇子ムラード・バフシュに5万の騎兵と1万の歩兵からなる大軍を率いさせて派遣しました。 ムガル軍は当初、軍事的な成功を収め、バルフを占領し、ウズベク軍の反撃を退けました。 これは、インドの軍隊がこの地域で収めた最初の重要な勝利であり、ムガル軍の威信を高めました。
しかし、この勝利は長続きしませんでした。皇子ムラード・バフシュは中央アジアの厳しい気候と不毛な土地に不満を抱き、シャー=ジャハーンの命令に反して帰国してしまいました。 その後、アウラングゼーブが指揮を引き継ぎ、ウズベク軍を再度破りましたが、占領地を維持することは困難でした。 現地住民の非協力的な態度、ペルシャの敵意、そして厳しい自然環境などが、ムガル軍の長期駐留を阻みました。
最終的に、シャー=ジャハーンは、この遠征が実りのないものであると判断し、軍を撤退させました。 バルフとバダフシャーンは再びブハラ・ハン国の支配下に戻りました。 この遠征には4,000万ルピーという莫大な費用がかかりましたが、得られた収入はわずか225万ルピーに過ぎず、帝国財政に大きな負担をかけました。 また、多くの兵士が厳しい峠越えで命を落としました。 この失敗は、シャー=ジャハーンに先祖の地を回復するという夢を諦めさせ、その後のムガル帝国の中央アジア政策に大きな影響を与えました。
サファヴィー朝との関係とカンダハールの喪失

ムガル帝国と西隣のサファヴィー朝ペルシャとの関係は、シャー=ジャハーンの治世を通じて複雑なものでした。両帝国は、ウズベク族という共通の敵に対して協力することもあれば、戦略的・経済的に重要な都市カンダハールの領有権を巡って対立することもありました。
シャー=ジャハーンの治世初期、両国の関係は友好的に見えました。 しかし、サファヴィー朝がシャー=ジャハーンの即位に反対する皇族を保護したことや、ムガル帝国がサファヴィー朝と友好関係にあったインドの小王国を征服したことなどから、両国の間には次第に緊張が高まっていきました。
対立の最大の焦点はカンダハールでした。この都市は、カーブル防衛の要であり、中央アジアとインドを結ぶ交易路の結節点に位置するため、両帝国にとって極めて重要な戦略的拠点でした。 1638年、シャー=ジャハーンは、サファヴィー朝のカンダハール総督であったアリー・マルダーン・ハーンが離反した機会を捉え、兵を送らずしてこの都市を支配下に置くことに成功しました。 これはシャー=ジャハーンにとって大きな外交的勝利でした。
しかし、この成功は長くは続きませんでした。1649年、サファヴィー朝のシャー・アッバース2世は、ムガル帝国が中央アジア遠征で苦戦している隙をついてカンダハールを奪還しました。 シャー=ジャハーンは、この失地を回復するために、1649年、1652年、1653年と三度にわたって大規模な軍隊を派遣しましたが、いずれの奪還作戦も失敗に終わりました。 これらの遠征は、帝国財政を著しく圧迫し、帝国の軍事力の限界を露呈させる結果となりました。 カンダハールの喪失は、シャー=ジャハーンの治世における最大の軍事的失敗の一つと見なされています。
ポルトガルとの紛争

シャー=ジャハーンの治世において、ムガル帝国とインドにおけるヨーロッパ勢力との関係も変化しました。特にポルトガルとの関係は、商業的な競争と宗教的な対立から急速に悪化しました。
ポルトガルは、16世紀初頭からインドに進出し、ゴアを拠点に海上帝国を築いていました。ベンガル地方のフーグリーには、アクバル帝の時代に許可を得て商館を設置していましたが、次第にその活動は商業の範囲を超え、奴隷貿易、海賊行為、そして強制的な改宗を伴う宣教活動にまで及ぶようになりました。 これらの活動は、ムガル帝国の役人や地元住民との間に深刻な摩擦を生み出していました。
シャー=ジャハーンは、ポルトガル人がフーグリーで違法行為を繰り返し、ムガル帝国の許可なく要塞を築き、関税の支払いを拒否していることに憤慨しました。 特に、ポルトガル人がイスラム教徒やヒンドゥー教徒を拉致し、強制的にキリスト教に改宗させているという報告は、彼の怒りを増幅させました。
1631年、シャー=ジャハーンはベンガル総督であったカーシム・ハーンに対し、フーグリーからポルトガル人を追放するよう命じました。 1632年、カーシム・ハーン率いるムガル軍はフーグリーを包囲しました。 ポルトガル側は、大砲や軍艦で武装していましたが、数ヶ月にわたる攻防の末、ムガル軍の圧倒的な兵力の前に敗北しました。 この戦いで多くのポルトガル人が殺害され、数百人が捕虜としてアグラへ送られました。
このフーグリーでの勝利は、ベンガル沿岸におけるムガル帝国の権威を確立し、ヨーロッパ勢力の干渉に対する帝国の強い懸念を示す出来事となりました。 シャー=ジャハーンは、帝国の主権を脅かすいかなる勢力にも容赦しないという断固たる姿勢を示したのです。その後、ポルトガルはインド副王の仲介により、翌年にはベンガルでの再定住を許可されましたが、その勢力は大きく削がれることになりました。
建築の庇護者

シャー=ジャハーンの治世は、しばしば「ムガル建築の黄金時代」と称されます。 彼は、歴史上最も偉大な建築の庇護者の一人として知られており、その情熱と財力によって、数々の壮麗な建造物を後世に残しました。 彼の建築事業は、帝国の権威と富を誇示すると同時に、彼自身の美意識と信仰心を反映したものでした。彼の建築様式は、白大理石の多用、左右対称の構造、そして精緻な装飾などを特徴とし、ペルシャ、インド、イスラムの建築様式が融合した独自のスタイルを確立しました。
タージ・マハル

シャー=ジャハーンが残した建築物の中で、最も有名で世界的に知られているのが、アグラにあるタージ・マハルです。 これは、彼が深く愛した妃ムムターズ・マハルの霊廟として建設されました。 ムムターズ・マハルは、1631年に14番目の子供を出産した際に亡くなり、シャー=ジャハーンはその死を深く悼みました。 彼女の死後、皇帝は1年間喪に服し、その悲しみのあまり髪は白くなり、背中は丸くなったと伝えられています。
タージ・マハルの建設は1631年頃に始まり、霊廟本体は約20年の歳月をかけて1648年に完成しました。 その後も周囲の建物や庭園の建設が続けられ、複合施設全体が完成したのは1653年でした。 この壮大なプロジェクトには、帝国中から、さらには中央アジアやイランからも、2万人以上の職人や労働者が動員されたと言われています。 建設には、インド各地やアジア中から最高級の資材が集められました。 純白の大理石はラージャスターン地方のマクラーナから、碧玉はパンジャーブから、翡翠や水晶は中国から、トルコ石はチベットから、サファイアはスリランカから運ばれました。
タージ・マハルは、単なる霊廟ではなく、庭園、モスク、迎賓館などを備えた統合された複合施設として設計されています。 その設計は、ムガル建築の伝統に基づき、完璧な対称性と調和を追求しています。 中央にそびえる白大理石のドーム、四隅に配されたミナレット(尖塔)、そして壁面に施された精緻な象嵌細工(ピエトラ・ドゥーラ)は、見る者を圧倒する美しさを誇ります。 この建築は、ムムターズ・マハルへの愛の証であると同時に、天上の楽園を地上に再現しようとしたシャー=ジャハーンの信仰心の表れでもありました。
デリーの赤い城(ラール・キラー)とシャー・ジャハーナーバード

シャー=ジャハーンは、1648年に帝国の首都をアグラからデリーに移し、そこに新しい都市シャー・ジャハーナーバード(現在のオールド・デリー)を建設しました。 この新首都の中心に築かれたのが、赤い城(ラール・キラー)として知られる巨大な城塞宮殿です。
赤い城は、その名の通り、赤い砂岩で築かれた壮大な城壁に囲まれており、ムガル皇帝の居城として約200年間にわたって使用されました。 城内には、公的謁見の間(ディーワーネ・アーム)や私的謁見の間(ディーワーネ・ハース)など、華麗な装飾が施された数々の建物が配置されています。 特にディーワーネ・ハースは、かつて世界で最も豪華な宝飾品の一つと言われた「孔雀の玉座」が置かれていた場所として有名です。 この玉座は、後にペルシャのナーディル・シャーによって持ち去られました。
シャー・ジャハーナーバードの都市計画は、整然とした街路、壮大なモスク、そして豊かな庭園などを特徴とし、当時の都市計画の粋を集めたものでした。シャー=ジャハーンは、この新首都の建設を通じて、自身の理想とする帝国の姿を具現化しようとしたのです。
その他の建築物

シャー=ジャハーンの建築への情熱は、タージ・マハルや赤い城だけに留まりませんでした。彼は、帝国各地に数多くのモスク、宮殿、庭園、そして墓廟を建設しました。
その中には、デリーにあるインド最大級のモスクであるジャーマー・マスジド、アグラ城内の真珠モスク(モーティー・マスジド)、ラホールにあるシャーリマール庭園、そしてパキスタンのタッターにあるシャー=ジャハーン・モスクなどが含まれます。 また、父ジャハーンギールの墓廟の建設も、彼の義母であるヌール・ジャハーンの監督のもとで行われました。 これらの建築物は、いずれもムガル建築の傑作として高く評価されており、シャー=ジャハーンが「建築家の王」や「建設者の皇子」と呼ばれる所以となっています。 彼の治世は、まさにムガル建築がその頂点に達した時代であり、その遺産は今日もなお、多くの人々を魅了し続けています。
宮廷文化と芸術

シャー=ジャハーンの治世は、建築だけでなく、絵画、文学、音楽といった様々な芸術分野においても、ムガル文化が爛熟期を迎えた時代でした。 彼の宮廷は、壮麗さと洗練の極みに達し、インド全土やペルシャから多くの芸術家、詩人、音楽家、学者たちが集まる文化の中心地となりました。
絵画と工芸

ムガル絵画は、シャー=ジャハーンの時代にその様式を完成させました。細密画は、より形式的で写実的な表現へと変化し、宮廷の儀式、肖像画、あるいは神秘的な主題などが、鮮やかな色彩と精緻な筆致で描かれました。 皇帝自身が芸術の熱心な庇護者であり、彼の工房では最高品質の絵画が制作されました。また、彼の宝石コレクションは、おそらく当時世界で最も壮麗なものであったと言われています。 金工、玉細工、織物などの工芸品も、この時代に技術的な頂点を迎え、宮廷の華やかさを彩りました。
文学と学問

シャー=ジャハーンの宮廷は、文学活動の中心地でもありました。 ペルシャ語とウルドゥー語の詩が栄え、多くの著名な詩人が皇帝の庇護を受けました。 皇帝自身も詩を嗜み、「シャフリヤール」という筆名で詩作を行ったとされています。
この時代の文化的な活動において特筆すべきは、シャー=ジャハーンの長男であり、皇太子であったダーラー・シコーの役割です。 ダーラー・シコーは、イスラム教とヒンドゥー教の融和に関心を持つリベラルな思想の持ち主でした。 彼は、ヒンドゥー教の聖典であるウパニシャッドをペルシャ語に翻訳させ、自らも二つの宗教の調和を探求する著作『マジュマ・ウル・バフライン』(二つの海の合流)を著しました。 また、彼はサンスクリット語の学者やヒンドゥー教の思想家たちとも積極的に交流しました。 彼のこうした活動は、シャー=ジャハーンの宮廷における知的な多様性と、異文化への寛容な精神を象徴しています。
宗教政策

シャー=ジャハーンの宗教政策は、彼の治世を通じて変化を見せ、一概に評価することは困難です。彼はスンニ派の敬虔なイスラム教徒であり、その政策にはイスラム教を優遇する側面が見られました。
治世の初期には、父ジャハーンギールの時代に建設が始まった未完成のヒンドゥー教寺院の破壊を命じるなど、より正統派的なイスラム教の立場を鮮明にしました。 また、イスラム教徒の女性と結婚したヒンドゥー教徒にイスラム教への改宗を強制したり、イスラム教への改宗を奨励する政策をとったりしたことも記録されています。 ポルトガルとの戦争の際には、アグラの教会が破壊されました。 これらの政策は、祖父アクバルや父ジャハーンギールが推し進めた宗教的寛容策からの後退を示すものと見なされることがあります。
しかし一方で、シャー=ジャハーンの政策は、単純な不寛容とは言えません。彼は、即位以前から存在していたヒンドゥー教寺院の存続を認め、後には寺院の修復を許可することもありました。 例えば、グジャラートのジャイナ教商人シャンティダースが建てた寺院は、一時アウラングゼーブによってモスクに変えられましたが、シャー=ジャハーンは後にこれを寺院として返還しています。 また、彼はヒンドゥー教の儀式であるジャローカー・ダルシャン(皇帝がバルコニーから民衆に姿を見せる儀式)やトゥーラー・ダーン(皇帝の体重と同じ重さの金品を施す儀式)を続けました。
彼の宮廷では、カヴィーンドラ・アーチャーリヤ・サラスヴァティーやスンダル・ダースといったヒンドゥー教学者も庇護を受けていました。 彼の治世後期になると、イスラム教への熱意は徐々に和らぎ、初期の厳格な政策の多くは実施されなくなったと言われています。 この変化の背景には、長男ダーラー・シコーや長女ジャハーナーラーの持つリベラルな思想の影響や、ヒンドゥー教徒の貴族たちの忠誠心を確保する必要性があったと考えられます。
総じて、シャー=ジャハーンの宗教政策は、イスラム教の優位性を保ちつつも、帝国の安定を維持するために現実的な対応をとるという、二面性を持っていたと言えるでしょう。彼の政策は、アクバルほどの寛容さはありませんでしたが、後に皇帝となるアウラングゼーブほどの厳格さもありませんでした。
経済と行政

シャー=ジャハーンの治世は、一般的にムガル帝国の平和と繁栄の時代と見なされています。 彼の統治下で、商業と貿易は栄え、帝国の富は増大しました。 安定した中央集権的な行政システムが帝国の隅々まで支配を及ぼし、経済活動の活発化を支えました。
彼の軍隊は、歩兵、砲兵、騎兵を合わせて大規模なものであり、帝国の力を内外に示していました。 彼は、帝国の各地に息子たちを総督として配置し、広大な領土を効率的に統治しようとしました。
しかし、その栄華には大きな代償が伴いました。壮大な建築事業や、中央アジアやカンダハールへの度重なる軍事遠征は、帝国財政に深刻な負担をかけました。 特に、成果の上がらなかった遠征は、国庫を破産の危機に瀕させたと指摘されています。 また、1630年から1632年にかけてデカン地方を襲った大飢饉は、多くの人々の命を奪い、経済に大きな打撃を与えました。
シャー=ジャハーンの宮廷の壮麗さと、彼の治世における文化的な成果は、帝国の繁栄を象徴するものでしたが、その一方で、過度の浪費と非生産的な軍事行動は、後に帝国が衰退していく遠因を作ったとも評価されています。 彼の治世は、ムガル帝国の栄光の頂点であると同時に、その後の衰退の兆しを内包していた時代でもあったのです。
後継者争いと幽閉

シャー=ジャハーンの治世の晩年は、息子たちの間で繰り広げられた血なまぐさい後継者争いによって、悲劇的な結末を迎えます。1657年9月、シャー=ジャハーンが重い病に倒れたことが、この争いの引き金となりました。
彼には4人の息子がいました。長男でリベラルな思想を持つダーラー・シコー、次男でベンガル総督のシャー・シュジャー、三男でデカン総督のアウラングゼーブ、そして四男でグジャラート総督のムラード・バフシュです。 シャー=ジャハーンは、長男のダーラー・シコーを後継者に指名しましたが、この決定は他の息子たちの強い反発を招きました。
特に野心的で軍事的手腕に長けた三男のアウラングゼーブは、弟のムラード・バフシュと手を組み、ダーラー・シコーに対抗しました。 彼はイスラム教の正統派の支持を取り付け、ダーラー・シコーの宗教的寛容さを異端であると非難しました。 1658年、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は、アグラ近郊のサムーガルでダーラー・シコーの軍隊を打ち破りました。
この時までにシャー=ジャハーンは病から回復していましたが、勝利を収めたアウラングゼーブは、父を統治能力なしと断じ、アグラ城に幽閉しました。 1658年7月のことでした。 アウラングゼーブはその後、兄弟たちを次々と打ち破り、処刑しました。 皇太子であったダーラー・シコーも捕らえられ、1659年に処刑されました。 こうして、アウラングゼーブはムガル帝国第6代皇帝として即位し、帝国の全権を掌握したのです。
シャー=ジャハーンは、かつて自らが壮麗に飾り立てたアグラ城の一室に閉じ込められ、残りの8年間を過ごすことになりました。 彼の幽閉生活には、長女のジャハーナーラー・ベーグムが付き添い、父の看病を続けました。 彼は、幽閉されていた部屋の窓から、ヤムナー川の対岸に建つ、愛妃ムムターズ・マハルの眠るタージ・マハルを眺めて日々を過ごしたと伝えられています。
死と遺産

1666年1月、シャー=ジャハーンは再び病に倒れ、その容態は日に日に悪化していきました。 1月22日、彼は宮廷の女性たち、特に晩年の妃であったアクバラーバーディー・マハルを娘のジャハーナーラーに託した後、イスラム教の信仰告白(カリマ)とコーランの一節を唱え、74歳でその生涯を閉じました。
かつてインド全土を支配した偉大な皇帝は、囚人として寂しくこの世を去りました。 娘のジャハーナーラーは、父のために盛大な国葬を計画しましたが、皇帝となっていたアウラングゼーブは、そのような華美な儀式を許可しませんでした。 シャー=ジャハーンの遺体は、二人の従者によって静かに運び出され、沐浴と埋葬の準備がなされた後、白檀の棺に納められました。 そして、川を通ってタージ・マハルへと運ばれ、彼が愛し続けた妻ムムターズ・マハルの隣に埋葬されました。
シャー=ジャハーンの死は、ムガル帝国の黄金時代の終わりを告げるものでした。 彼の治世は、建築、芸術、文化が頂点に達した輝かしい時代であり、その遺産は計り知れません。 タージ・マハルをはじめとする彼が残した数々の建築物は、今日でも世界中の人々を魅了し、ユネスコの世界遺産にも登録されています。 彼の宮廷で花開いた文化は、インドの芸術と文学に永続的な影響を与えました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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