新規登録 ログイン

18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

人頭税(ジズヤ)の復活とは わかりやすい世界史用語2384

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
人頭税(ジズヤ)の復活とは

ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブは、その治世においてイスラム教に基づく政策を数多く実施しました。その中でも特に議論を呼ぶのが、1679年に行われたジズヤの復活です。ジズヤとは、イスラム国家において非イスラム教徒の成人男性に課される人頭税であり、その支払いの見返りとして、彼らは生命、財産、信仰の自由を保障され、兵役も免除されました。この税は、イスラム法(シャリーア)に規定されており、イスラム世界の多くの地域で歴史的に施行されてきました。インドにおいても、デリー・スルターン朝時代から存在していましたが、ムガル帝国第3代皇帝アクバルは、1564年に宗教的寛容政策の一環としてジズヤを廃止しました。このアクバルの決定は、帝国内の大多数を占めるヒンドゥー教徒との融和を図り、帝国の統合を促進する上で画期的な出来事として評価されています。しかし、その約1世紀後、アウラングゼーブはアクバルの政策を覆し、ジズヤを再び導入しました。この決定は、インド史における大きな転換点と見なされており、その動機、目的、そして帝国に与えた影響について、歴史家の間でも長年にわたり活発な議論が交わされてきました。
アウラングゼーブによるジズヤ復活の背景を理解するためには、彼自身の個人的な信仰心と、当時のムガル帝国が直面していた政治的・経済的状況を多角的に考察する必要があります。アウラングゼーブは、敬虔なスンニ派イスラム教徒として知られ、イスラム法を国家統治の基本原則とすることを重視していました。彼の治世では、宮廷での音楽や舞踊の禁止、飲酒や賭博の取り締まり強化など、イスラムの教えに沿った政策が次々と打ち出されました。このような文脈において、ジズヤの復活は、イスラム国家としての本来あるべき姿を取り戻そうとするアウラングゼーブの宗教的情熱の現れであったと解釈することができます。彼にとって、シャリーアに定められた税を復活させることは、神の法を地上で実現するという統治者としての宗教的義務を果たす行為であったと考えられます。
一方で、ジズヤ復活の動機を宗教的な側面だけで説明することはできません。当時のムガル帝国は、財政的な困難に直面していました。アウラングゼーブの治世は、デカン地方におけるマラーター王国との長期にわたる戦争や、その他各地での反乱によって特徴づけられます。絶え間ない軍事行動は国家財政を著しく圧迫し、新たな財源の確保が急務となっていました。ジズヤは、帝国の人口の大多数を占める非イスラム教徒から安定した税収を得るための有効な手段と見なされた可能性があります。税収の増加を目的としたという見方は、ジズヤ復活の現実的な側面を浮き彫りにします。
さらに、政治的な動機も無視できません。アウラングゼーブは、イスラム法学者(ウラマー)層の支持を固め、自らの統治の正当性を強化しようとした可能性があります。ジズヤの復活は、イスラム法の遵守を求めるウラマーたちの要求に応えるものであり、彼らの協力を得ることで、帝国内のイスラム教徒コミュニティにおける自らの権威を高める狙いがあったと考えられます。また、台頭するマラーター勢力やラージプート諸侯など、ヒンドゥー教徒の政治勢力に対する牽制という意味合いも含まれていたかもしれません。ジズヤを課すことで、非イスラム教徒に対してムガル帝国のイスラム的権威を改めて示し、彼らの忠誠心を試すという政治的な意図があったと推測することも可能です。
このように、アウラングゼーブによるジズヤ復活は、彼の敬虔な信仰心、帝国の財政難、そして複雑な政治的計算が絡み合った複合的な決定でした。



ジズヤの歴史的・法的背景

ジズヤは、イスラム世界の歴史において極めて重要な役割を果たした税制です。その起源はイスラム教の黎明期にまで遡り、イスラム法(シャリーア)体系の中で確立されました。ジズヤを理解するためには、その法的な根拠、目的、そしてイスラム国家における非イスラム教徒(ズィンミー)の位置づけを把握することが不可欠です。
ジズヤの最も直接的な法的根拠は、イスラム教の聖典クルアーンに見出されます。具体的には、第9章「悔悟(アッ・タウバ)」の第29節にその規定があります。この節では、「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)のうち、アッラーも最後の日も信じず、アッラーとその使徒が禁じたことを守らず、真理の教えを信じない者たちとは、彼らが進んで屈服してジズヤを支払うまで戦え」と述べられています。この聖句は、イスラム国家が非イスラム教徒、特に「啓典の民」に対してどのように接するべきかの指針を示しており、ジズヤの徴収を正当化する根拠とされてきました。イスラム法学者は、この聖句を解釈し、ジズヤをイスラム国家の統治下で生活する非イスラム教徒が服従の証として支払うべき税であると位置づけました。
ジズヤの支払いと引き換えに、非イスラム教徒は「ズィンミー(保護民)」としての地位を与えられました。この地位は、彼らの生命、財産、そして信仰の自由をイスラム国家が保障することを意味します。ズィンミーは、自らの宗教儀式を執り行い、教会やシナゴーグ、寺院などの宗教施設を維持することが許されました。ただし、新たな宗教施設の建設や、公の場での派手な宗教的示威行為には制限が課される場合もありました。また、ジズヤを支払うズィンミーは、イスラム教徒の男性に課される兵役の義務を免除されました。これは、イスラム国家の防衛はイスラム教徒の共同体(ウンマ)の責任であるという考えに基づいています。つまり、ジズヤは、非イスラム教徒がイスラム国家の保護下で安全に暮らし、兵役を免除されることへの対価という側面を持っていました。
ジズヤの税額や徴収方法は、時代や地域によって異なりましたが、一般的には個人の経済力に応じて3つの階級に分けて課税されました。裕福な層、中流層、そして労働者などの貧困層です。女性、子供、老人、病人、聖職者、そして極貧の者は通常、課税を免除されました。徴税は年に一度行われるのが通例で、その際には屈辱的な儀式を伴うべきか否かについて、法学者の間で見解が分かれました。一部の厳格な法学者は、クルアーンの「屈服して」という文言を根拠に、非イスラム教徒が税を納める際に、徴税官から意図的に軽んじられるべきだと主張しました。しかし、多くの統治者は、社会の安定を重視し、そのような屈辱的な慣行を避け、実務的な徴税を行いました。
インドにおけるジズヤの導入は、8世紀初頭にアラブ勢力がシンド地方を征服した際に遡ります。その後、13世紀に成立したデリー・スルターン朝の時代を通じて、ジズヤはインド亜大陸におけるイスラム支配の象徴的な制度として定着しました。デリー・スルターン朝の歴代のスルタンたちは、程度の差こそあれ、非イスラム教徒であるヒンドゥー教徒に対してジズヤを課しました。しかし、その施行は常に一様ではなく、中央政府の統制力や地方の状況によって、徴収の厳格さにはばらつきがありました。ヒンドゥー教徒をクルアーンの言う「啓典の民」と見なすべきかという神学的な議論もありましたが、現実的な統治の観点から、彼らはズィンミーとして扱われ、ジズヤ支払いの対象となりました。
このように、ジズヤは単なる税金ではなく、イスラム国家における宗教的階層秩序を反映した制度でした。それは、イスラム教徒の優位性を示すと同時に、非イスラム教徒の権利と義務を規定する法的な枠組みでもありました。ジズヤを支払うことで、非イスラム教徒はイスラムの支配を受け入れ、その見返りとして一定の自治と保護を享受するという関係性が成り立っていたのです。この複雑な制度が、後のムガル帝国、特にアクバルとアウラングゼーブの治世において、どのように扱われ、変容していったのかを見ることが、アウラングゼーブのジズヤ復活の歴史的意義を理解する鍵となります。
アクバルによるジズヤの廃止とその意義

ムガル帝国第3代皇帝アクバル(在位1556年-1605年)は、インド史において最も偉大な統治者の一人とされています。彼の治世は、帝国の版図拡大だけでなく、行政、文化、そして宗教政策における革新的な改革によって特徴づけられます。その中でも、1564年に行ったジズヤの廃止は、アクバルの統治哲学を象徴する画期的な決定であり、ムガル帝国の性格を大きく変えるものでした。
アクバルがジズヤを廃止した背景には、彼の独自の宗教観と、帝国統治における現実的な配慮がありました。アクバルは、特定の宗教の教義に縛られることを嫌い、あらゆる宗教の中に真理が存在すると考えるようになりました。彼は、宮廷にイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、ゾロアスター教徒、キリスト教徒など、様々な宗教の学者や聖者を招き、宗教討論会(イバーダト・カーナ)を頻繁に開催しました。このような探求の末に、彼は「ディーネ・イラーヒー(神の宗教)」として知られる、諸宗教の要素を統合した新たな信仰体系を提唱するに至ります。この「万有和解(スルフ・イ・クル)」の理念は、宗教や民族の違いを超えて、すべての臣民が皇帝への忠誠の下に結束することを目指すものでした。
このような普遍主義的な思想を持つアクバルにとって、ジズヤは時代遅れの差別的な制度に映りました。ジズヤは、イスラム教徒と非イスラム教徒を明確に区別し、後者を二級市民として扱う制度です。帝国の臣民の大多数がヒンドゥー教徒であるという現実の中で、彼らを宗教的な理由で区別し、特別な税を課すことは、帝国の統合を妨げる要因になるとアクバルは考えました。彼は、すべての臣民が宗教に関わらず、皇帝に対して等しく忠誠を誓い、帝国の一員として扱われるべきだと信じていました。ジズヤの廃止は、この「万有和解」の理念を具体的な政策として実現するものであり、ヒンドゥー教徒に対して、彼らがもはや被征服民ではなく、帝国を構成する対等なパートナーであることを示す強力なメッセージとなりました。
ジズヤの廃止は、政治的にも極めて賢明な判断でした。当時、ムガル帝国はラージプート諸侯をはじめとするヒンドゥー教徒の有力者たちとの協力関係を構築し、帝国の支配体制を安定させようとしていました。ラージプート諸侯は、勇猛な戦士として知られ、彼らの軍事力をムガル帝国に取り込むことは、帝国の安定と拡大にとって不可欠でした。アクバルは、ラージプートの王女を娶り、彼らを帝国の高官に登用するなど、積極的な融和策を進めました。ジズヤの廃止は、こうしたラージプート諸侯の信頼と忠誠を勝ち取る上で決定的な役割を果たしました。彼らにとって、ジズヤはイスラム支配による屈辱の象徴であり、その廃止はアクバルが彼らの名誉と尊厳を尊重していることの証と受け止められたのです。これにより、多くのラージプート諸侯はムガル帝国の忠実な同盟者となり、帝国の柱石として機能するようになりました。
経済的な観点から見ると、ジズヤの廃止は一見、国家の歳入を減少させる不利益な決定のように思えます。ジズヤは、理論上は大きな税収源となる可能性がありました。しかし、その徴収には多大な行政コストがかかり、また、しばしば汚職や不正の温床ともなっていました。さらに、ジズヤの存在は非イスラム教徒の経済活動を阻害し、長期的には帝国の経済基盤を弱める可能性もありました。アクバルは、ジズヤという差別的な税に頼るよりも、帝国内の平和と安定を確保し、すべての臣民の経済活動を活性化させることの方が、結果的に国家の繁栄につながると判断したのかもしれません。彼の治世では、土地測量に基づく新たな地租制度(ザプト制)が導入され、より効率的で公平な税収システムが確立されました。これにより、ジズヤ廃止による歳入減を補って余りある安定した財源が確保されたと考えられます。
しかし、アクバルのこの革新的な政策は、すべての層から歓迎されたわけではありませんでした。敬虔なイスラム教徒、特にイスラム法学者(ウラマー)の中には、アクバルの宗教的寛容策に強く反発する者もいました。彼らにとって、ジズヤの廃止は、イスラム法の原則を放棄し、異教徒に迎合する行為であり、イスラム国家としてのムガル帝国の根幹を揺るがすものと映りました。著名なイスラム神学者であったアフマド・シルヒンディーなどは、アクバルの政策がイスラム教を堕落させるものだと厳しく批判しました。このような保守的なイスラム教徒層の不満は、すぐには表面化しませんでしたが、帝国内に潜在的な緊張関係を生み出し、後のアウラングゼーブの時代にジズヤが復活する思想的な土壌となりました。
結論として、アクバルによるジズヤの廃止は、彼の「万有和解」という統治理念の集大成であり、ムガル帝国を単なるイスラム王朝から、多様な宗教と文化を内包する真のインド帝国へと変貌させる上で決定的な役割を果たしました。それは、ヒンドゥー教徒の協力と忠誠を確保し、帝国の政治的・社会的基盤を強固にするための極めて戦略的な一手でした。しかし同時に、この政策はイスラム保守層からの反発を招き、アウラングゼーブによる反動的な政策への道を開く一因ともなったのです。
アウラングゼーブによるジズヤ復活の動機

アクバルによる廃止から1世紀以上が経過した1679年、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位1658年-1707年)は、ジズヤの復活を宣言しました。この決定は、帝国の内外に大きな衝撃を与え、その動機については今日に至るまで歴史家の間で様々な解釈がなされています。アウラングゼーブの行動を単一の理由に帰することはできず、彼の個人的な信仰、当時の帝国の財政状況、そして複雑な政治的力学が絡み合った結果と見るべきです。
宗教的動機

アウラングゼーブのジズヤ復活を説明する上で最も頻繁に挙げられるのが、彼の敬虔な宗教心です。アウラングゼーブは、歴代のムガル皇帝の中でも特に厳格なスンニ派イスラム教徒として知られています。彼は、個人的な生活においてもイスラムの戒律を厳しく守り、贅沢を排し、祈りを欠かさない人物でした。彼の統治哲学の根幹には、イスラム法(シャリーア)を国家統治の最高規範とし、ムガル帝国を真のイスラム国家として確立したいという強い願望がありました。
この観点から見ると、ジズヤの復活は、アウラングゼーブにとって宗教的な義務を果たす行為でした。前述の通り、ジズヤはクルアーンに規定された制度であり、イスラム法学者たちはそれをイスラム国家が非イスラム教徒に課すべき正当な税と見なしていました。アクバルによって廃止されて以来、保守的なウラマー層からは、ジズヤの復活を求める声が絶えませんでした。アウラングゼーブは、これらの声に応え、イスラム法の原則に立ち返ることこそが、神の意にかなう正しい統治であると信じていたのです。彼の治世の公式記録である『マアシレ・アーラムギーリー』には、ジズヤ復活の布告が「イスラムの法を広め、異教徒の慣習を抑圧するため」であったと記されており、この政策の宗教的な性格を明確に示しています。
アウラングゼーブは、治世を通じてイスラム化政策を推進しました。例えば、ヒンドゥー暦に代わってイスラム暦を公式に採用し、宮廷での音楽や舞踊を禁じ、ヒンドゥー教の新しい寺院の建設を制限または禁止し、一部の既存の寺院を破壊したとされています(ただし、寺院破壊の規模や意図については議論があります)。また、イスラム教への改宗を奨励する政策もとられました。ジズヤの復活は、こうした一連のイスラム化政策の頂点に位置づけられるものであり、アウラングゼーブが目指したイスラム的秩序の確立に向けた決定的な一歩であったと言えます。彼にとって、ジズヤは単なる税ではなく、イスラム教の優越性を示し、非イスラム教徒に彼らの従属的な地位を自覚させるための象徴的な意味合いを持っていたと考えられます。
経済的動機

宗教的な動機が重要であったことは間違いありませんが、ジズヤ復活の背景には、極めて現実的な経済的要因も存在しました。アウラングゼーブの治世、特に後半は、絶え間ない戦争に明け暮れた時代でした。彼の治世の最初の25年間は北インドの安定に費やされましたが、1681年以降、彼はデカン地方に親征し、亡くなるまでの26年間をそこで過ごしました。その目的は、台頭著しいマラーター王国と、デカン地方のシーア派イスラム王朝であるビジャープル王国およびゴールコンダ王国を征服することでした。
この長期にわたるデカン戦争は、ムガル帝国の財政に壊滅的な打撃を与えました。数十万の兵士を動員し、彼らに給与を支払い、兵站を維持するための費用は天文学的な額に上りました。戦争の長期化に伴い、帝国の国庫は枯渇し、財政は破綻の危機に瀕していました。アウラングゼーブは、この財政危機を打開するための新たな財源を必死に探していました。彼は、貴族たちの領地(ジャーギール)の一部を没収して皇室直轄領(カーリサ)に組み入れたり、様々な商業税を導入したりしましたが、それだけでは十分ではありませんでした。
このような状況において、ジズヤは非常に魅力的な財源としてアウラングゼーブの目に映ったはずです。帝国の人口の約8割を占める非イスラム教徒に課される人頭税は、理論上、莫大な税収をもたらす可能性を秘めていました。歴史家ジャーデゥナート・サルカールは、ジズヤの復活は主に財政的な必要性から生じたものであり、宗教的な理由はそれを正当化するための口実に過ぎないと主張しました。彼の計算によれば、ジズヤによる税収は、帝国の総歳入のかなりの部分を占める可能性があったとされています。
実際にジズヤがどの程度の税収をもたらしたかについては、正確な記録が乏しく、歴史家の間でも意見が分かれています。一部の州ではかなりの額が徴収された一方で、多くの地域では徴収が困難を極め、期待されたほどの成果は上がらなかったとする見方もあります。しかし、重要なのは、ジズヤ復活の決定がなされた時点で、アウラングゼーブと彼の顧問たちが、これを財政危機を乗り越えるための一つの有効な手段として期待していた可能性が高いということです。戦争で疲弊した経済を立て直し、軍事行動を継続するための資金を確保するという切実な必要性が、ジズヤ復活という決断を後押ししたことは間違いないでしょう。
政治的動機

ジズヤ復活の背景には、宗教、経済と並んで、複雑な政治的計算も働いていました。アウラングゼーブは、自らの権威を強化し、帝国内の様々な勢力をコントロールするために、ジズヤを政治的な道具として利用しようとした可能性があります。
第一に、イスラム法学者(ウラマー)層の支持固めです。前述の通り、ウラマーたちはアクバル以来の宗教的寛容政策に不満を抱き、イスラム法の厳格な施行を求めていました。アウラングゼーブは、皇位継承戦争において、兄のダーラー・シコーが異端的な思想の持ち主であると非難し、自らをイスラムの守護者として位置づけることで、ウラマーや保守的な貴族たちの支持を得て勝利しました。皇帝となった後も、彼らの支持を維持し、自らの統治の正当性を強化することは極めて重要でした。ジズヤの復活は、ウラマーたちの長年の要求に応えるものであり、彼らの歓心を買うための絶好の機会でした。ウラマー層を味方につけることで、アウラングゼーブは自らの政策に宗教的な権威を与え、反対意見を封じ込めることができたのです。
第二に、ヒンドゥー教徒勢力への牽制と忠誠心のテストという側面です。アウラングゼーブの治世、特に後半は、マラーターのシヴァージーや、シク教徒、ジャート族、そして一部のラージプート諸侯など、多くのヒンドゥー教徒勢力による反乱や抵抗に直面しました。これらの勢力は、ムガル帝国の支配に対する深刻な脅威となりつつありました。アウラングゼーブは、ジズヤを課すことによって、非イスラム教徒臣民に対してムガル帝国のイスラム的権威を改めて示威し、彼らの忠誠心を試そうとしたのかもしれません。ジズヤを受け入れて支払う者は帝国に忠実な臣民と見なされる一方、支払いを拒否したり抵抗したりする者は反逆者として討伐の対象とする、という論理です。特に、アクバル以来ムガル帝国の重要な同盟者であったラージプート諸侯に対して、彼らがもはや特別なパートナーではなく、他のヒンドゥー教徒と同様に帝国の支配下にあることを明確に示す意図があったとも考えられます。
しかし、この政治的動機は、裏目に出る危険性をはらんでいました。ジズヤの賦課は、ヒンドゥー教徒の感情を逆なでし、彼らのムガル帝国への忠誠心を損なわせる可能性がありました。実際、ジズヤ復活は各地で広範な抗議と反乱を引き起こし、結果的に帝国の不安定化を招く一因となりました。アウラングゼーブがこの結果をどこまで予測していたかは定かではありませんが、彼はイスラム国家の原則を貫くことの政治的利益が、ヒンドゥー教徒の離反というリスクを上回ると判断したのでしょう。
結論として、アウラングゼーブによるジズヤ復活は、単一の動機によるものではなく、彼の敬虔なイスラム教徒としての信念、デカン戦争による深刻な財政危機、そしてウラマー層の支持獲得やヒンドゥー教徒勢力の牽制といった政治的計算が複雑に絡み合った結果でした。これらの動機は相互に排他的なものではなく、むしろ相互に補強しあっていたと考えるべきです。アウラングゼーブ自身は、自らの行動を主に宗教的な義務の遂行と捉えていたかもしれませんが、その決定が当時の経済的・政治的文脈と深く結びついていたことは明らかです。
ジズヤの施行と社会への影響

1679年4月2日、アウラングゼーブはムガル帝国全土においてジズヤを復活させる勅令を発布しました。この決定は、帝国の社会、特に大多数を占める非イスラム教徒の生活に大きな影響を及ぼしました。ジズヤの具体的な税率や徴収方法、そしてそれが引き起こした様々な反応は、アウラングゼーブの治世の性格と、当時のムガル社会の緊張関係を浮き彫りにします。
税率と徴収方法

アウラングゼーブによって復活されたジズヤは、イスラム法の伝統的な規定に概ね沿って設計されました。課税対象は、兵役に従事していない健康な非イスラム教徒の成人男性に限定されました。女性、子供(14歳未満)、奴隷、身体障害者、精神障害者、失業者、そして聖職者や修道士などの宗教者は課税を免除されました。
課税額は、納税者の経済力に応じて3つの階級に分けられました。

ジズヤの徴収は、この目的のために特別に任命された徴税官によって行われました。徴税官は、イスラム法に精通した敬虔なイスラム教徒であることが求められました。徴税プロセスは、納税者が自ら徴税官のもとへ出向き、敬意を払って直接手渡しで支払うのが原則とされました。これは、クルアーンにある「屈服して支払う」という文言を反映したものであり、納税者にイスラム国家への服従を意識させる意図がありました。しかし、この原則がどれほど厳格に適用されたかは地域によって異なり、多くの場合はより実務的な方法で徴収が行われたと考えられます。徴収された税金は、慈善事業、ウラマーや学生への給付、そして国家の一般財源に充てられることになっていました。
非イスラム教徒の反応と抵抗

ジズヤの復活は、ヒンドゥー教徒をはじめとする非イスラム教徒コミュニティから、広範な驚きと憤りをもって受け止められました。アクバル帝による廃止以来、1世紀以上にわたって存在しなかった税が突如として復活したことは、彼らにとって経済的な負担であると同時に、宗教的な差別と屈辱の象徴と映りました。
勅令が発布されると、帝国の首都デリーでは、数千人のヒンドゥー教徒が宮殿の前に集まり、皇帝に直接抗議の声を上げました。彼らは、ジズヤの撤回を求めて座り込みを行いましたが、アウラングゼーブは一切の譲歩を拒否し、数日後には軍隊の象を使って群衆を強制的に解散させました。この事件は、皇帝の固い決意と、非イスラム教徒の間に生まれた深い溝を象徴しています。
抵抗運動はデリーだけにとどまりませんでした。帝国各地で、ジズヤの支払いを拒否する散発的な暴動や抗議が発生しました。特に、すでにムガル支配に対して反抗的であった地域では、ジズヤの導入が反乱の火に油を注ぐ結果となりました。例えば、メーワールやマールワールといったラージプート諸国は、ジズヤの賦課に強く反発し、ムガル帝国との関係が著しく悪化しました。彼らは、アクバル以来の同盟者としての特別な地位を侵害されたと感じ、武装抵抗へと向かいました。このラージプート戦争は、帝国の貴重な軍事力と資源をさらに消耗させることになります。
また、ジャート族やシク教徒、そしてマラーターといった勢力も、ジズヤをムガル帝国の圧政の新たな象徴と捉え、抵抗を一層激化させました。彼らのゲリラ的な闘争は、帝国の地方行政を麻痺させ、ジズヤの徴収を極めて困難なものにしました。多くの地域で、徴税官は武装した護衛なしでは村々に入ることさえできず、税を徴収しようとして殺害される事件も頻発しました。
一方で、すべての非イスラム教徒が積極的に抵抗したわけではありません。多くの人々は、報復を恐れて、あるいは他に選択肢がなく、不満を抱きながらも税を支払いました。しかし、この政策が彼らの心にムガル帝国への不信感と疎外感を植え付けたことは間違いありません。ジズヤは、ムガル帝国がもはやアクバルの時代のような「万有和解」を掲げる普遍的な帝国ではなく、特定の宗教(イスラム教)を優遇する宗派的な国家に変質したことの証と受け止められました。
経済的・社会的影響

ジズヤ復活がムガル帝国の経済に与えた影響については、評価が分かれています。理論的には、ジズヤは国家財政に大きく貢献するはずでした。いくつかの比較的平穏な州では、実際にかなりの税収が上がり、デカン戦争の戦費の一部を賄うのに役立った可能性があります。しかし、帝国全体として見れば、期待されたほどの成果は上がらなかったとする見方が有力です。
その最大の理由は、広範な抵抗運動により、多くの地域で徴税が計画通りに進まなかったことです。徴税のための行政コストや、反乱鎮圧のための軍事費を考慮すると、ジズヤによる純粋な歳入増は限定的であったかもしれません。むしろ、ジズヤの導入が引き起こした社会不安や経済活動の停滞は、長期的には帝国の経済基盤を弱体化させた可能性があります。
社会的な影響は、より深刻でした。ジズヤは、ムガル社会における宗教間の亀裂を決定的に深めました。アクバルが築き上げようとしたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の協力関係は大きく損なわれ、相互不信の空気が広がりました。ヒンドゥー教徒は、自分たちが二級市民として扱われていると感じ、帝国への帰属意識を失っていきました。この心理的な離反は、物理的な反乱よりも根深く、帝国の統合を内側から蝕んでいきました。
また、ジズヤから逃れるためにイスラム教に改宗する者も現れました。アウラングゼーブはこれを歓迎したかもしれませんが、多くの場合、その改宗は信仰心からではなく、経済的な圧力を逃れるための便宜的なものでした。このような改宗は、社会に新たな緊張を生み出すこともありました。
ジズヤの施行は、アウラングゼーブの意図とは裏腹に、ムガル帝国に多くの負の影響をもたらしました。期待されたほどの経済的利益は得られず、代わりに広範な政治的抵抗と社会的な分断を引き起こしました。この政策は、帝国の求心力を低下させ、各地の反乱勢力を勢いづかせる結果となり、アウラングゼーブの死後、帝国が急速に衰退していく大きな要因の一つとなったのです。
ジズヤ復活の長期的影響と歴史的評価

アウラングゼーブによるジズヤの復活は、彼の治世における最も物議を醸す政策であり、その長期的な影響と歴史的評価については、今なお多様な見解が存在します。この政策がムガル帝国の衰退にどの程度寄与したのか、そしてアウラングゼーブという皇帝をどのように評価すべきかという問題は、インド史における中心的な論争点の一つです。
ムガル帝国の衰退への寄与

多くの歴史家は、ジズヤの復活がムガル帝国の衰退を加速させた重要な要因の一つであったと考えています。この見方によれば、ジズヤがもたらした影響は多岐にわたります。
第一に、政治的な統合の崩壊です。アクバルが築いた、ラージプート諸侯をはじめとするヒンドゥー教徒エリート層との協力関係は、ムガル帝国の安定の礎でした。ジズヤの復活は、この協力関係に致命的な打撃を与えました。ラージプート諸侯は、自分たちの名誉と地位が侵害されたと感じ、帝国への忠誠心を失いました。メーワールやマールワールとの戦争は、帝国の軍事力を消耗させただけでなく、かつて帝国の最も忠実な擁護者であった勢力を敵に回すという、戦略的に極めて大きな損失をもたらしました。帝国の柱石であったラージプートの離反は、帝国の構造的な脆弱性を露呈させました。
第二に、広範な抵抗運動の誘発です。ジズヤは、マラーター、シク、ジャートといった、すでにムガル支配に反抗していた勢力に、新たな正当性と支持を与える格好の口実となりました。彼らは、自らをヒンドゥー教(あるいはシク教)の信仰と名誉を守るための戦士として位置づけ、多くの人々の共感を集めることに成功しました。これらの勢力との絶え間ない戦争は、アウラングゼーブの治世を通じて帝国の資源を枯渇させ続けました。特にマラーターとのデカン戦争は、底なし沼のように帝国の国力を吸い込み、「デカンの潰瘍」と称されるほど深刻なダメージを与えました。ジズヤは、この戦争を宗教的な対立の側面からも煽る結果となり、妥協を一層困難にしました。
第三に、経済的基盤の弱体化です。ジズヤ復活の動機の一つは財政再建でしたが、皮肉なことに、その結果は帝国の経済をさらに悪化させるものでした。ジズヤが引き起こした反乱や社会不安は、農業生産や商業活動に深刻な打撃を与えました。特に北インドでは、地方の反乱によって税収システムが機能不全に陥り、中央政府への税収が激減しました。徴税のための行政コストや反乱鎮圧のための軍事費を考慮すると、ジズヤによる純歳入は、それが引き起こした経済的損失を補うには到底及ばなかったと考えられます。経済の混乱は、帝国の屋台骨であるマンサブダーリー制(位階とそれに応じた給与地の配分制度)の危機を深刻化させ、貴族たちの不満を高め、帝国の遠心力を強める結果につながりました。
第四に、イデオロギー的な統合の喪失です。アクバルが目指した「万有和解」の理念は、多様な民族と宗教から成る帝国を一つにまとめるための強力なイデオロギーでした。ジズヤの復活は、この普遍主義的な理念を放棄し、ムガル帝国をイスラム教徒が非イスラム教徒を支配する、という狭い宗派的な国家へと変質させてしまいました。これにより、帝国の臣民の大多数を占めるヒンドゥー教徒は、帝国への帰属意識、すなわち「ムガル臣民」としてのアイデンティティを失いました。彼らにとって、帝国はもはや自らの利益や尊厳を守ってくれる存在ではなく、抑圧的な異教徒の支配体制と映るようになりました。この心理的な離反は、帝国の求心力を内側から蝕み、アウラングゼーブの死後、各地で独立の動きが相次ぎ、帝国が急速に崩壊していく素地を作りました。
歴史的評価の多様性

アウラングゼーブと彼のジズヤ復活政策に対する歴史的評価は、時代や歴史家の立場によって大きく異なります。
植民地時代のイギリス人歴史家や、それに影響を受けた一部のインドの民族主義的歴史家(例えばジャーデゥナート・サルカールなど)は、アウラングゼーブを狂信的なイスラム教徒であり、ヒンドゥー教徒を迫害した暴君として描く傾向があります。彼らは、ジズヤの復活や寺院破壊といった政策を、アウラングゼーブの宗教的偏見の直接的な現れと捉え、彼の治世がムガル帝国の黄金時代を終わらせ、その衰退を決定づけたと強く非難しました。この見方では、ジズヤはヒンドゥー教徒に対する意図的な屈辱と抑圧の象徴として強調されます。
一方で、20世紀半ば以降、修正主義的なアプローチをとる歴史家たちが現れました。彼らは、アウラングゼーブの行動を、当時の政治的・経済的な文脈の中でより客観的に理解しようと試みました。サティーシュ・チャンドラなどの歴史家は、ジズヤ復活の動機として、宗教的信念だけでなく、深刻な財政危機やデカンの政治情勢といった現実的な要因を重視します。彼らは、アウラングゼーブの政策が常に一貫して反ヒンドゥー的であったわけではないことも指摘しています。例えば、アウラングゼーブの宮廷には、彼の父や祖父の時代よりも多くのヒンドゥー教徒の貴族(特にマラーター出身者)が高官として仕えていたという事実を挙げ、彼の統治が単純な宗教的迫害ではなかったと主張します。この立場からすれば、ジズヤの復活は、失敗に終わったとはいえ、破綻しかけていた帝国を立て直すための、苦渋に満ちた現実的な政策判断の一環であったと解釈されます。
さらに、近年の研究では、ムガル帝国の衰退をアウラングゼーブ一人の責任に帰する見方そのものが見直されています。帝国の衰退は、彼の死のずっと以前から始まっていた構造的な問題、例えば経済の停滞、マンサブダーリー制の機能不全、地方勢力の台頭といった、より長期的で複雑な要因が絡み合った結果であるという考え方が有力になっています。この文脈では、ジズヤの復活は、衰退の原因というよりも、むしろ進行しつつあった帝国の危機に対する一つの(結果的に裏目に出た)対応策であったと位置づけられます。

アウラングゼーブによるジズヤの復活は、ムガル帝国史における重大な転換点でした。その動機は、彼の敬虔な宗教心、深刻な財政危機、そして複雑な政治的計算が絡み合った複合的なものであり、単一の理由で説明することはできません。アウラングゼーブ自身は、イスラム法の原則に則った国家を建設するという宗教的理想を追求したのかもしれませんが、その政策がもたらした現実は、彼の意図とは大きく異なるものでした。
ジズヤの復活は、期待されたほどの経済的利益をもたらすことなく、むしろ帝国の政治的・社会的な分断を決定的に深めました。それは、かつて帝国の支柱であったラージプート諸侯を離反させ、マラーターなどの敵対勢力の抵抗運動に大義名分を与え、帝国の軍事力と財政を著しく消耗させました。そして何よりも、帝国の臣民の大多数を占めるヒンドゥー教徒の心に、ムガル支配への不信感と疎外感を植え付け、帝国のイデオロギー的な統合を内側から崩壊させました。
アウラングゼーブの死後、ムガル帝国が急速に瓦解していったのは、彼の後継者たちが無能であったからだけではありません。彼の治世、特にジズヤの復活に象徴される一連の政策が、帝国の構造的な脆弱性を悪化させ、その崩壊を不可避なものにした側面は否定できません。アウラングゼーブを単純な宗教的狂信者として断罪することも、あるいは単に状況の犠牲者として擁護することも、歴史の複雑な真実を捉えることにはなりません。彼は、巨大な帝国の存亡という重圧の中で、自らの信条と現実的な要請の間で困難な決断を下した統治者でした。しかし、その決断の一つであるジズヤの復活が、結果として帝国の寿命を縮める方向に作用したことは、歴史的な事実として重く受け止められるべきでしょう。この政策は、多様な人々を一つの帝国の下に統合することの難しさと、宗教が政治に及ぼす強力かつ両義的な影響を、後世に伝える痛烈な教訓として残されています。
Tunagari_title
・人頭税(ジズヤ)の復活とは わかりやすい世界史用語2384

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 0 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。