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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

黄金寺院《シク教》とは わかりやすい世界史用語2387

著者名: ピアソラ
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黄金寺院《シク教》とは

インドのパンジャーブ州アムリトサル市に位置する黄金寺院は、正式名称をハリマンディル・サーヒブといい、シク教徒にとって最も神聖な精神的中心地です。 その歴史は、シク教の教えそのものの発展と深く結びついています。この寺院の物語は、単なる建築物の歴史にとどまらず、信仰、迫害、再生、そしてコミュニティの不屈の精神を象徴するものです。寺院の起源は16世紀に遡り、シク教のグルたち、特に第四代グル・ラーム・ダースと第五代グル・アルジャン・デヴの指導のもとでその礎が築かれました。
ハリマンディル・サーヒブという名称は、「神の寺院」を意味します。 「ハリ」は神を、「マンディル」は寺院を指す言葉です。 また、「ドゥールバール・サーヒブ」、すなわち「聖なる謁見の間」としても知られています。 一般的に「黄金寺院」として世界的に知られているのは、19世紀初頭にマハーラージャ・ランジート・シンの後援によって、聖所の外壁が金箔で覆われたことに由来します。
この寺院の建設地は、シク教の第三代グルであるグル・アマル・ダースによって選ばれました。 当時、この場所は森に囲まれた小さな湖でした。 伝説によれば、この湖の水には治癒力があると信じられていました。ある物語では、ライ・ドゥニ・チャンドの娘ラジニが、ハンセン病を患う夫をこの湖のほとりに連れてきたところ、カラスが水浴びをして白鳥に変わるのを目撃しました。 夫もその水に入ると、病が癒え、健康な体を取り戻したと伝えられています。 この奇跡の物語が、この場所の神聖さを物語る一つの逸話として語り継がれています。
第四代グル・ラーム・ダースは、1577年にこの神聖な池(サローヴァル)の掘削を開始しました。 この池は後に「アムリト・サローヴァル」、すなわち「不死の蜜の池」と名付けられ、アムリトサルの街の名前の由来となりました。 グル・ラーム・ダースは、この池の周りに「ラームダースプル」または「グル・カ・チャク」として知られる町を建設し、シク教徒の共同体の中心地としての基盤を築きました。 土地の取得については、ムガル帝国の皇帝アクバルがグル・アマル・ダースの娘でグル・ラーム・ダースの妻であるバーニに寄進したという説や、地元の村人から700ルピーで購入したという説など、複数の記録が残っています。
黄金寺院の建設は、第五代グル・アルジャン・デヴの時代に本格化しました。 グル・アルジャン・デヴは、シク教の教えを体現する独自の建築様式を構想しました。 従来のヒンドゥー教寺院が高い基壇の上に建てられるのとは対照的に、ハリマンディル・サーヒブは周囲の土地よりも低い位置に建設されました。 これは、寺院を訪れる者が謙虚さをもって階段を下り、エゴを捨てて聖域に入ることを象徴しています。 さらに、寺院には四方に入口が設けられました。 これは、シク教がカーストや信条、人種、性別に関係なく、すべての人々に対して開かれていることを示す重要な象徴です。
寺院の最初の礎石が誰によって置かれたかについては、歴史的記録にいくつかの見解が存在します。多くの資料では、グル・アルジャン・デヴがラホール出身の著名なスーフィーの聖者、サイ・ミアン・ミールに礎石を置くよう依頼したとされています。 この行為は、異なる宗教間の調和とシク教の包括的な精神を象徴するものとして語られています。 しかし、一部のシク教の伝統的な資料では、グル・アルジャン・デヴ自身が礎石を置いたと主張されており、ミアン・ミールに関する話は後世の創作であるという見方もあります。 いずれにせよ、礎石が置かれたのは1588年12月、あるいは1589年1月とされています。
レンガ造りの最初の寺院は、グル・アルジャン・デヴの直接の監督のもと、多くの献身的なシク教徒たちの労働奉仕によって建設が進められ、1589年には完成しました。 その後も拡張工事は続けられ、1601年頃に建物全体が完成したとされています。 そして1604年、グル・アルジャン・デヴは、それまでのグルたちの教えと他の聖人たちの言葉を編纂したシク教の聖典「アディ・グラント」を完成させ、ハリマンディル・サーヒブの中央聖所に安置しました。 この出来事により、黄金寺院は単なる礼拝所ではなく、シク教の生けるグルである聖典が鎮座する、最も重要な精神的拠点としての地位を確立しました。 初代のグランティ(聖典の朗読者)には、高名なシク教徒であるババ・ブッダが任命されました。
このようにして、黄金寺院はその初期の段階から、シク教の核心的な価値観である平等、謙虚さ、奉仕、そしてすべての人々への開放性を体現する場所として構想され、建設されたのです。それは、単なる物理的な建造物ではなく、シク教の精神性が具現化された聖地であり、その後のシク教の歴史において中心的な役割を果たしていくことになります。



グル・アルジャン・デヴの時代:聖典の編纂と寺院の完成

黄金寺院の歴史において、第五代グル・アルジャン・デヴ(在位1581年-1606年)の時代は、その基礎を固め、精神的な中心地としての性格を決定づけた極めて重要な時期です。 彼は、父であるグル・ラーム・ダースが始めた聖なる池と町の建設事業を引き継ぎ、それを壮大なビジョンへと昇華させました。 グル・アルジャン・デヴの最大の功績は、ハリマンディル・サーヒブの建設を完成させたことと、シク教の聖典「アディ・グラント」(後のグル・グラント・サーヒブ)を編纂し、寺院に安置したことです。
グル・アルジャン・デヴは、1563年にゴインドワールで生まれ、1581年にわずか18歳でグルに就任しました。 彼は、シク教徒が共通の信仰の下に集い、礼拝できる中心的な場所の必要性を深く認識していました。 そこで彼は、父が掘削を始めたアムリト・サローヴァルの中心に、壮麗な寺院を建設する計画を立て、自らその建築設計を行いました。
彼の設計思想は、シク教の教義と密接に結びついていました。前述の通り、寺院を周囲より低い土地に建てることで謙虚さを示し、四方に門を設けることでカーストや宗教に関わらず全ての人々を歓迎する姿勢を明確にしました。 この設計は、ヒエラルキーを否定し、平等を重んじるシク教の精神を建築的に表現したものでした。 建設工事は1585年12月に開始され、1589年にレンガ造りの最初の寺院が完成しました。 建設はグル・アルジャン・デヴ自身が監督し、ババ・ブッダやバイ・グルダースといった著名なシク教徒たちが彼を補佐しました。 多くの信者が労働奉仕(セヴァ)に参加し、寺院の建設は共同体全体の事業として進められました。
建設と並行して、グル・アルジャン・デヴはもう一つの歴史的な大事業に着手しました。それが、シク教の聖典「アディ・グラント」の編纂です。 当時、シク教のグルたちの教え(グルバーニー)は口承や断片的な写本で伝えられていましたが、中には偽物が流布するという問題も生じていました。グル・アルジャン・デヴは、真正な教えを一つの書物にまとめ、後世に正確に伝えることの重要性を認識していました。
彼は数年をかけて、初代グル・ナーナクから自身に至るまでのグルたちの教えを集め、整理しました。さらに彼は、シク教の思想と一致する他の宗教の聖人たちの言葉も収録しました。 これには、ヒンドゥー教のバクティ聖者であるカビールやラヴィダース、スーフィーの聖者であるシェイク・ファリドなどが含まれます。 これは、シク教が特定の宗教の枠を超え、普遍的な真理を尊重する姿勢の表れでした。編纂作業は非常に緻密かつ厳格に行われ、グル・アルジャン・デヴ自身が全ての詩篇を吟味し、取捨選択しました。
1604年8月16日、ついに「アディ・グラント」が完成しました。 グル・アルジャン・デヴは、この聖典を完成したばかりのハリマンディル・サーヒブの聖所に、荘厳な儀式をもって安置しました。 彼は聖典を高い台座の上に置き、自らはそれよりも低い位置に座ることで、聖典が単なる書物ではなく「生けるグル」としての権威を持つことを示しました。 これ以降、シク教ではグル・グラント・サーヒブが最高の精神的権威として崇敬されることになります。 寺院は、この聖なる書物が鎮座する家となり、その重要性は飛躍的に高まりました。 初代のグランティ(聖典の管理者兼朗読者)には、尊敬を集めていたババ・ブッダが任命されました。
グル・アルジャン・デヴはまた、アムリトサルをシク教徒の主要な巡礼地として確立しました。 彼は、自身の著作である「スクマニ・サーヒブ」を含む多くの聖歌を作詞し、寺院での日々の礼拝の形式を定めました。 これにより、黄金寺院はシク教徒の信仰生活の中心となり、多くの巡礼者が訪れるようになりました。寺院の周りに築かれたアムリトサルの町も、商業と文化の中心として繁栄し始めました。
しかし、シク教の勢力拡大は、当時のムガル帝国皇帝ジャハーンギールとの間に緊張を生むことになります。ジャハーンギールは、シク教の教えがイスラム教の教義に反すると考え、グル・アルジャン・デヴを危険視していました。1606年、グル・アルジャン・デヴは皇帝の命令によって逮捕され、イスラム教への改宗を迫られました。 彼がこれを拒否したため、過酷な拷問の末に殉教を遂げました。
グル・アルジャン・デヴの殉教は、シク教の歴史における大きな転換点となりました。彼の平和的な抵抗と自己犠牲は、シク教徒の心に深く刻まれ、後の世代に大きな影響を与えました。そして、彼の息子であり後継者であるグル・ハーゴビンドは、父の殉教を機に、シク教が自衛のために武装する必要性を痛感することになります。
グル・アルジャン・デヴの時代は、黄金寺院が物理的に完成し、シク教の精神的な拠り所としての地位を不動のものとした時代でした。彼が編纂した聖典と、彼が確立した寺院のあり方は、今日に至るまで黄金寺院の核心をなし続けています。彼の殉教という悲劇は、シク教の歴史に新たな局面をもたらし、黄金寺院の役割をさらに複雑で重要なものへと変えていくことになったのです。
ミリとピリの象徴:アーカーン・タクトの建立

第五代グル・アルジャン・デヴの殉教は、シク教の歴史に深刻な衝撃を与え、その後の方向性を大きく変える契機となりました。 父の非業の死を目の当たりにした第六代グル・ハーゴビンド(在位1606年-1644年)は、シク教共同体が精神的な強さだけでなく、自らを防衛するための世俗的な力をも持つ必要があると確信しました。 この新たな理念を具現化するために、彼は「ミリ」と「ピリ」という二つの概念を提唱し、それを象徴する建造物として、ハリマンディル・サーヒブのすぐそばに「アーカーン・タクト」を建立しました。
「ミリ」は世俗的・政治的な権威を、「ピリ」は精神的な権威を意味します。 グル・ハーゴビンドは、グルが精神的な指導者であると同時に、共同体の守護者としての役割も担うべきだと考えました。 彼はグルに就任する際、この二つの権威を象徴する二振りの剣を腰に帯びました。 この行為は、シク教が単なる平和的な宗教団体から、不正や抑圧に対しては武力をもって抵抗することも辞さない、より強固な共同体へと変貌を遂げることを宣言するものでした。
このミリとピリの理念を物理的に表現したのが、アーカーン・タクトです。 「アーカーン・タクト」とは、「時を超越した者の玉座」を意味します。 1606年6月15日、グル・ハーゴビンドはハリマンディル・サーヒブの聖所へと続く参道の正面に、この玉座の建設を開始しました。 伝説によれば、グル・ハーゴビンドは、高名なシク教徒であるババ・ブッダとバイ・グルダースと共に、自らの手で最初の土台を築いたとされています。
アーカーン・タクトは、当初は簡素な煉瓦造りの台座でした。 グル・ハーゴビンドは、ムガル皇帝ジャハーンギールが発した「皇帝以外は何人も3フィート以上の高さの玉座に座ってはならない」という勅令に公然と反抗し、アーカーン・タクトの高さを12フィート(約3.5メートル)に設定しました。 これは、シク教共同体がムガル帝国の権威に屈しないという強い意志表示でした。グル・ハーゴビンドはこの玉座に座り、王侯のような威儀を整え、信者からの請願を受け付けたり、争い事を裁いたりするなど、世俗的な統治者の役割を果たしました。
アーカーン・タクトの建立は、黄金寺院の複合施設に新たな次元を加えました。ハリマンディル・サーヒブが精神的な探求と神への帰依(ピリ)を象徴する場所であるのに対し、アーカーン・タクトは共同体の正義と主権(ミリ)を司る場所として位置づけられました。 この二つの建物が向かい合って建っている配置は、精神的な事柄と世俗的な事柄のバランスの重要性を示唆しています。 ただし、アーカーン・タクトはハリマンディル・サーヒブよりもわずかに低い位置に建てられました。 これは、シク教においては常に精神的な探求が世俗的な権威よりも優先されるべきである、という思想を象徴しています。
グル・ハーゴビンドは、アーカーン・タクトを拠点として、シク教徒の軍事化を進めました。 彼は信者たちに武術の訓練を奨励し、「アーカーン・セーナー」(神の軍隊)と呼ばれる最初のシク教徒の軍隊を組織しました。 これにより、アムリトサルは単なる宗教的な中心地から、シク教の政治的・軍事的な拠点としての性格も帯びるようになりました。この変化は、ムガル帝国とのさらなる対立を招くことになります。グル・ハーゴ_ビンドの治世中、シク教徒軍はムガル軍と数度にわたる戦闘を経験しました。
17世紀から18世紀にかけて、アーカーン・タクトはムガル皇帝やアフガンの侵略者たちから、シク教の政治的権威の中心と見なされ、ハリマンディル・サーヒブと共に度々攻撃の対象となりました。 しかし、破壊されるたびにシク教徒の手によって再建され、その権威は揺らぎませんでした。18世紀後半、シク教徒の連合体(ミスル)の指導者であったジャッサ・シン・アフールワーリーアの指揮のもと、アーカーン・タクトはより堅固な建物として再建されました。
アーカーン・タクトは、今日に至るまでシク教の最高権威機関としての役割を担っています。 シク教共同体全体に関わる重要な決定や布告(フクムナーマー)は、ここから発せられます。アーカーン・タクトのジャテープダール(最高位の聖職者)は、全世界のシク教徒の最高指導者と見なされています。
グル・ハーゴビンドによるアーカーン・タクトの建立は、シク教の歴史における重要な一歩でした。それは、信仰を守るためには行動が必要であるという新たな自覚の象徴であり、黄金寺院の複合施設に精神性と俗世性の二重の権威構造をもたらしました。このミリとピリの理念は、その後のシク教のアイデンティティ形成に不可欠な要素となり、黄金寺院が単なる聖地ではなく、シク教徒の生活のあらゆる側面を導く中心であり続けることを確固たるものにしたのです。
度重なる破壊と再建の時代

17世紀から18世紀にかけての時代は、黄金寺院にとって最も過酷な試練の連続でした。シク教の勢力拡大と、それに伴う独自の政治的・軍事的アイデンティティの確立は、デリーを拠点とするムガル帝国や、西方から侵入してくるアフガン勢力との間に深刻な対立を引き起こしました。 黄金寺院とアーカーン・タクトは、シク教徒の信仰と抵抗の象徴と見なされ、繰り返し破壊と冒涜の対象となりました。 しかし、そのたびにシク教徒は不屈の精神で立ち上がり、聖地を再建してきました。この破壊と再生のサイクルは、シク教共同体の強靭さと信仰の深さを物語っています。
グル・ハーゴビンドがアムリトサルを離れた後、17世紀半ばの一時期、寺院はグル・アルジャン・デヴに反抗した兄プリティ・チャンドの子孫であるミーナース派の支配下に置かれました。 しかし、18世紀に入ると、第十代グル・ゴービンド・シンが創設したハールサー教団の力によって、寺院は再び正統なシク教徒の管理下に戻りました。
本格的な迫害は、18世紀半ばに激化します。パンジャーブ地方のムガル帝国総督であったザカリーヤ・ハーンは、シク教徒を根絶やしにしようと試み、アムリトサルへの巡礼を禁じ、寺院を占拠しました。彼の部下であったマッサ・ランガルは、1740年に寺院の聖所を接収し、そこで踊り子をはべらせて酒宴を開くなど、甚だしい冒涜行為を行いました。 この知らせを聞いた二人のシク教徒、バイ・メタフブ・シンとバイ・スケハ・シンは、農民に変装してアムリトサルに潜入し、マッサ・ランガルを討ち取り、聖地の尊厳を回復しました。
しかし、最大の破壊はアフガニスタンのドゥッラーニー朝を建国したアフマド・シャー・アブダーリー(アフマド・シャー・ドゥッラーニーとしても知られる)によってもたらされました。彼はインドへの遠征を繰り返し、パンジャーブ地方で勢力を増していたシク教徒を最大の脅威と見なしていました。
1757年、アフマド・シャー・アブダーリーはアムリトサルを侵略し、ハリマンディル・サーヒブを破壊し、聖なる池を瓦礫や屠殺した牛の内臓で埋め立てるという冒涜行為を行いました。 シク教徒にとって、これは耐え難い屈辱でした。しかし、彼らは屈しませんでした。高名なシク教徒の戦士であるババ・ディープ・シンは、70歳を超えた高齢にもかかわらず、「私の首がハリマンディル・サーヒブで落ちるまで戦う」と誓いを立て、少数の部隊を率いてアムリトサルへと進軍しました。彼はアムリトサル近郊でアフガン軍と激しく戦い、致命傷を負いながらも、自らの首を左手で支え、右手で剣を振るいながら戦い続け、ついに聖地に到達して殉教したという伝説が語り継がれています。彼の自己犠牲は、シク教徒たちを大いに鼓舞しました。
1762年、アフマド・シャー・アブダーリーは再びパンジャーブに侵攻し、シク教徒に対して「ヴァッダー・ガルガーラー」(大虐殺)として知られる大規模な虐殺を行いました。この後、彼は再び黄金寺院を訪れ、今度は火薬を使って建物を完全に爆破しました。 聖地は瓦礫の山と化しました。
しかし、シク教徒の精神は砕けませんでした。アフマド・シャー・アブダーリーがアフガニスタンに引き返すとすぐに、シク教徒たちは再び集結しました。1764年、シク教徒の連合体であるダル・ハールサーはアムリトサルを奪還し、聖地の再建に着手しました。 ジャッサ・シン・アフールワーリーアをはじめとするミスルの指導者たちの下で、資金が集められ、ハリマンディル・サーヒブとアーカーン・タクトは再建されました。 この再建は1776年頃に完了したとされています。 この時に築かれた寺院の基本構造が、現在の黄金寺院の基礎となっています。
この度重なる破壊と再建の経験は、シク教徒のアイデンティティ形成に決定的な影響を与えました。黄金寺院は、単なる礼拝の場所ではなく、殉教者たちの血によって清められ、共同体の不屈の精神が宿る、抵抗と再生の象徴となったのです。いかなる権力も、彼らの信仰の中心を破壊することはできないという確信が、シク教徒の間に深く根付きました。この苦難の時代を経て、シク教徒はパンジャーブ地方における支配的な勢力として台頭し、19世紀初頭にはマハーラージャ・ランジート・シンによるシク王国の樹立へと至ります。そして、この新たな黄金時代に、ハリマンディル・サーヒブはかつてないほどの輝きを放つことになるのです。
シク王国時代:マハーラージャ・ランジート・シンの貢献と黄金の輝き

18世紀後半、アフガン勢力の衰退とムガル帝国の弱体化に乗じて、パンジャーブ地方ではシク教徒の連合体である「ミスル」が各地で力をつけ、群雄割拠の時代を迎えていました。この混乱を収拾し、パンジャーブを統一してシク王国を樹立したのが、マハーラージャ・ランジート・シン(在位1801年-1839年)です。 彼の治世は、シク教徒にとって政治的・文化的な黄金時代であり、黄金寺院もまた、彼の惜しみない後援によって、その名にふさわしい壮麗な姿へと生まれ変わりました。
ランジート・シンは敬虔なシク教徒であり、ハリマンディル・サーヒブを自らの王国の精神的な支柱と見なしていました。彼は、度重なる破壊に耐えてきたこの聖地を、シク王国の栄光を象徴するにふさわしい壮麗な建造物へと変貌させることを決意しました。
1809年頃から、ランジート・シンは寺院の大規模な改修に着手しました。 彼は、寺院の下層階を白い大理石で覆うよう命じました。 この大理石のパネルには、花や動物のモチーフがピエトラ・ドゥーラ(硬石象嵌)の技法で精巧に施されました。 この様式は、ムガル建築やラージプート建築の影響を受けたもので、ヒンドゥー様式とイスラム様式が見事に融合した独特の美しさを生み出しています。
そして、ランジート・シンの最も象徴的な貢献は、聖所の上層階を金で覆うという壮大な計画でした。1830年、彼は大量の金を寄進し、職人たちに銅板の上に金箔を貼る作業を行わせました。 この結果、寺院のドームや壁面は眩いばかりの黄金の輝きを放つようになり、これ以降、「ハリマンディル・サーヒブ」は「黄金寺院」という通称で世界中に知られることになったのです。 寺院の入口にある銘板には、ランジート・シンによるこの奉仕が記録されており、「偉大なるグルは、その叡智をもってマハーラージャ・ランジート・シンを筆頭の僕、シク教徒とみなし、その慈悲をもって、彼に寺院に仕える特権を授けた」と刻まれています。
ランジート・シンによる改修は、外装だけにとどまりませんでした。寺院の内部も、豪華なフレスコ画や鏡、金箔で装飾されました。 壁や天井には、シク教の歴史やグルたちの生涯を描いた精緻な壁画が描かれ、訪れる人々に信仰の物語を伝えています。これらの装飾は、シク教独自の芸術様式である「シク派絵画」の発展にも大きく貢献しました。
ランジート・シンの治世下で、アムリトサルはシク王国の宗教的首都としてだけでなく、商業と文化の中心地としても大いに繁栄しました。 彼は寺院の運営のために広大な土地を寄進し、その収入によって寺院の維持管理や、巡礼者のための施設が整備されました。黄金寺院の周辺には、庭園や宿泊施設、市場などが整備され、複合施設全体が壮麗な景観を呈するようになりました。
この時代、黄金寺院はシク教徒の誇りとアイデンティティの象徴として、かつてないほどの重要性を持つようになりました。ランジート・シンが築いた王国の力と富が、聖地の輝きとなって結実したのです。黄金に輝く寺院の姿は、度重なる迫害を乗り越えて勝利を収めたシク教共同体の栄光を物語っていました。
しかし、この黄金時代は長くは続きませんでした。1839年にランジート・シンが亡くなると、シク王国は後継者争いと内紛によって急速に弱体化し、やがてイギリスの侵略を招くことになります。イギリスとの二度にわたるシク戦争の結果、1849年にパンジャーブはイギリス領インド帝国に併合され、シク王国は終焉を迎えました。
シク王国の滅亡後、黄金寺院は再び新たな試練の時代を迎えることになります。しかし、マハーラージャ・ランジート・シンによって与えられた黄金の輝きと壮麗な装飾は、その後も失われることなく受け継がれ、今日に至るまで世界中の人々を魅了し続けています。彼の貢献は、黄金寺院の歴史において、破壊と再生の時代に終止符を打ち、聖地を不滅の美の象徴へと昇華させた決定的なものでした。
イギリス統治時代とシク教改革運動

1849年のシク王国滅亡とパンジャーブ地方のイギリス併合は、シク教共同体と黄金寺院にとって、新たな挑戦の時代の幕開けを意味しました。政治的な独立を失ったシク教徒は、自らの宗教的・文化的アイデンティティをいかに維持していくかという深刻な課題に直面しました。この時代、黄金寺院は単なる聖地としてだけでなく、シク教徒のアイデンティティを再確認し、改革を目指す運動の中心地としての役割を担うことになります。
イギリス統治の初期、黄金寺院の管理は、イギリス政府の監督下に置かれました。イギリスは、シク教徒の感情を刺激しないよう、寺院の伝統的な儀式や運営には直接介入しない方針を取りましたが、寺院の管理者を任命する権限を握ることで、間接的な影響力を行使しました。この時期、寺院の管理は、イギリス政府に協力的なマハント(世襲の聖職者)たちに委ねられていました。しかし、これらのマハントの中には、寺院の収入を私物化したり、シク教の教えに反する儀式(偶像崇拝など)を導入したりする者が現れ、多くのシク教徒の間で不満が高まっていきました。
このような状況の中で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、シク教の本来の教えに立ち返り、共同体を改革しようとする動きが活発化しました。その中心となったのが、1873年にアムリトサルで始まった「シン・サバー運動」です。 この運動の目的は、シク教の教義を純化し、教育を普及させ、キリスト教やヒンドゥー教への改宗の動きに対抗してシク教徒のアイデンティティを強化することでした。
シン・サバー運動の指導者たちは、黄金寺院が腐敗したマハントの支配下にあることを問題視し、寺院をシク教共同体全体の管理下に取り戻すことを目指しました。彼らは、パンジャーブ語の教育やシク教の歴史に関する出版活動を通じて、大衆の意識改革に努めました。黄金寺院は、この運動の思想を発信する重要な拠点となり、多くの集会や議論が寺院の敷地内で行われました。
シン・サバー運動は、シク教徒の間に強い連帯感と宗教的自覚を育み、20世紀初頭には、より政治的な色彩を帯びた「グルドワーラー改革運動(アカーリー運動)」へと発展しました。この運動の直接的な目標は、黄金寺院をはじめとする歴史的なシク教寺院(グルドワーラー)を、腐敗したマハントたちの手から解放し、民主的に選ばれたシク教徒の代表者による管理下に置くことでした。
アカーリー運動は、マハトマ・ガンディーが主導するインド独立運動とも連携し、非暴力不服従の手段を用いて行われました。多くのシク教徒が、寺院の解放を求めて平和的なデモや座り込みを行い、イギリス植民地政府やマハントの手先による弾圧を受け、多くの犠牲者を出しました。黄金寺院は、この闘争の中心地となり、多くの重要な出来事の舞台となりました。
長年にわたる闘争の末、1925年、ついに「シク・グルドワーラー法」が制定されました。 この法律により、黄金寺院を含むパンジャーブ地方の歴史的なグルドワーラーの管理権は、民主的に選出される「シローマニー・グルドワーラー・パルバンダク委員会(SGPC)」に委ねられることになりました。 これは、シク教徒にとって歴史的な勝利であり、黄金寺院が名実ともにシク教共同体全体の聖地として再確立されたことを意味しました。
イギリス統治時代は、シク教徒が政治的権力を失った困難な時代でしたが、同時に、内省と改革を通じて自らのアイデンティティを再構築した重要な時期でもありました。黄金寺院は、この過程において、単に守られるべき聖地ではなく、改革運動のエネルギーを生み出す中心地として機能しました。シン・サバー運動とグルドワーラー改革運動の成功は、黄金寺院の管理体制を近代化し、その後のインド独立とパンジャーブ州の形成へと続くシク教徒の政治的・社会的活動の礎を築いたのです。
インド独立後の混乱とブルースター作戦

1947年のインド独立とそれに伴うパンジャーブ地方の分割は、シク教共同体に新たな苦難をもたらしました。多くの歴史的なグルドワーラーを含む西パンジャーブがパキスタン領となり、何百万人ものシク教徒が故郷を追われて東パンジャーブ(インド側)への移住を余儀なくされました。この混乱の中で、黄金寺院は難民たちの避難所となり、共同体の精神的な拠り所として重要な役割を果たしました。
独立後のインドにおいて、シク教徒は自らの言語と文化、そして政治的アイデンティティを確保するための新たな闘争に直面します。その中心となったのが、「パンジャービー・スーバー運動」です。 これは、パンジャーブ語を公用語とする、シク教徒が多数派を占める州の設立を求める運動でした。黄金寺院は、この運動の政治的な集会の中心地となり、シク教徒の要求をインド政府に伝えるための拠点として機能しました。 長年の運動の末、1966年に現在のパンジャーブ州が設立され、運動は一応の成果を収めました。
しかし、この州設立後も、水資源の配分やチャンディーガルの帰属問題など、中央政府との間には多くの未解決問題が残りました。これらの不満は、1970年代後半から1980年代にかけて、より急進的なシク教徒の分離独立運動へと発展していきます。この運動の中心人物となったのが、ジャルナイル・シン・ビンドランワーレでした。
ビンドランワーレは、カリスマ的な説教師であり、シク教の教えを厳格に守ることを説き、多くの若者たちの支持を集めました。彼は、シク教徒がインド国内で不当な扱いを受けていると主張し、中央政府に対してより強硬な姿勢をとることを求めました。当初は宗教指導者でしたが、次第に政治的な影響力を増し、武装した支持者たちと共に、シク教徒の自治権拡大、さらには「ハリスタン」と呼ばれる独立国家の樹立を求める運動の象徴となっていきました。
1982年、ビンドランワーレは、インド政府による弾圧から身を守るため、黄金寺院の複合施設内にある「グル・ナーナク・ニワス」という宿泊施設に拠点を移しました。そして、次第に武装した支持者たちと共に、シク教の最高権威機関であるアーカーン・タクトを要塞化し始めました。寺院の敷地内には武器が運び込まれ、建物の屋上には機関銃の砲床が築かれるなど、聖地は武装勢力の拠点へと変貌していきました。パンジャーブ州では、ビンドランワーレの支持者によるとされるテロや暗殺事件が頻発し、治安は急速に悪化しました。
当時のインディラ・ガンディー首相率いるインド政府は、この事態を国家の統一に対する深刻な脅威と見なし、武力による解決を決断します。そして、1984年6月、黄金寺院から武装勢力を排除するための軍事作戦が実行されました。これが「ブルースター作戦」です。
6月1日の夜から、インド軍は黄金寺院を完全に包囲し、外部との連絡を遮断しました。当時、寺院内には第五代グル・アルジャン・デヴの殉教記念日を祝うために集まった多くの一般巡礼者も取り残されていました。軍は、スピーカーで投降を呼びかけましたが、ビンドランワーレと彼の支持者たちはこれを拒否し、徹底抗戦の構えを見せました。
6月5日の夜、インド軍は戦車や装甲車を投入し、本格的な攻撃を開始しました。武装勢力は、要塞化されたアーカーン・タクトを拠点に激しく抵抗し、両者の間で凄まじい戦闘が繰り広げられました。軍は、アーカーン・タクトの堅固な防御を破るために、戦車砲による攻撃を加えました。その結果、ビンドランワーレを含む多くの武装勢力メンバーが殺害されましたが、同時に、歴史的建造物であるアーカーン・タクトは甚大な被害を受け、ほぼ全壊状態となりました。
この作戦では、軍の兵士、武装勢力、そして多くの罪のない巡礼者を含む、数千人もの死者が出たと推定されています。黄金寺院の聖所であるハリマンディル・サーヒブ自体は比較的被害が軽微でしたが、聖なる池は血で赤く染まり、複合施設内の図書館に保管されていた貴重な歴史的写本も火災で焼失しました。
ブルースター作戦は、シク教徒の心に深い傷跡を残しました。多くのシク教徒は、自らの最も神聖な場所が軍隊によって攻撃され、アーカーン・タクトが破壊されたことを、信仰全体に対する冒涜行為と受け取りました。この事件は、インド政府とシク教共同体の間に深刻な亀裂を生み、シク教徒の分離独立運動をさらに過激化させる結果を招きました。作戦から約4ヶ月後の1984年10月31日、インディラ・ガンディー首相は、ブルースター作戦への報復として、自身のシク教徒の警護官によって暗殺されました。この暗殺事件は、インド各地でシク教徒に対する大規模な虐殺を引き起こし、悲劇の連鎖を生むことになりました。
ブルースター作戦は、インド現代史における最も悲劇的な出来事の一つであり、黄金寺院の歴史においても最も暗い一章として記憶されています。聖地が戦場と化したこの事件は、宗教と政治、信仰と暴力が複雑に絡み合った結果であり、その傷跡は今なおシク教徒の集合的記憶の中に深く刻み込まれています。
再建、和解、そして現代における役割

ブルースター作戦によってもたらされた物理的および精神的な荒廃からの復興は、黄金寺院とシク教共同体にとって長く困難な道のりでした。作戦直後、インド政府は自らの手で、破壊されたアーカーン・タクトの再建を試みました。しかし、シク教徒の多くは、自分たちの聖地を攻撃した政府による再建を「サルカーリー・セヴァ」(政府による奉仕)として拒絶し、これを認めませんでした。彼らにとって、聖地の再建は、政府の介入なしに、シク教徒自身の労働奉仕(カール・セヴァ)によって行われるべき神聖な行為でした。
政府によって建てられたアーカーン・タクトは、シク教の最高機関によって正式に解体され、1986年から、全世界のシク教徒の寄付とカール・セヴァによって、伝統に則った再建が開始されました。この再建作業は、ブルースター作戦によって引き裂かれた共同体の心を癒し、再び一つにするための象徴的なプロセスとなりました。多くのシク教徒がアムリトサルを訪れ、瓦礫を運び、レンガを積む作業に参加しました。この共同の努力を通じて、彼らは聖地との絆を再確認し、共同体としての連帯感を回復していきました。
1990年代に入ると、パンジャーブ州の過激な分離独立運動は次第に沈静化し、州には平和が戻り始めました。これに伴い、黄金寺院もまた、かつての静けさと神聖さを取り戻していきました。1995年、シローマニー・グルドワーラー・パルバンダク委員会(SGPC)は、マハーラージャ・ランジート・シン以来となる大規模な改修プロジェクトを開始しました。このプロジェクトでは、寺院の黄金のドームと壁面が、専門の職人たちの手によって再び金箔で覆われ、その輝きが蘇りました。この作業もまた、世界中のシク教徒からの寄付によって賄われ、数年をかけて完了しました。
今日、黄金寺院は、過去の悲劇を乗り越え、シク教の不屈の精神と再生の力を象徴する存在として、これまで以上に輝きを放っています。毎日、平均して10万人以上の人々が、人種、宗教、国籍を問わずこの聖地を訪れます。彼らは、聖なる池の周りを時計回りに歩き、聖典グル・グラント・サーヒブから詠唱される聖歌(キールタン)に耳を傾け、精神的な安らぎを求めます。
黄金寺院の最も注目すべき特徴の一つは、「グル・カ・ランガル」(グルの共同キッチン)です。これは、第五代グル・アルジャン・デヴの時代に制度化された伝統であり、カーストや社会的地位に関係なく、誰もが同じ場所に座り、無料で提供される質素なベジタリアン料理を共にするというものです。このランガルは、24時間365日運営されており、毎日約10万食を提供しています。調理、配膳、清掃といった作業のほとんどは、世界中から訪れるボランティアの労働奉仕(セヴァ)によって支えられています。このランガルは、シク教の核心的な教えである平等、奉仕、そして人類愛を実践する、世界最大級の共同食堂です。
黄金寺院は、単なる歴史的建造物や観光地ではありません。それは、シク教徒にとって「生けるグル」である聖典グル・グラント・サーヒブが鎮座する、信仰の中心そのものです。寺院の建築様式、日々の儀式、そしてランガルの伝統のすべてが、シク教の教えを体現しています。低い位置に建てられた構造は謙虚さを、四方の入口は普遍的な歓迎を、黄金の輝きは神の栄光を、そしてランガルは平等と奉仕の精神を、訪れるすべての人々に静かに語りかけます。
16世紀の創建から、ムガル帝国やアフガン勢力による破壊、シク王国時代の栄光、イギリス統治下の改革に至るまで、黄金寺院はシク教共同体の運命と常に共にありました。
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・黄金寺院《シク教》とは わかりやすい世界史用語2387

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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