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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

パーニーパットの戦いとは わかりやすい世界史用語2363

著者名: ピアソラ
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第一次パーニーパットの戦いとは

1526年4月21日に行われた第一次パーニーパットの戦いは、中央アジアから侵攻したバーブルの軍隊と、デリー・スルターン朝の最後の支配者であるイブラーヒーム・ローディーの軍隊との間で繰り広げられました。 この戦いは、インドにおけるムガル帝国の幕開けを告げる画期的な出来事となりました。

背景:ムガル帝国の黎明

戦いの主役であるバーブルは、父方をティムール朝、母方をチンギス・カンに遡る高貴な血筋を引いていました。 彼は現在のウズベキスタンにあたるフェルガナ地方の小君主でしたが、中央アジアでの権力争いに敗れ、故郷を追われる身となります。 新たな拠点を求めたバーブルは、1504年にアフガニスタンのカーブルを征服し、そこを足掛かりに南方のインドへと目を向けました。
一方、当時の北インドは、アフガン系のローディー朝が支配するデリー・スルターン朝の治世下にありました。 しかし、スルターンのイブラーヒーム・ローディーは権威主義的な統治スタイルで多くの貴族や地方総督の反感を買い、国内は不満と分裂の危機に瀕していました。 パンジャーブ総督のダウラト・ハーン・ローディーや、イブラーヒームの叔父であるアーラム・ハーンといった有力者たちが、スルターンを打倒するためにバーブルにインド侵攻を要請したのです。
この好機を捉えたバーブルは、1525年後半にインダス川を渡り、パンジャーブ地方へと進軍しました。 彼の軍隊はわずか1万2000人程度と推定されており、10万人ともいわれるイブラーヒーム・ローディーの大軍に比べ、数では圧倒的に劣勢でした。 しかし、バーブル軍は経験豊富な指揮官に率いられ、大砲や火縄銃といった火薬兵器を装備しており、これが戦いの行方を決定づけることになります。



戦闘の経過:新戦術の導入

パーニーパットの平原で対峙した両軍は、数日間のにらみ合いの後、ついに激突しました。 バーブルは、オスマン帝国で用いられていた先進的な戦術を巧みに応用しました。 彼は700台の荷車を革紐で連結して防衛線を築き、その隙間に大砲や火縄銃兵を配置しました。 この「アラーバ」と呼ばれる陣形は、敵の突撃を防ぐ強固な砦として機能しました。さらに、荷車の列には数か所の開口部が設けられ、そこから自軍の騎兵が打って出ることができるようになっていました。
バーブルはまた、「トゥルグマ」と呼ばれる包囲戦術を用いました。 これは、軍を中央、右翼、左翼、そして予備隊に分け、敵軍の側面と背後を騎馬弓兵部隊で襲撃するというものです。
イブラーヒーム・ローディー軍が攻撃を開始すると、バーブルが構築した狭い前面に対して大軍を効果的に展開できず、混乱に陥りました。 バーブル軍の中央に配置された大砲と火縄銃がローディー軍の正面に猛烈な砲火を浴びせ、同時に騎馬弓兵部隊が側面と後方から攻撃を仕掛けました。 大砲の轟音は、これまで経験したことのないものであり、ローディー軍の戦象を驚かせ、パニックに陥った象は自軍の兵士を踏みつけて逃走し、さらなる混乱を引き起こしました。
バーブルの巧みな戦術の前に、ローディー軍はなすすべもなく崩壊しました。戦闘はわずか半日で終結し、イブラーヒーム・ローディーは2万人の兵士と共に戦死しました。 この勝利により、バーブルはデリーとアーグラを占領し、ローディー朝は滅亡しました。

第一次パーニーパットの戦いの影響

第一次パーニーパットの戦いは、単なる一戦闘の勝利にとどまらず、インド史に多大な影響を及ぼしました。
第一に、この戦いはムガル帝国の建国を決定づけました。 バーブルはデリー・スルターン朝に取って代わり、北インドに新たな支配体制を築き上げました。 この帝国は、その後300年以上にわたってインド亜大陸の大部分を支配し、政治、経済、文化の各方面に大きな足跡を残すことになります。
第二に、火薬兵器の有効性をインド亜大陸で初めて大規模に証明した戦いでした。 大砲と火縄銃の導入は、インドの戦争のあり方を一変させ、その後の軍事技術の発展に大きな影響を与えました。 この戦いを契機に、ムガル帝国はオスマン帝国やサファヴィー朝ペルシャと並ぶ「火薬帝国」の一つとして認識されるようになります。
第三に、この勝利はバーブルの支配を盤石なものにしましたが、彼の前にはまだ多くの敵が立ちはだかっていました。特に、ラージプートの有力な指導者であったメーワール王国のラナ・サンガは、バーブルにとって大きな脅威でした。 バーブルは翌1527年、カーヌワーの戦いでラナ・サンガ率いるラージプート連合軍をも破り、北インドにおける覇権を確固たるものにしました。
第一次パーニーパットの戦いは、数で劣る軍隊が、優れた戦術と新技術を駆使していかにして大軍を打ち破ることができるかを示した好例です。バーブルの勝利は、インド史における新たな時代の到来を告げ、その後何世紀にもわたるムガル帝国の繁栄の礎を築いたのです。

第二次パーニーパットの戦い(1556年)

1556年11月5日に行われた第二次パーニーパットの戦いは、若きムガル皇帝アクバルと、ヒンドゥー教徒の将軍ヘームーとの間で戦われました。 この戦いは、一度は失われかけたムガル帝国の支配を再確立し、アクバルの長期にわたる偉大な治世の始まりを告げる重要な戦いとなりました。

背景:ムガル帝国の危機

第一次パーニーパットの戦いでムガル帝国を建国したバーブルは1530年に亡くなり、その息子のフマーユーンが後を継ぎました。 しかし、フマーユーンの治世は不安定で、スール朝を興したシェール・シャー・スーリーとの戦いに敗れ、ペルシャへの亡命を余儀なくされます。 1555年、フマーユーンはペルシャの支援を得てデリーを奪還し、ムガル帝国の支配を取り戻しますが、そのわずか数か月後に事故で急死してしまいます。
フマーユーンの死により、ムガル帝国は再び危機に陥りました。後継者であるアクバルはまだ13歳であり、その若さゆえに統治能力を疑問視されていました。 この混乱に乗じて台頭したのが、スール朝の宰相であったヘームーでした。 彼は「ヴィクラマージティヤ」の称号を名乗り、ムガル勢力をインドから駆逐することを目指しました。ヘームーは強力な軍隊を率いてアーグラを征服し、デリーへと進軍しました。
フマーユーンの死の報せが届いたとき、アクバルは摂政であるバイラム・ハーンと共にパンジャーブ地方にいました。 多くの臣下がカーブルへの撤退を進言する中、バイラム・ハーンは断固としてデリー奪還を主張し、軍を再編成してパーニーパットへと向かいました。 こうして、ムガル帝国の運命を賭けた戦いの火蓋が切られることになったのです。

戦闘の経過:運命を決めた一矢

パーニーパットで対峙した両軍の兵力には大きな差がありました。ヘームー軍は数でムガル軍を上回り、強力な戦象部隊を擁していました。一方、アクバル軍はバイラム・ハーンの指揮の下、結束力と戦術に優れていました。
戦闘が始まると、ヘームー軍の戦象部隊がムガル軍の側面を突き崩し、戦況はヘームー優位に進みました。ムガル軍は混乱に陥り、敗北寸前まで追い込まれます。しかし、戦いの流れは予期せぬ形で変わります。ムガル軍の弓兵が放った一本の矢が、象に乗って指揮を執っていたヘームーの目に偶然命中したのです。
指導者を失ったヘームー軍は統制を失い、混乱状態に陥りました。 この好機を逃さず、バイラム・ハーンは総攻撃を命じ、ムガル軍は勝利を収めました。ヘームーは捕らえられ、処刑されました。

第二次パーニーパットの戦いの影響

第二次パーニーパットの戦いは、ムガル帝国の歴史において極めて重要な意味を持ちます。
第一に、この勝利によってムガル帝国は存続の危機を脱し、北インドにおける支配権を確固たるものにしました。 スール朝の脅威は完全に取り除かれ、アクバルは名実ともにインドの支配者としての地位を固めました。 この戦いの後、ムガル軍はデリーとアーグラを占領し、アクバルは凱旋を果たしました。
第二に、この戦いはアクバルの長期にわたる偉大な治世の出発点となりました。 若き皇帝はこの勝利を足掛かりに、次々と領土を拡大し、帝国を盤石なものにしていきます。 アクバルは軍事的な征服だけでなく、巧みな外交政策や寛容な宗教政策を通じて、多様な民族や宗教を抱える広大な帝国を巧みに統治しました。 彼はラージプートの諸侯と同盟を結び、彼らを帝国の高い地位に取り立てることで、支配体制を安定させました。 また、非イスラム教徒に課せられていたジズヤ(人頭税)を廃止するなど、宗教的寛容策を推し進め、幅広い層からの支持を得ました。
第三に、この戦いは、指導者の存在が戦闘の帰趨にいかに重要であるかを改めて示しました。ヘームーという卓越した指導者を失ったことで、数で勝る軍隊がいとも簡単に崩壊してしまったのです。
第二次パーニーパットの戦いは、単なる軍事的な勝利以上の意味を持つ出来事でした。それは、崩壊の危機にあったムガル帝国を救い、アクバルという偉大な皇帝の下で、帝国がその黄金時代を迎えるための礎を築いた戦いだったのです。 この勝利がなければ、インドの歴史は大きく異なる道を歩んでいたかもしれません。

第三次パーニーパットの戦い(1761年)

1761年1月14日に行われた第三次パーニーパットの戦いは、18世紀のインドで最も大規模かつ決定的な戦闘の一つです。 この戦いは、当時インド亜大陸で最も有力な勢力であったマラーター同盟と、アフガニスタンから侵攻してきたドゥッラーニー朝のアフマド・シャー・ドゥッラーニー率いる連合軍との間で戦われました。 この戦いは、マラーター同盟の拡大に終止符を打ち、インドの勢力図を根底から覆す結果をもたらしました。

背景:二大勢力の衝突

18世紀半ば、ムガル帝国はアウラングゼーブ帝の死後、急速に衰退の一途をたどっていました。 この権力の空白を埋めるように台頭したのが、西インドを拠点とするヒンドゥー教徒の戦士集団、マラーター同盟でした。 彼らは優れた軍事力と巧みなゲリラ戦術を駆使し、ムガル帝国の領土を次々と侵食していきました。 1750年代には、マラーターの勢力はインド亜大陸のほぼ全域に及び、デリーを事実上支配下に置き、その影響力は北西のパンジャーブ地方にまで達していました。
一方、アフガニスタンでは、ナーディル・シャーの暗殺後にアフマド・シャー・ドゥッラーニーが台頭し、1747年にドゥッラーニー朝を建国しました。 アフマド・シャーは野心的な君主であり、インドの富を狙って何度も侵攻を繰り返していました。 1757年にはデリーを略奪し、ムガル皇帝にアフガンへの宗主権を認めさせています。
マラーターがパンジャーブ地方からアフマド・シャーの息子ティムール・シャーを追放し、同地を支配下に置いたことで、両者の対立は決定的となりました。 自らの勢力圏を脅かされたアフマド・シャーは、マラーターを討伐するため、大規模な軍隊を率いて再びインドに侵攻しました。 彼は、ローヒラー族のアフガン人指導者ナジーブ・ウッダウラや、アワド太守のシュジャー・ウッダウラといったインドのイスラム教徒の有力者たちを味方につけ、反マラーター連合を結成しました。
これに対し、マラーター同盟の宰相(ペーシュワー)であるバーラージー・バージー・ラーオは、従兄弟のサダーシヴラーオ・バーウを総司令官とする大軍を北インドへ派遣しました。 当初、マラーター軍にはジャート族の指導者スーラジ・マルなども加わっていましたが、マラーター側の傲慢な態度や宗教的な対立から、ラージプートやシク教徒、ジャート族といった他のヒンドゥー勢力からの十分な支援を得ることはできませんでした。
両軍は数ヶ月にわたって対峙し、小競り合いを繰り返した後、ついにパーニーパットの地で決戦の時を迎えました。マラーター軍は食料補給路をアフガン軍に断たれ、飢餓に苦しむ状況に追い込まれていました。

戦闘の経過:史上最も血なまぐさい一日

1761年1月14日の朝、追い詰められたマラーター軍が攻撃を開始し、戦闘の火蓋が切られました。 戦闘は熾烈を極め、一進一退の攻防が続きました。マラーター軍はフランス式の訓練を受けた砲兵隊と強力な騎兵隊を擁していましたが、対するアフガン連合軍は、重装騎兵と「ザンブーラク」(ラクダに搭載された旋回砲)や「ジェザイル」(長銃身の火縄銃)といった移動式の砲兵部隊で対抗しました。
戦闘の転機は午後に訪れました。マラーター軍の若き司令官であり、ペーシュワーの息子であったヴィシュヴァース・ラーオが銃弾に当たって戦死したのです。 この悲報はマラーター軍の士気を打ち砕きました。さらに、総司令官のサダーシヴラーオ・バーウも混乱の中で行方不明となり、指揮系統は完全に崩壊しました。
この好機を逃さず、アフマド・シャーは温存していた予備兵力を投入し、総攻撃をかけました。 統制を失ったマラーター軍は総崩れとなり、戦場は一方的な殺戮の場と化しました。 アフガン軍は逃げるマラーター兵を容赦なく追撃し、戦闘後も数日間にわたって虐殺が続きました。 戦闘当日の死者だけでも数万人にのぼり、捕虜となった約4万人のマラーター兵士も翌日冷酷に処刑されたと記録されています。 この戦いによるマラーター側の犠牲者は、兵士と非戦闘員を合わせて6万人から7万人に達したと推定されており、18世紀の戦闘としては類を見ない甚大な被害となりました。

第三次パーニーパットの戦いの影響

第三次パーニーパットの戦いは、インドの歴史に深刻かつ長期的な影響を及ぼしました。
第一に、マラーター同盟にとって壊滅的な敗北でした。 この戦いで多くの有能な指導者と兵士を失ったマラーターは、その勢力を大きく後退させました。 北インドにおけるマラーターの覇権は一時的に終わりを告げ、帝国の拡大は停滞しました。 この敗北の衝撃は、宰相バーラージー・バージー・ラーオの死期を早めたとも言われています。 マラーター同盟はその後、内部対立とリーダーシップの欠如に苦しみ、徐々に分裂していきます。
第二に、この戦いはインドにおける権力の空白を生み出しました。勝利したアフマド・シャー・ドゥッラーニーでしたが、彼もまた大きな損害を被り、またアフガニスタン本国での反乱もあり、インドに長くとどまることはありませんでした。 彼はムガル皇帝シャー・アーラム2世を名目上の支配者としてデリーに復位させ、アフガニスタンへと帰還しました。 一方で、敗れたマラーターもすぐには北インドでの影響力を回復できませんでした。この結果、インドの主要な二大勢力が共に弱体化し、新たな勢力が台頭する余地が生まれたのです。
第三に、この権力の空白は、最終的にイギリス東インド会社がインドでの影響力を拡大する絶好の機会となりました。 マラーターという強力なライバルが弱体化したことで、イギリスはインドの政治に介入しやすくなり、最終的にはインド全土を植民地化する道筋がつけられました。 その意味で、第三次パーニーパットの戦いは、インドにおけるイギリス支配の遠因になったと評価されています。
マラーター同盟は、この敗北から約10年後、ペーシュワーのマダヴ・ラーオ1世の下で勢力を回復し、1771年には再びデリーを支配下に置きます。 しかし、パーニーパットでの損失はあまりにも大きく、かつてのような圧倒的な勢いを取り戻すことはできませんでした。 内部の不和と、台頭するイギリスとの度重なる戦争(アングロ・マラーター戦争)の末、マラーター同盟は19世紀初頭に完全に崩壊します。
第三次パーニーパットの戦いは、マラーター帝国の夢を打ち砕き、ムガル帝国の無力さを露呈させ、そしてイギリスによるインド支配への扉を開いた、インド史の大きな分水嶺となる戦いでした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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