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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / トルコ・イラン世界の展開

タブリーズとは わかりやすい世界史用語2354

著者名: ピアソラ
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アゼルバイジャンとは

イラン北西部、東アゼルバイジャン州の州都であるタブリーズは、その地理的な位置から、悠久の歴史を通じて絶えず文化、経済、そして政治の交差点として機能してきました。サハンド山とエイナリ山の火山性丘陵に抱かれた標高約1350メートルから1600メートルの高原に位置し、西にはウルミア湖東岸の平野が広がっています。 この戦略的な立地は、タブリーズを古代からシルクロードの重要な中継点たらしめ、東洋と西洋を結ぶ交易路の要衝として繁栄をもたらしました。 しかし、その一方で、この立地は都市を数々の帝国の興亡の舞台とし、ペルシャ、オスマン、ロシアといった大国間の係争地となる宿命も背負わせました。
タブリーズの歴史は、 記録された歴史が限られているものの、その起源は紀元前にまで遡ると考えられています。 近年の考古学的発掘により、紀元前1千年紀の鉄器時代の墓地が発見されており、この地における人類の定住が古くから存在していたことを示唆しています。 アッシリアの王サルゴン2世の紀元前714年の碑文には、「タウリ」または「タウリス」として言及されており、これがタブリーズに関する最古の記録とされています。
数千年にわたる歴史の中で、タブリーズは幾度となく首都として選ばれてきました。 アトロパテス朝の時代に始まり、モンゴル帝国のイルハン朝、黒羊朝、白羊朝、そしてサファヴィー朝初期に至るまで、様々な王朝がこの都市を帝国の中心としました。 特に13世紀のイルハン朝の時代には、首都として空前の繁栄を迎え、その領域は東はアムダリア川から西はエジプト国境、北はコーカサスから南はインド洋にまで及びました。 この時代、マルコ・ポーロをはじめとする多くの西欧の旅行者がタブリーズを訪れ、その壮麗な建築物や豊かな文化、活気ある商業活動に驚嘆の声を上げています。
しかし、その栄光の歴史は、度重なる天災と人災によって幾度も中断されました。地震はタブリーズの歴史において宿命的な役割を果たし、858年、1041年、1721年、1780年など、記録に残るだけでも複数回の大地震が都市を壊滅的な状況に陥れています。 また、戦略的な要衝であったがゆえに、ティムールによる破壊、オスマン帝国との繰り返される争奪戦、そしてロシア帝国による占領など、侵略と破壊の歴史も経験しました。
それでもなお、タブリーズは不死鳥のように蘇り、その重要性を失うことはありませんでした。特に近代においては、ヨーロッパに最も近いイランの主要都市として、西欧の思想や技術を導入する窓口となり、イラン立憲革命(1905年-1911年)の中心地として、イランの近代化に決定的な役割を果たしました。 サタール・ハーンやバーゲル・ハーンといった革命の英雄たちを輩出し、絶対王政に対する抵抗の象徴となりました。
タブリーズの歴史的建造物の多くは、イルハン朝、サファヴィー朝、ガージャール朝の時代に属しており、中でもタブリーズの歴史的バザール複合体は、その規模と歴史的重要性からユネスコの世界遺産に登録されています。 このバザールは、古代からの商業と文化交流の伝統を今に伝える生きた博物館であり、タブリーズがシルクロードの要衝として果たしてきた役割を物語っています。



古代からイスラーム化以前

タブリーズの古代史は、文献資料が乏しいため、多くの部分が謎に包まれています。 しかし、断片的な記録や考古学的な発見から、その起源が紀元前の古い時代にまで遡ることは確実視されています。この都市の周辺地域は、古代文明が栄えた肥沃な三日月地帯の一部をなし、古くから人類の定住があったと考えられています。
最も古い文明の痕跡として挙げられるのが、1990年代後半にブルーモスクの北側で発掘された鉄器時代の墓地です。 この墓地は紀元前1千年紀のものとされ、タブリーズの地に都市が形成される以前から、一定規模のコミュニティが存在していたことを示唆しています。 この発見は、タブリーズの歴史が単なる伝説や神話ではなく、確固たる考古学的基盤の上に成り立っていることを証明するものです。
文献上の最古の記録は、紀元前714年にアッシリアの王サルゴン2世が残した碑文に見られます。 この碑文には、「タウリ城」または「タルムキス」という地名が記されており、多くの歴史家はこれが現在のタブリーズの原型であると考えています。 サルゴン2世は、ウラルトゥ王国への遠征の途上でこの地を通過したとされ、その記録はタブリーズが当時すでに戦略的に重要な拠点であった可能性を示しています。
一部の研究者、例えばデイヴィッド・ロールは、伝説上のエデンの園がタブリーズ近郊にあったという説を提唱していますが、これは学術的な定説として受け入れられているわけではありません。 しかし、このような説が生まれること自体が、この地域が古くから豊かで魅力的な土地と見なされていたことの傍証と言えるかもしれません。
アレクサンダー大王の東方遠征後、この地域は彼の将軍の一人であるアトロパテスが建国したアトロパテネ王国の一部となりました。 いくつかの資料によれば、タブリーズはこのアトロパテネ王国の首都であったとされています。 アトロパテネという国名は、後にアゼルバイジャンという地名の語源になったと考えられており、タブリーズがこの地域の歴史的中心地であったことを物語っています。
サーサーン朝ペルシャ(224年-651年)の時代になると、タブリーズの存在はより明確になります。 現存するタブリーズの最も古い構造物は、3世紀から4世紀にかけてのサーサーン朝初期、あるいはそれより後の7世紀に建設されたと主張されています。 この時代のタブリーズは、中期ペルシア語で「タウレーシュ」と呼ばれていました。 サーサーン朝時代、タブリーズは交易の拠点として機能していたと考えられています。 この都市は、帝国の北西辺境に位置し、ローマ帝国や後のビザンツ帝国との境界に近いことから、軍事的にも重要な役割を担っていた可能性があります。アルギ・タブリーズ(タブリーズ城塞)の原型も、このサーサーン朝時代に建設が始まったとされています。
また、アルメニアの歴史家ヴァルダン・アレヴェルツィが13世紀に記した伝承によれば、246年にアルメニア王ティリダテス2世が、兄弟の死の復讐としてサーサーン朝のアルダシール1世を撃退し、都市の名前を「シャヒスタン」から「タウリス」に変更したとされています。 これは「この復讐」を意味する言葉に由来すると言われますが、この説は後世の創作であり、古代の史料による裏付けはありません。 しかし、このような伝説が生まれる背景には、アルメニアとこの地域の深いつながりがあったことが窺えます。実際に、297年にはティリダテス3世の首都となったという記録もあり、タブリーズがアルメニア王国の歴史においても重要な位置を占めていた時期があったことを示唆しています。
7世紀にアラブ軍がサーサーン朝を征服し、イラン全土がイスラームの支配下に入る大変動期を迎えます。タブリーズもこの歴史の潮流に飲み込まれ、新たな時代へと移行していくことになります。イスラーム化以前のタブリーズは、断片的な情報しか残されていませんが、アッシリア、アトロパテネ、サーサーン朝、そしてアルメニアといった様々な勢力の影響を受けながら、地域の戦略的・経済的中心地としての基盤を築き上げていった時代であったと言えます。この古代からの歴史の積み重ねが、後のイスラーム時代におけるタブリーズの目覚ましい発展の土台となったのです。
イスラーム化とセルジューク朝時代

7世紀半ば、サーサーン朝ペルシャを滅ぼしたアラブ・イスラーム勢力は、その支配領域をイラン高原全域へと拡大しました。タブリーズもこの歴史的な変革の波に乗り、イスラーム世界の新たな一都市として再出発することになります。この征服により、ゾロアスター教が中心であったこの地域にイスラームがもたらされ、社会や文化は徐々に変容していきました。
イスラーム化初期のタブリーズに関する記録は乏しいですが、この都市がアゼルバイジャン地方の行政の中心地の一つとして機能し続けたことは間違いありません。ウマイヤ朝、アッバース朝の時代を通じて、タブリーズはアラブ人の総督によって統治されました。この時期、都市にはモスクが建設され、アラビア語が行政と学問の言語として導入されました。しかし、住民の多くは依然としてペルシア語の方言や、後のアゼリー語の祖先となる言語を話し続けていたと考えられます。
アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードの妻ズバイダが、791年に地震で破壊されたタブリーズを再建し、美しくしたという伝承があります。 この出来事が事実であれば、タブリーズが当時すでに重要な都市と認識されていたことを示しています。しかし、この時代もタブリーズは天災に見舞われ続け、858年には再び大地震が発生し、都市に大きな被害をもたらしました。
アッバース朝の中央集権体制が弱体化し始めた9世紀後半から10世紀にかけて、イラン各地で半独立的な王朝が興亡します。アゼルバイジャン地方もその例外ではなく、様々な地方勢力が覇権を争いました。10世紀には、アルダビールが一時的にアゼルバイジャンの首都としての地位を占めましたが、すぐに西へ約130マイル離れたタブリーズがその地位を奪い返しました。 この頃から、タブリーズは極東、中央アジア、そしてメソポタミア、地中海、アナトリア、コンスタンティノープルを結ぶ重要な交易拠点としての地位を確立し始めます。 さらに、北はコーカサスを経由してウクライナ、クリミア、東ヨーロッパへと至る交易路の結節点ともなりました。
11世紀に入ると、中央アジアからテュルク系の遊牧民であるセルジューク族が大規模な移動を開始し、イラン高原を席巻します。1055年、セルジューク朝はバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を授与され、イスラーム世界の新たな支配者となりました。タブリーズを含むアゼルバイジャン地方もセルジューク朝の支配下に入ります。
セルジューク朝の時代、タブリーズはさらなる発展を遂げました。テュルク系の人々の流入は、この地域の言語的・民族的構成に大きな影響を与え、テュルク語系の言語(後のアゼリー語)が広く話されるようになる素地を作りました。セルジューク朝の支配者たちは都市のインフラ整備に関心を示し、タブリーズは商業都市としてだけでなく、文化的な中心地としても栄えました。この時代の建築様式は、後の時代のタブリーズの建築にも影響を与えています。例えば、ブルーモスクにはセルジューク朝建築の影響が見られると指摘されています。
しかし、セルジューク朝の広大な帝国は、11世紀末のマリク・シャーの死後、後継者争いによって分裂し始めます。イランの各地でアタベク(君主の子弟の養育官)たちが自立し、アタベク政権を樹立しました。アゼルバイジャン地方もその例外ではなく、イルデニズ朝(アゼルバイジャン・アタベク朝)がこの地域を支配下に置きました。タブリーズは、イルデニズ朝の下でも引き続き地域の中心都市としてその重要性を維持しました。
このイスラーム化からセルジューク朝、そしてアタベク政権に至る時代は、タブリーズがペルシア文化とテュルク文化の融合する地としての性格を強め、シルクロード交易のハブとしての地位を不動のものとしていく重要な時期でした。度重なる地震という自然の猛威に耐えながらも、都市は着実に成長を続け、次の時代に訪れるモンゴル帝国による支配と、それに続く空前の繁栄期への準備を整えていったのです。この時期に培われた商業的ネットワークと文化的多様性が、タブリーズを世界的な大都市へと飛躍させる原動力となりました。
モンゴル帝国とイルハン朝の首都

13世紀初頭、中央アジアの草原からチンギス・カンに率いられたモンゴル軍が西アジアに侵攻し、世界史を塗り替える巨大な嵐を巻き起こしました。1220年から1222年にかけて、モンゴルの将軍ジェベとスブタイが率いる分遣隊がアゼルバイジャン地方を席巻し、タブリーズもその脅威に晒されました。都市の指導者たちは、巧みな外交と貢納によって徹底的な破壊を免れたと伝えられています。
チンギス=ハンの孫であるフレグが率いるモンゴル軍の西アジア遠征は、この地域に恒久的なモンゴル支配を確立しました。1256年、フレグはアラムートのニザール派(暗殺教団)を滅ぼし、1258年にはアッバース朝の首都バグダードを陥落させ、カリフを処刑しました。これにより、イスラーム世界の政治的中心は大きく揺らぎました。フレグは、征服したイラン、イラク、アナトリア東部を含む広大な領域を統治するため、イルハン朝を創始しました。 当初、首都はマラーゲに置かれましたが、1265年、フレグの後継者であるアバカ・ハンの治世に、タブリーズがイルハン朝の正式な首都に選ばれました。
タブリーズが首都に選ばれたのは、北西部の草原地帯というその立地が、モンゴルの遊牧的な生活様式に適していたためです。 この遷都は、タブリーズの歴史における最大の転換点の一つであり、都市を未曾有の繁栄へと導きました。イルハン朝の首都として、タブリーズはアナトリアからオクサス川(アムダリア川)、コーカサスからインド洋に至る広大な帝国の政治、行政、経済の中心地となったのです。
1295年に即位した第7代君主ガザン=ハンの治世は、タブリーズの黄金時代の頂点とされています。 ガザン・ハンはイスラームに改宗し、イルハン朝の国教としました。 彼は有能な宰相ラシードゥッディーンの助言のもと、大規模な改革を断行しました。タブリーズでは、都市を取り囲む新たな城壁が建設され、モスク、マドラサ(神学校)、病院、図書館、天文台、キャラバンサライ(隊商宿)といった数多くの公共施設が次々と建てられました。 ガザン・ハンは自らの霊廟を核とする壮大な複合施設「シャンビ・ガザン」を建設し、そこには学者や職人が集められました。
この時代のタブリーズは、真の国際都市でした。シルクロードの要衝として、東西から商人、学者、芸術家、職人が集まり、多様な文化が交錯しました。 1275年頃にタブリーズを通過したヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは、その旅行記『東方見聞録』の中で、タブリーズを「美しく快適な庭園に囲まれた大都市」と称賛し、「多くの地域から商品が集まる絶好の立地にある。特にジェノヴァ商人をはじめとするラテン商人が、外国から来る商品を買うためにそこへ行く」と記しています。 彼の記述は、タブリーズが当時の世界経済においていかに重要な役割を果たしていたかを物語っています。
イルハン朝の宮廷は、芸術と学問の保護にも熱心でした。ペルシアの伝統的な細密画は、中国絵画の技法を取り入れて新たな様式を生み出し、「タブリーズ派」として知られるようになりました。ラシードゥッディーンが編纂を命じた歴史書『集史』は、モンゴル帝国史のみならず、世界各地の歴史を網羅した画期的な著作であり、その挿絵はタブリーズ派細密画の傑作とされています。また、イルハン朝は絹織物の生産でも知られ、タフタや錦などの高級織物が宮廷工房で生産されました。
宗教的な多様性もこの時代のタブリーズの特徴でした。ガザン・ハンのイスラーム改宗後、イスラームが国教となりましたが、キリスト教徒やユダヤ教徒のコミュニティも存在し続けました。 ビザンツ帝国の学者グレゴリー・キオニアデスがこの時期にタブリーズの正教会の主教を務めたとされ、ドミニコ会も布教拠点を置いていました。
しかし、イルハン朝の栄華は長くは続きませんでした。1335年にアブー・サイード・ハンが後継者を残さずに死去すると、帝国は急速に分裂し、各地でジャライル朝やチョバン朝といった後継王朝が乱立する内乱状態に陥りました。 さらに、14世紀半ばには黒死病(ペスト)の大流行がタブリーズを襲い、多くの人命が失われました。
1392年、中央アジアから現れた新たな征服者ティムールがタブリーズを攻略し、都市は略奪の被害を受けました。 ティムールは息子のミーラーン・シャーをこの地の総督に任命しました。 イルハン朝の首都としての輝かしい時代は終わりを告げましたが、この時代に築かれた国際的な商業都市としての基盤と、高度な文化的水準は、その後のタブリーズの歴史にも大きな遺産として受け継がれていくことになります。タブリーズが経験したこの空前の繁栄は、都市のアイデンティティを深く形作り、後世の人々にとっての栄光の記憶として語り継がれることになりました。
黒羊朝と白羊朝の時代:テュルクメン王朝の首都

14世紀末のティムールによる侵攻とイルハン朝の崩壊は、イランとアゼルバイジャン地方に権力の空白を生み出しました。この混乱の中から台頭してきたのが、テュルクメン系の遊牧民を主体とする二つの王朝、黒羊朝(カラ・コユンル)と白羊朝(アク・コユンル)です。タブリーズは、これらテュルクメン王朝の興亡の舞台となり、再び首都としての地位を取り戻しました。
まずこの地域で覇権を握ったのは黒羊朝でした。1375年から1468年にかけて、タブリーズは黒羊朝の首都となりました。 ティムールの死後、その帝国が弱体化すると、黒羊朝の指導者カラ・ユースフは勢力を拡大し、アゼルバイジャンとイラクの支配を確立しました。タブリーズは再び政治の中心地となり、活気を取り戻しました。
黒羊朝の治世で最も文化的な繁栄を謳歌したのは、ジャハーン・シャー(在位1438年-1467年)の時代です。 彼は詩人としても知られ、芸術と建築を厚く保護しました。この時代にタブリーズで建設された最も有名な建造物が、マスジェデ・カブード、すなわち「ブルーモスク」です。 1465年に完成したこのモスクは、その名の通り、息をのむほど美しい青を基調としたタイル装飾で知られています。 複雑な幾何学模様やアラベスク、そして書道文様が施されたタイルは、当時のタイル職人の技術の粋を集めたものであり、ペルシア・イスラーム建築の最高傑作の一つとされています。 ブルーモスクの建設は、タブリーズが黒羊朝の下で高度な文化的水準を維持していたことを象徴しています。
しかし、黒羊朝の支配は長くは続きませんでした。東アナトリアを拠点とするライバルの白羊朝が勢力を伸ばし、ジャハーン・シャーに挑戦しました。1467年、白羊朝の君主ウズン・ハサンはジャハーン・シャーを破って殺害し、黒羊朝の領土を併合しました。
1469年、ウズン・ハサンはタブリーズを自らの帝国の首都と定め、1501年までその地位は続きました。 白羊朝の時代も、タブリーズは政治と経済の中心地として繁栄を続けました。ウズン・ハサンはヴェネツィア共和国と外交関係を結び、共通の敵であるオスマン帝国に対抗しようと試みました。彼の宮廷にはヨーロッパからの使節も訪れ、タブリーズの国際的な性格は維持されました。
この黒羊朝と白羊朝の時代は、タブリーズの歴史において、テュルク系の文化とペルシア文化の融合がさらに進んだ時期でした。支配者層はテュルクメン系の遊牧民でしたが、行政や文化の担い手はペルシア人の官僚や学者が多く、宮廷ではペルシア語が広く用いられました。この二重性は、この地域の文化的アイデンティティを形成する上で重要な役割を果たしました。
また、この時代は後のイラン史にとって極めて重要な伏線が張られた時期でもあります。アルダビールを拠点とするサファヴィー教団が、シーア派の教えを掲げてテュルクメン遊牧民の間に急速に支持を広げていました。白羊朝は、このサファヴィー教団の勢力拡大を警戒し、その指導者であったシャイフ・ジュナイドやシャイフ・ハイダルを殺害するなど、弾圧を試みました。しかし、この弾圧は逆にサファヴィー教団の結束を強め、復讐の念を燃え上がらせる結果となりました。
白羊朝はウズン・ハサンの死後、後継者争いで内紛状態に陥り、急速に弱体化します。この好機を捉えたのが、殺害されたシャイフ・ハイダルの息子であり、白羊朝の王女を母に持つ若きイスマーイールでした。彼はサファヴィー教団の信奉者であるテュルクメン兵(クズルバシュ)を率いて蜂起し、1501年、ついに白羊朝の軍隊を破り、その首都タブリーズに無血入城を果たしました。
黒羊朝と白羊朝の時代は、イルハン朝後の混乱期からサファヴィー朝という新たな統一王朝の出現へと至る過渡期にあたります。タブリーズは、このテュルクメン王朝の首都として、政治的・文化的な中心性を保ち続けました。そして、ブルーモスクに代表されるような不朽の文化遺産を生み出し、次なる時代の幕開けを準備したのです。
サファヴィー朝の最初の首都

1501年、若き指導者イスマーイール1世に率いられたサファヴィー教団の軍勢がタブリーズに入城したことは、イラン史における画期的な出来事でした。 イスマーイール1世は、この都市でシャー(王)を名乗り、サファヴィー朝の建国を宣言しました。 そして、タブリーズをその新たな帝国の首都と定めたのです。 これは、9世紀のサーマーン朝以来、約6世紀ぶりにイラン系の王朝がイランの地で樹立されたことを意味し、イランの国民的アイデンティティの再興の象徴と見なされています。
サファヴィー朝の成立がもたらした最も大きな変革は、十二イマーム派シーア派を国教と定めたことでした。 それまでスンナ派が多数を占めていたイランにおいて、この政策は極めて大胆なものであり、社会に大きな影響を与えました。タブリーズは、このシーア派化政策の中心地となり、新たな宗教的アイデンティティが形成されていく拠点となりました。この宗教政策は、東のスンナ派のウズベク、西のスンナ派のオスマン帝国との間に明確な宗教的境界線を引き、サファヴィー朝の独自性を際立たせることになりました。
首都となったタブリーズは、再び活気を取り戻し、繁栄の時代を迎えました。 イスマーイール1世の宮廷は、芸術家や職人を庇護し、特に細密画の分野で目覚ましい発展を遂げました。 彼の治世に制作された写本は、以前のテュルクメン様式を受け継ぎつつ、サファヴィー朝独自の華麗なスタイルを確立していきました。 この時代にタブリーズで花開いた芸術は、後のサファヴィー朝美術の基礎を築きました。
しかし、サファヴィー朝の首都としてのタブリーズの栄光は、地政学的な脅威によって常に脅かされていました。東アナトリアを支配するスンナ派の大国オスマン帝国は、シーア派を掲げるサファヴィー朝の台頭を深刻な脅威と見なしていました。特に、サファヴィー朝のクズルバシュ(テュルクメン兵)の教宣活動がアナトリア東部のテュルクメン遊牧民に影響を及ぼすことを警戒していました。
1514年、オスマン帝国のスルタン、セリム1世は、サファヴィー朝を討伐するため大軍を率いて東方へ遠征しました。 両軍はタブリーズの西、チャルディラーンの平原で激突しました。このチャルディラーンの戦いで、火器(大砲や鉄砲)を装備したオスマン軍は、騎馬と弓矢を主体とするサファヴィー軍に圧勝しました。 イスマーイール1世は負傷して戦場から逃れ、サファヴィー軍は壊滅的な打撃を受けました。
戦いに勝利したセリム1世は、サファヴィー朝の首都タブリーズに進軍し、都市を占領・略奪しました。 オスマン軍は、タブリーズから多くの職人や芸術家をイスタンブールへ連行したと伝えられています。 しかし、冬の到来と兵站の問題から、オスマン軍は長期間タブリーズに留まることはできず、間もなく撤退しました。 イラン軍はタブリーズを奪還しましたが、この出来事はサファヴィー朝に深刻な衝撃を与えました。
チャルディラーンの敗北は、タブリーズがオスマン帝国の脅威に対してあまりにも脆弱であることを露呈させました。その後も、オスマン帝国との戦争は断続的に続きます。1534年には、スレイマン1世の治世下で、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャが再びタブリーズを占領しました。
度重なるオスマン軍の侵攻を受け、イスマーイール1世の後継者であるタフマースブ1世は、首都の移転を決断します。 1555年(一部の資料では1548年)、タフマースブ1世は首都をタブリーズから、より内陸で安全なガズヴィーンへと移しました。 これにより、タブリーズは約半世紀にわたるサファヴィー朝最初の首都としての役割を終えました。
首都の地位を失った後も、タブリーズは依然としてアゼルバイジャン地方の中心都市であり、重要な商業拠点であり続けました。 しかし、オスマン帝国との国境地帯というその立地は、都市にさらなる苦難をもたらします。1578年から1590年にかけてのオスマン・サファヴィー戦争の結果、タブリーズは1585年から1603年までの約18年間、オスマン帝国の占領下に置かれました。
17世紀初頭、サファヴィー朝の最も偉大な君主の一人であるアッバース1世(大王)が登場します。彼は軍制改革を断行し、失地回復を目指しました。1603年、アッバース1世は巧みな奇襲作戦によってタブリーズをオスマン帝国から奪還することに成功します。 地元の住民はサファヴィー軍を解放者として歓迎したと伝えられています。 アッバース1世の下でタブリーズは復興し、オスマン帝国、ロシア、コーカサスとの交易の中心地として再び繁栄しました。
しかし、その後もタブリーズを巡る争いは続きました。1635年にはオスマン帝国のムラト4世によって再び占領・略奪されましたが、1639年のズハーブ条約によってイランに返還されました。 さらに、1641年には壊滅的な大地震が発生し、都市は大きな被害を受けました。
サファヴィー朝時代、タブリーズは王朝の揺籃の地であり、最初の首都として栄光を極めましたが、同時にオスマン帝国との絶え間ない闘争の最前線となり、占領と破壊、そして遷都という苦難を経験しました。この時代の経験は、タブリーズの歴史に深い刻印を残し、その不屈の精神を象徴するものとなりました。
ガージャール朝時代と近代化の黎明

18世紀、サファヴィー朝の衰退とアフガン人の侵入、そしてナーディル・シャーやカリーム・ハーン・ザンドの短い治世といった混乱期を経て、18世紀末にイランの新たな支配者として登場したのが、テュルクメン系のガージャール族でした。ガージャール朝(1794年-1925年)の時代、タブリーズは首都テヘランに次ぐ第二の都市として、そして皇太子の居住地として、政治的・経済的に極めて重要な役割を担うことになりました。
ガージャール朝の慣習では、皇太子(ワリーアード)はアゼルバイジャン州の総督としてタブリーズに居住し、将来の統治者としての経験を積むことになっていました。 このため、タブリーズは事実上の副首都として機能し、多くの政府機関や外国の領事館が置かれました。 皇太子の宮廷は、首都テヘランとは別に、独自の政治的・文化的中心を形成していました。
19世紀前半、タブリーズは二度にわたるロシア・ペルシャ戦争(1804年-1813年、1826年-1828年)の最前線となりました。 特に、当時の皇太子であったアッバース・ミールザーは、これらの戦争の遂行において中心的な役割を果たしました。彼は、ロシア軍の近代的な軍事力の前に繰り返し敗北を喫した経験から、イランの近代化の必要性を痛感しました。
アッバース・ミールザーは、タブリーズを拠点として、イランで最初の近代化改革に着手しました。 彼はフランスやイギリスの軍事顧問を招聘し、ヨーロッパ式の軍隊「ニザーメ・ジャディード(新制度軍)」を創設しようと試みました。 また、彼はヨーロッパから産業機械を輸入し、最初の近代的な郵便制度を導入し、軍制改革や税制改革にも取り組みました。 さらに、ヨーロッパへ留学生を派遣するなど、西欧の知識と技術の導入に積極的に努めました。1830年代には、イギリスと協力してタブリーズとオスマン帝国の黒海沿岸の港トラブゾンを結ぶ新たな交易路を開設し、タブリーズの商業的重要性をさらに高めました。 これらの改革は、タブリーズをイラン近代化の揺りかごとしての地位に押し上げました。
しかし、第二次ロシア・ペルシャ戦争(1826年-1828年)は、タブリーズにとって悲劇的な結果をもたらしました。1827年10月、ロシア軍はタブリーズを占領しました。 翌1828年に締結されたトルコマーンチャーイ条約により、イランはコーカサス地方の広大な領土をロシアに永久割譲することを余儀なくされました。 ロシア軍は条約締結後にタブリーズから撤退しましたが、その後もロシアの政治的・経済的影響力はイラン北西部に深く浸透し続けました。
19世紀後半、タブリーズはイランで最も人口の多い都市となり、テヘランを凌ぐほどの経済的中心地へと成長しました。 ヨーロッパとの交易の主要な玄関口として、多くの外国商社が拠点を置き、活発な商業活動が展開されました。 この経済的な繁栄とヨーロッパとの緊密な接触は、新しい思想や情報がタブリーズに流入する土壌を育みました。
この時期、タブリーズは印刷技術やジャーナリズムといった近代的なメディアがイランで最初に導入される場所の一つとなりました。 新聞が発行され、ヨーロッパの書籍が翻訳・出版されるようになり、立憲主義やナショナリズムといった西欧の政治思想が知識人や商人たちの間に広まっていきました。タブリーズの商人階級(バザール商人)は、経済的な実力とヨーロッパとのつながりを背景に、ガージャール朝の中央政府の専制的な支配や、外国勢力への経済的従属に対して、次第に批判的な姿勢を強めていきました。
19世紀を通じて、タブリーズは度重なる自然災害や疫病にも見舞われました。1780年の大地震は都市をほぼ完全に破壊し、数万人の命を奪いました。その後、都市は再建されましたが、地震の脅威は常に存在し続けました。また、1830年代と1840年代にはコレラが流行し、多くの住民が犠牲となりました。
このような困難な状況にもかかわらず、タブリーズの社会はダイナミズムを失いませんでした。19世紀半ばには、シーラーズ出身のサイイド・アリー・ムハンマドが創始したバーブ教がイラン全土に広がり、タブリーズもその影響を強く受けました。1850年、バーブ自身がタブリーズの兵舎の中庭で公開処刑されました。この出来事は、彼の信奉者たちに深い衝撃を与え、後のバハイ教の成立へとつながっていくことになります。
ガージャール朝時代、特に19世紀は、タブリーズが皇太子の居住地として政治的な重要性を持ち、ヨーロッパへの窓口として経済的に繁栄し、そして近代的な思想や技術が導入される改革の拠点となった時代でした。しかし同時に、外国勢力、特にロシアの圧力に晒され、戦争と占領の苦しみを味わった時代でもありました。この栄光と苦難が交錯する経験は、タブリーズの住民の間に強い政治意識と抵抗の精神を育み、20世紀初頭にイラン全土を揺るがすことになる立憲革命の主導的な役割を担うための素地を形成していったのです。
イラン立憲革命の中心地として

20世紀初頭、ガージャール朝の腐敗、経済の破綻、そして外国勢力(特にロシアとイギリス)への従属に対する国民の不満は頂点に達していました。この不満が爆発し、イランの近代史を決定づける一大政治運動となったのが、イラン立憲革命(1905年-1911年)です。この革命において、タブリーズは最も重要な拠点となり、その住民は革命の原動力として中心的な役割を果たしました。
革命の火蓋は首都テヘランで切られましたが、運動が全国的な広がりを見せる上で、タブリーズの参加は決定的な意味を持ちました。タブリーズの商人、知識人、聖職者、そして一般市民は、専制政治に終止符を打ち、憲法(マシュルーテ)の制定と国会(マジュレス)の開設を求める運動に熱狂的に合流しました。タブリーズには、革命思想を普及させるための秘密結社や政治団体(アンジョマン)が数多く設立され、中でも「アンジョマネ・アヤラティ(地方評議会)」は、事実上の革命政府として機能しました。
1906年、国王モザッファロッディーン・シャーは国民の要求に屈し、憲法の制定と国会の開設を承認しました。タブリーズからも代議士が選出され、第一回国会に参加しました。しかし、1907年にモザッファロッディーン・シャーが死去し、専制主義者であった息子のモハンマド・アリー・シャーが即位すると、革命は大きな危機を迎えます。
モハンマド・アリー・シャーは、ロシア帝国の支援を受け、革命を弾圧する機会を窺っていました。1908年6月、彼はロシア人士官に率いられたペルシア・コサック旅団を使ってテヘランの国会議事堂を砲撃し、多くの国会議員や革命指導者を逮捕・処刑しました。これにより、テヘランにおける革命運動は一時的に鎮圧され、イラン全土に暗黒時代(小専制時代)が訪れました。
しかし、タブリーズは屈しませんでした。テヘランの国会が破壊されたというニュースが届くと、タブリーズの市民は蜂起し、専制政府に対する武装抵抗を開始しました。この抵抗運動の指導者として歴史に名を刻んだのが、サタール・ハーンとバーゲル・ハーンです。サタール・ハーンは元馬商人、バーゲル・ハーンは石工の親方という、いずれも庶民出身の人物でした。彼らは、ムジャーヒディーン(義勇兵)と呼ばれる市民兵を率いて、圧倒的な兵力を誇る政府軍と王党派の部族軍に対して、英雄的な戦いを繰り広げました。
タブリーズの革命派は、市内の各地区にバリケードを築き、ゲリラ戦を展開しました。約11ヶ月にわたる包囲戦の間、タブリーズの住民は深刻な食糧不足と絶え間ない砲撃に苦しめられましたが、彼らの抵抗の意志は揺らぎませんでした。タブリーズの闘いは、イラン全土の立憲派にとって希望の光となり、各地で反専制の動きが再燃するきっかけとなりました。
タブリーズの抵抗が長引く中、ロシアとイギリスは自国民の保護を口実に介入を強めました。1909年4月、ロシアはタブリーズの包囲を解くという名目で軍隊を派遣し、都市を占領しました。これは事実上、革命の精神を打ち砕くための行動でした。ロシア軍の介入により、サタール・ハーンとバーゲル・ハーンはタブリーズを離れ、テヘランへ向かうことを余儀なくされました。
しかし、タブリーズの英雄的な抵抗は無駄ではありませんでした。タブリーズの闘いに鼓舞された他の都市の革命派(特にギーラーンとエスファハーン)がテヘランへ進軍し、1909年7月、ついに首都を解放しました。モハンマド・アリー・シャーはロシア公使館へ逃げ込み、後に廃位されました。こうして、立憲政治は復活を遂げたのです。
立憲革命におけるタブリーズの役割は、単に一つの都市の抵抗にとどまるものではありませんでした。それは、イラン国民が自らの手で未来を切り開こうとする意志の象徴でした。サタール・ハーンとバーゲル・ハーンは、国民的英雄としてイラン史にその名を刻みました。タブリーズは「革命の揺りかご」としての名声を不動のものとし、その後のイランの政治史においても、常に改革と抵抗の精神を象徴する都市であり続けました。しかし、革命の勝利はロシアによる長期的な軍事占領という代償を伴うものであり、タブリーズはその後も外国勢力の干渉に苦しめられることになります。
二つの世界大戦とパフラヴィー朝時代

イラン立憲革命は立憲政治を復活させましたが、イランが直面していた根本的な問題、すなわち国内の政治的混乱と外国勢力の干渉を解決するには至りませんでした。特にタブリーズを含むイラン北部は、革命後もロシア軍の占領下に置かれ続け、その主権は大きく制限されていました。
第一次世界大戦(1914年-1918年)が勃発すると、公式には中立を宣言したイランでしたが、その領土はロシア、イギリス、オスマン帝国の軍隊が衝突する戦場と化しました。タブリーズは、その戦略的な位置から、再び争奪の的となりました。戦争中、タブリーズはロシア軍とオスマン軍によって交互に占領され、都市は大きな混乱と被害に見舞われました。1917年のロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると、ロシア軍はイランから撤退し、タブリーズはようやく長期にわたる占領から解放されました。
第一次世界大戦後の混乱の中から台頭したのが、ペルシア・コサック旅団の司令官であったレザー・ハーンでした。彼は1921年にクーデターを成功させて実権を掌握し、1925年にはガージャール朝を廃して自らがシャー(皇帝)となり、パフラヴィー朝を創始しました。
レザー・シャーの治世下で、イランは強力な中央集権化と近代化政策を推し進めました。タブリーズもこの国家的なプロジェクトの例外ではありませんでした。近代的な教育制度が導入され、新しい学校が建設されました。都市のインフラも整備され、古い城壁が取り壊されて新しい大通りが建設されるなど、都市景観は大きく変貌しました。1938年には、テヘランとタブリーズを結ぶ鉄道が開通し、両都市間の結びつきは一層強まりました。
しかし、レザー・シャーの近代化は、権威主義的な手法によるものでした。彼はあらゆる地方の抵抗や民族的なアイデンティティを抑圧し、ペルシア語を唯一の公用語とする強力な同化政策を推進しました。アゼルバイジャン地方では、テュルク語系のアゼリー語の学校での使用や出版が禁止されました。これは、独自の言語と文化に強い誇りを持つタブリーズの住民にとって、大きな不満の原因となりました。立憲革命の中心地であったタブリーズの政治的自由も奪われ、かつての活気ある政治活動は影を潜めました。
第二次世界大戦(1939年-1945年)が始まると、イランは再び地政学的な渦に巻き込まれます。レザー・シャーが親ドイツ的な姿勢を示したことを警戒したイギリスとソビエト連邦は、1941年8月、イランに侵攻しました(アングロ・ソビエトによるイラン侵攻)。レザー・シャーは退位を余儀なくされ、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーが後を継ぎました。この侵攻により、タブリーズを含むイラン北部はソビエト軍の占領下に置かれ、南部はイギリス軍の管理下に置かれました。
ソビエトの占領は、タブリーズにおける政治状況を再び一変させました。ソビエトの支援のもと、アゼルバイジャンの民族主義者や左翼勢力が力をつけ、1945年12月、ジャアファル・ピーシェヴァリーを首班とする「アゼルバイジャン人民政府」がタブリーズで樹立を宣言しました。この人民政府は、アゼリー語を公用語とし、土地改革などの社会改革を実施しました。これは、パフラヴィー朝の中央集権的な支配に対する反発と、長年抑圧されてきた民族的アイデンティティの表明でした。
しかし、この人民政府は短命に終わりました。第二次世界大戦が終結し、冷戦が始まると、アメリカの支援を受けたイラン中央政府は、ソビエトに対してイランからの撤退を強く要求しました。国際的な圧力のもと、ソビエト軍は1946年5月にイランから撤退しました。後ろ盾を失ったアゼルバイジャン人民政府は、同年12月に進駐してきたイラン政府軍の前に崩壊しました。人民政府の関係者の多くは処刑されるか、ソビエト連邦へ亡命しました。
この一連の出来事は、タブリーズの住民に深い傷跡を残しました。一方で、それはアゼルバイジャンの民族的アイデンティティの強さを示すものであり、他方で、大国の思惑に翻弄される地方の悲劇を物語るものでした。
その後、モハンマド・レザー・シャーの治世下で、タブリーズは工業都市として発展を遂げました。トラクター製造工場や機械工場、石油化学コンビナートなどが建設され、イランにおける重要な産業拠点の一つとなりました。大学も設立され、教育水準も向上しました。しかし、政治的な自由は依然として抑圧され、シャーの秘密警察(SAVAK)による監視が社会を覆っていました。経済発展の恩恵は一部に偏り、多くの市民の不満は燻り続けていました。この抑圧されたエネルギーは、1970年代後半に再び爆発し、タブリーズをイスラーム革命の主要な舞台の一つへと押し上げていくことになります。
イスラーム革命と現代

1970年代後半、モハンマド・レザー・シャーの独裁的な統治、西欧化政策への反発、そして経済格差の拡大などを背景に、イラン全土で反政府運動が急速に拡大しました。このイラン・イスラーム革命において、タブリーズは再び歴史の表舞台に立ち、革命の進展に決定的な役割を果たしました。
革命の導火線の一つとなったのが、1978年2月18日にタブリーズで発生した大規模な反政府デモです。このデモは、同年1月に宗教都市ゴムで起きたデモの際に治安部隊によって殺害された学生たちの死後40日目に行われた追悼集会がきっかけでした。当初は平和的に始まった集会でしたが、警察の発砲によって一人の若者が殺害されたことを機に、怒れる群衆が銀行や映画館、政府系の建物を襲撃するなど、暴動へと発展しました。
この「タブリーズ蜂起」は、シャー政権に深刻な衝撃を与えました。政府は軍隊を投入して暴動を鎮圧し、多くの死傷者が出ました。しかし、この弾圧は国民の怒りをさらに煽る結果となり、タブリーズの犠牲者のための追悼集会が40日周期でイラン各地の都市で開催され、反政府運動が全国的に拡大していくという「40日のサイクル」を生み出しました。タブリーズの蜂起は、それまで散発的であった反政府運動を、持続的かつ全国的な革命のうねりへと転換させる上で極めて重要な転換点となったのです。
1979年2月、革命が勝利し、ルーホッラー・ホメイニー師を最高指導者とするイスラーム共和国が樹立されました。しかし、革命後のタブリーズは、新たな政治的緊張の中心地となりました。アゼルバイジャン地方は、ホメイニー師と並ぶ高位の聖職者であり、より穏健でリベラルなイスラーム統治を主張していた大アーヤトッラー、カゼム・シャリーアトマダーリーの強力な地盤でした。
1979年12月、新憲法の是非を問う国民投票が行われた際、シャリーアトマダーリーは、最高指導者に絶大な権力を与える「法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)」の条項に反対を表明しました。これに呼応して、タブリーズではシャリーアトマダーリーを支持する大規模なデモが発生し、一時は彼の支持者が放送局や政府庁舎を占拠する事態にまで発展しました。これは、革命後の新体制に対する最初の深刻な挑戦でした。しかし、この動きはホメイニー師を支持するイスラーム革命防衛隊によって鎮圧され、シャリーアトマダーリーは最終的に失脚し、自宅軟禁下に置かれました。
1980年に始まったイラン・イラク戦争(1980年-1988年)では、タブリーズは直接的な戦場にはなりませんでしたが、後方支援の拠点として重要な役割を果たしました。また、イラク軍による空爆の標的となることもあり、市民生活にも影響が及びました。
戦争終結後、タブリーズは復興と経済発展の道を歩み始めました。タブリーズの歴史的バザール複合体は、その規模と歴史的重要性から、2010年にユネスコの世界遺産に登録されました。この広大なバザールは、迷路のような通路、ドーム型の天井、そして数多くのキャラバンサライやモスクを含み、古代から続く商業と文化交流の伝統を今に伝える生きた博物館として、多くの観光客を惹きつけています。
経済面では、タブリーズは自動車産業、機械工業、石油化学、セメント、繊維、食品加工など、多様な産業が集積するイラン有数の工業都市としての地位を確立しています。また、手織り絨毯の生産でも世界的に有名であり、タブリーズ産の絨毯は、その精緻なデザインと高い品質で最高級品とされています。
文化的には、タブリーズはアゼリー語話者が多数を占めるイラン・アゼルバイジャン地方の中心であり、独自の文学、音楽、食文化を育んできました。タブリーズ大学をはじめとする高等教育機関も充実しており、多くの学生が集まる学術都市としての一面も持っています。
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・タブリーズとは わかりやすい世界史用語2354

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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