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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / トルコ・イラン世界の展開

サファヴィー朝とは わかりやすい世界史用語2347

著者名: ピアソラ
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サファヴィー朝とは

サファヴィー朝は、1501年から1736年までイランを統治した王朝であり、イランの歴史において最も重要な時代の一つと見なされています。 この王朝の成立は、イランの近代史の幕開けとされ、オスマン帝国やムガル帝国と並ぶ「火薬帝国」の一つに数えられています。 サファヴィー朝は、イランのアイデンティティを再興し、イラン高原を統治する初の現地王朝として、ブワイフ朝以来の国家を築き上げました。 その統治期間中、イランは東西の経済的な拠点として復活し、効率的な国家と官僚制度が確立されました。 また、建築における革新や美術への後援も、サファヴィー朝が残した重要な遺産です。
サファヴィー朝の最も顕著な功績は、十二イマーム派シーア派イスラームを国教として制定したことです。 この決定は、イスラームの歴史における最も重要な転換点の一つとなり、イラン国内の多様な民族的・言語的要素の間に統一された国民意識を形成する上で大きな要因となりました。 サファヴィー朝は、中東、中央アジア、コーカサス、アナトリア、ペルシャ湾、メソポタミアの主要な地域にシーア派イスラームを広める上でも重要な役割を果たしました。 何世紀にもわたる非イラン系の王による支配の後、イランはイスラーム世界における独立した大国としての地位を確立しました。
サファヴィー朝の起源は、アルダビール市で設立されたサファヴィー教団というスーフィー教団にあります。 この家系はイランのクルド系を祖先とすると考えられていますが、統治期間中にはトルクメン人、グルジア人、チェルケス人、ポントス系ギリシャ人の高官と婚姻関係を結びました。 その結果、彼らはペルシア語話者であるだけでなく、トルコ語話者でもあり、トルコ化していきました。 アルダビールを拠点として、サファヴィー家は大イランの一部を支配下に置き、この地域のイラン的アイデンティティを再確認させました。
サファヴィー朝の権力基盤は、当初、クズルバシュとして知られるトルクメン人の戦士たちでした。 彼らはサファヴィー教団の指導者に対する精神的な信奉者であり、王朝の軍事的・政治的な力の源泉でした。 しかし、王朝の歴史を通じて、特にアッバース1世の治世下で、クズルバシュの力は徐々に抑制され、代わりにグルジア人、チェルケス人、アルメニア人などからなる「第三勢力」が台頭し、官僚機構や軍隊で重要な役割を担うようになりました。
サファヴィー朝の歴史は、その創始者であるイスマーイール1世による建国、タフマースブ1世の長い治世、そしてアッバース1世の下での黄金時代、そしてその後の緩やかな衰退と最終的な崩壊という、いくつかの明確な時期に分けることができます。 この王朝は、西のオスマン帝国、北東のウズベクといったスンニ派の強大な隣国との絶え間ない戦争に直面しました。 これらの対立は、地政学的な要因だけでなく、シーア派とスンニ派というイデオロギー的な対立によっても煽られました。
経済面では、サファヴィー朝はシルクロード貿易の重要な経由地として繁栄しました。 特に絹は主要な輸出品であり、その生産と貿易は国家経済の重要な柱でした。 アッバース1世は、アルメニア人商人を活用するなどして、オスマン帝国の妨害を回避し、ヨーロッパとの直接貿易ルートを確立しました。 また、国内の安全を確保し、隊商宿(キャラバンサライ)を整備することで、商業の発展を促進しました。
文化面では、サファヴィー朝の時代、特にアッバース1世が首都をイスファハーンに移してからは、壮大な都市計画と建築が花開きました。 イスファハーンのイマーム広場(旧王の広場)や、シェイフ・ロトフォッラー・モスク、イマーム・モスク(旧シャー・モスク)などは、サファヴィー建築の最高傑作として知られています。 また、ペルシア細密画、書道、製本といった芸術も、特にタフマースブ1世の庇護の下で隆盛を極めました。
しかし、アッバース1世の死後、有能な後継者を欠いたサファヴィー朝は、徐々に衰退の道をたどります。 内紛、経済の悪化、そして外部からの侵略が重なり、1722年にはアフガン勢力によって首都イスファハーンが陥落し、事実上の終焉を迎えました。 その後、ナーディル・シャーによる短い復興期もありましたが、1736年には完全に滅亡しました。
サファヴィー朝が滅亡して久しいですが、その遺産はイランという国家の根幹に深く刻み込まれています。シーア派イスラームを国教としたことは、現代に至るまでイランの宗教的・文化的アイデンティティを決定づけています。 また、サファヴィー朝時代に形成された官僚制度や、芸術、建築の様式は、その後のイランの諸王朝にも受け継がれ、大きな影響を与えました。



サファヴィー教団の起源と発展

サファヴィー朝の歴史は、13世紀にその名を冠した創始者、サフィー・アッディーン・アルダビーリー(1252年-1334年)によって設立されたサファヴィー教団に始まります。 この教団は、当初はスンニ派のシャーフィイー学派に従うスーフィー教団でした。 教団の拠点は、現在のアゼルバイジャン地方の都市アルダビールに置かれました。 サフィー・アッディーンの出自については、クルド系、アラブ系、トルコ系、イラン系など諸説ありますが、多くの学者は、サファヴィー家がイランのクルディスタン地方に起源を持ち、後にアゼルバイジャンに移住し、11世紀頃にアルダビールに定住したという点で一致しています。 実用的な目的から、彼らはトルコ語話者となり、トルコ化していきました。
1301年、サフィー・アッディーンは、彼の師であり義父でもあったザーヘド・ギーラーニーから、ギーラーン地方の有力なスーフィー教団であったザーヘディー教団の指導者の地位を引き継ぎました。 サフィー・アッディーンの持つ偉大な精神的カリスマ性により、この教団は後にサファヴィー教団として知られるようになります。 教団はすぐにアルダビールの街で大きな影響力を獲得し、歴史家ハムドゥッラー・ムスタウフィーは、アルダビールの人々のほとんどがサフィー・アッディーンの信奉者であったと記しています。
13世紀に始まったモンゴル帝国の侵攻は、イスラーム世界を大きく再編しました。 アッバース朝の終焉をもたらし、東方イスラーム世界の中心部を分裂させただけでなく、新たなテュルク系民族や王朝の到来が、権力の軸をテュルク系の氏族の手に移しました。 このような激動の時代において、アルダビールのサファヴィー教団は、どの政治的中心地からも十分に離れていたため、中立を保つことができ、ペルシアの神秘主義者たちが独自の強力な支持基盤を築くことを可能にしました。
サファヴィー教団は、サフィー・アッディーンの指導の下で着実に信者を増やしていきましたが、その性格が大きく変化するのは、第4代教主ジュナイドの時代です。教団は徐々にシーア派へと傾倒していき、ジュナイドの代には明確にシーア派の教義を掲げるようになります。 この変化は、アリーへの民衆の崇敬に引き寄せられた結果かもしれません。 ジュナイドは、教団を単なる静的な宗教団体から、政治的・軍事的な野心を持つ活動的な運動へと変貌させました。彼は、自らを神の化身と称し、信奉者たちに異教徒に対する聖戦(ジハード)を説きました。
ジュナイドの息子であり後継者であるシャイフ・ハイダルは、この軍事化路線をさらに推し進めました。彼は、父の信奉者であったアナトリアやアゼルバイジャンのテュルク系遊牧民を組織し、彼らに「クズルバシュ(赤い頭)」として知られる特徴的な赤い帽子をかぶらせました。 この十二のひだを持つ深紅色の帽子は、十二イマームへの忠誠を示すものでした。 クズルバシュは、ハイダルへの精神的な信奉者であると同時に、サファヴィー教団の軍事的・政治的な力の源泉となりました。 彼らは、教主を「ムルシデ・カーミル(完全なる精神的指導者)」として絶対的な服従を誓う戦士集団でした。
しかし、サファヴィー教団の急速な勢力拡大は、当時その地域を支配していたスンニ派の白羊朝(アク・コユンル)の警戒を招きました。白羊朝の君主ウズン・ハサンの死後、その後継者であるヤークーブは、サファヴィー教団の宗教的影響力の増大を脅威と見なしました。 ヤークーブはシルヴァーン・シャーと同盟を結び、1488年にハイダルを殺害しました。 ハイダルの死後、サファヴィー教団の信奉者たちは、彼の息子アリー・ミルザー・サファヴィーの周りに集まりましたが、彼もまたヤークーブに追われ、殺害されてしまいます。
サファヴィー朝の公式な歴史によれば、アリーは死ぬ前に、幼い弟のイスマーイールをサファヴィー教団の精神的指導者に指名したとされています。 父と兄を殺され、白羊朝の追手から逃れるため、イスマーイールはわずか1歳でギーラーン地方のラヒジャンに潜伏することを余儀なくされました。彼はそこで約5年間、地元のシーア派の指導者たちの庇護の下で教育を受け、来るべき蜂起の時を待ちました。この潜伏期間は、後のサファヴィー朝建国の物語において、神秘的な光輪を与える重要な要素となりました。
1499年、12歳になったイスマーイールは、潜伏先から姿を現し、アルダビールを目指して進軍を開始しました。アナトリアやアゼルバイジャンから集まったクズルバシュの忠実な部隊に支えられ、彼の軍勢は急速に膨れ上がりました。ティムール朝の政治的権威が失墜した後、イラン高原には権力の空白が生まれており、多くの宗教的共同体、特にシーア派のコミュニティが台頭し、 権威を得ることができました。 フルフィー派、ヌクタヴィー派、ムシャアシャイーヤ派など、様々な運動が存在しましたが、その中で最も政治的に強靭であったのが、サファヴィー教団のクズルバシュでした。 彼らの成功により、イスマーイール1世は1501年に政治的な権威を獲得することになるのです。

イスマーイール1世とサファヴィー朝の建国

1499年に潜伏先のギーラーンから姿を現したイスマーイールは、クズルバシュの部隊を率いて、父と祖父の仇であるシルヴァーン・シャーを討つべく進軍しました。1500年、彼はシルヴァーン・シャーの軍隊を破り、首都バクーを占領しました。この勝利は、若き指導者の名声を高め、彼の周りにはさらに多くの支持者が集まりました。
翌1501年、イスマーイールはタブリーズ近郊で、当時イラン高原の大部分を支配していた白羊朝の君主アルワンド・ミールザーの軍隊と対峙しました。数的に劣勢であったにもかかわらず、イスマーイール率いるクズルバシュの狂信的な勇猛さと結束力は、白羊朝軍を圧倒しました。この決戦に勝利したイスマーイールは、同年7月にタブリーズに入城し、アゼルバイジャンのシャーとして即位しました。 彼は自らをイランの「シャーハンシャー(諸王の王)」と宣言し、自身の名を刻んだ硬貨を鋳造させました。 そして、彼の支配領域において、十二イマーム派シーア派イスラームを公式の国教とすることを布告しました。
この国教化政策は、サファヴィー朝の歴史、ひいてはイランの歴史全体において、極めて重大な意味を持つ出来事でした。当時、イランの住民の大多数はスンニ派であり、シーア派は少数派でした。 イスマーイールは、この政策を強力に推し進め、抵抗する者には容赦しませんでした。スンニ派のウラマー(宗教指導者)や政治指導者は処刑され、人々はシーア派への改宗を強制されました。 タブリーズでは、改宗に抵抗した2万人ものスンニ派住民が殺害されたという記録もあります。 このような強硬な手段によって、イランのシーア派化は急速に進められました。この政策は、サファヴィー朝の支配を正当化し、国民的なアイデンティティを形成する上で中心的な役割を果たしましたが、同時に、西のスンニ派大国オスマン帝国との深刻な対立の火種ともなりました。
即位後、イスマーイールは征服活動を続け、その後10年間でイランの大部分を平定し、イラクのバグダードやモースルといった地域も併合しました。 1510年には、東方の宿敵であったウズベクのシャイバーニー朝とメルヴで衝突し、シャイバーニー・ハーンを討ち取り、その頭蓋骨に金箔を施してワイン杯にしたという逸話が残っています。 この勝利により、サファヴィー朝の東方国境は安定し、ホラーサーン地方が確保されました。
イスマーイール1世の権力の基盤は、クズルバシュと呼ばれるトルクメン系の部族戦士たちでした。 彼らはイスマーイールを単なる世俗的な君主としてではなく、神聖な指導者、あるいは神の化身とさえ見なしていました。この熱狂的な忠誠心が、サファヴィー朝の初期の急拡大を可能にした原動力でした。しかし、このクズルバシュへの過度な依存は、後に王朝の安定を脅かす要因ともなります。クズルバシュの部族長たちは強大な権力を持ち、しばしば中央政府の統制に反抗しました。
イスマーイールの治世において、政府の構造も整備され始めました。政府は、軍事・政治を司る部門、シーア派への改宗やシャリーア(イスラーム法)の施行を含む宗教問題を管轄する部門、そして王室の財産を管理し、税金を徴収する部門に分かれていました。 当初、これらの部門の指導者の多くはクズルバシュでしたが、徐々にペルシア系の官僚(タージク)が重要な役割を担うようになっていきました。 これは、「剣の人々」であるテュルク系のクズルバシュと、「ペンを持つ人々」であるペルシア系の官僚との間の権力分担という、サファヴィー朝の統治構造の基本的な特徴を形成しました。
しかし、イスマーイールの快進撃は、西方の強大な隣国、オスマン帝国のスルタン、セリム1世の登場によって終わりを告げます。オスマン帝国はスンニ派の盟主を自認しており、アナトリアのトルクメン諸部族がサファヴィー朝のシーア派思想に惹きつけられていることを、自国への重大な脅威と見なしていました。 イデオロギー的な対立と領土をめぐる緊張は、ついに両国の全面衝突へと発展します。1514年8月、両軍はアナトリア東部のチャルディラーンの平原で激突しました。
チャルディラーンの戦いは、サファヴィー朝の歴史における大きな転換点となりました。オスマン軍がマスケット銃や大砲といった最新の火器を装備していたのに対し、サファヴィー軍は伝統的な騎兵戦術に固執し、火器の重要性を軽視していました。 結果はサファヴィー軍の壊滅的な敗北に終わりました。 イスマーイール自身も負傷し、辛うじて戦場から脱出しました。この敗北により、サファヴィー朝はクルディスタン、ディヤルバクル、そして後にバグダードを失い、首都タブリーズは常にオスマン帝国の脅威に晒されることになりました。
チャルディラーンの敗北は、イスマーイールに深刻な精神的打撃を与えました。自らの神聖性を信じていた彼は、この敗北によってその信念を打ち砕かれ、以後は政治の表舞台から遠ざかり、酒に溺れるようになったと言われています。 国政は、ワキール(最高行政官)のオフィスに委ねられました。 しかし、この戦いはサファヴィー朝を滅亡には至らせませんでした。帝国は生き残り、オスマン帝国との対立は、その後300年以上にわたって続く、地政学的・イデオロギー的な戦争の始まりを告げるものとなりました。 イスマーイール1世は1524年に亡くなりますが、彼が築いた国家の基盤と、国教として定めたシーア派イスラームは、その後のサファヴィー朝の歴史を規定していくことになります。

タフマースブ1世の治世と帝国の安定

1524年にイスマーイール1世が亡くなると、その長男であるタフマースブ1世がわずか10歳でシャーの座に就きました。 彼の治世は52年間に及び、サファヴィー朝の歴代君主の中で最も長いものでした。その治世の初期は、幼いシャーを擁して権力を握ろうとするクズルバシュの有力部族長たちの間の内紛によって特徴づけられます。 クズルバシュの部族長たちは互いに争い、事実上の支配者として振る舞いました。 この内乱は10年近く続き、若いタフマースブは自らの権威を確立するために苦闘しました。
しかし、タフマースブは徐々に政治的な手腕を発揮し、クズルバシュの部族長たちを巧みに操りながら、中央集権化を進めていきました。 彼は、対立する部族を互いに争わせることでその力を削ぎ、自らに忠実な人物を要職に任命することで、徐々にシャーの権威を回復していきました。治世の最初の30年間で、彼は強化された中央軍の統制を強めることによって、国内の分裂を抑えることに成功しました。
タフマースブの治世は、外国からの脅威にも絶えず晒されていました。東方ではウズベクがホラーサーン地方への侵攻を繰り返し、西方ではオスマン帝国のスルタン、スレイマン1世が数度にわたってイランに大規模な遠征を行いました。 オスマン軍は1534年と1548年に首都タブリーズを占領し、さらにはバグダードも奪いました。 タフマースブは、オスマン軍との正面からの決戦を避け、焦土作戦を採用することで対抗しました。 彼は敵軍の補給線を断ち、広大な領土の奥深くへと引き込むことで、オスマン軍を疲弊させました。この粘り強い抵抗の末、1555年にオスマン帝国との間でアマスィヤの和約が結ばれました。 この和約は、オスマン帝国がサファヴィー朝を国家として初めて公式に承認したものであり、その後約20年間にわたる平和をもたらしました。 和約により、サファヴィー朝はメソポタミア(イラク)と東アナトリアをオスマン帝国に譲る一方で、エレバン、カラバフ、ナヒチェヴァンを回復しました。
ウズベクとの戦いにおいて、タフマースブは火器の重要性を認識し、軍の近代化を進めました。この経験を通じて、サファヴィー朝は「火薬帝国」としての一面を強めていきました。 経済的な弱さ、内戦、そして二正面での対外戦争にもかかわらず、タフマースブは王位を維持し、帝国の領土的統一性を(イスマーイールの時代よりは縮小したものの)保つことに成功しました。
タフマースブの宮廷は、亡命してきた王族たちの避難場所ともなりました。その中でも最も有名なのが、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーンと、オスマン帝国の皇子バーヤズィトです。フマーユーンは、シェール・シャー・スーリーに王座を追われ、1544年にサファヴィー朝に亡命してきました。タフマースブは彼を温かく迎え入れ、失われた領土を回復するための軍事支援を提供しました。 この支援の見返りとして、フマーユーンはシーア派への改宗を(少なくとも表面上は)受け入れ、カンダハールをサファヴィー朝に割譲することを約束しました。フマーユーンはサファヴィー朝の支援を受けてインドに帰還し、王座を奪還することに成功します。この出来事は、サファヴィー朝とムガル帝国の間に複雑な関係を築くきっかけとなりました。
一方、オスマン帝国の皇子バーヤズィトは、父スレイマン1世との後継者争いに敗れ、1559年にサファヴィー朝に亡命しました。タフマースブは当初彼を歓迎しましたが、バーヤズィトの存在はオスマン帝国との新たな火種となりかねない危険なものでした。最終的にタフマースブは、スレイマン1世からの莫大な金銭と引き換えに、バーヤズィトとその息子たちをオスマンの処刑人に引き渡しました。この決断は、非情な現実主義者としての一面を示していますが、帝国の平和を維持するためにはやむを得ない選択でした。
文化面において、タフマースブの治世は特筆すべき成果を上げています。彼は芸術の偉大な後援者であり、彼の時代にペルシア細密画、書道、製本といった芸術は絶頂期を迎えました。 特に有名なのが、イランの国民的叙事詩『シャー・ナーメ』(王書)の豪華な写本、いわゆる『シャー・タフマースブのシャー・ナーメ』の制作です。この写本は、当時の最高の芸術家たちが総力を挙げて制作したもので、ペルシア細密画の最高傑作の一つとされています。
また、タフマースブは1555年に首都をタブリーズからガズヴィーンに移しました。 これは、オスマン帝国の脅威からより安全な内陸部へ首都を移すという戦略的な判断でした。この遷都は、後のアッバース1世によるイスファハーンへの遷都の先駆けとなるものでした。
タフマースブ1世は、治世の後半には敬虔なシーア派信者として知られるようになり、芸術や音楽に対する規制を強めるなど、厳格な宗教政策をとりました。しかし、彼の52年間にわたる長い治世は、建国初期の混乱を収拾し、国内外の脅威から帝国を守り、中央集権的な国家機構の基礎を固め、そして文化を繁栄させた、サファヴィー朝の安定期として評価されています。彼が築いた基盤があったからこそ、後のアッバース1世による黄金時代が可能になったのです。

アッバース1世の治世と黄金時代

タフマースブ1世が1576年に亡くなると、サファヴィー朝は再び混乱期に陥りました。タフマースブの息子たちの間で後継者争いが勃発し、イスマーイール2世(在位1576-1577)とムハンマド・ホダーバンダ(在位1578-1587)の短い治世は、クズルバシュの部族間対立と宮廷陰謀によって特徴づけられました。 この弱体化に乗じて、西からはオスマン帝国、東からはウズベクが再び侵攻し、サファヴィー朝は広大な領土を失いました。国は崩壊の危機に瀕していました。
このような状況の中、1588年に若干17歳で王位に就いたのが、ムハンマド・ホダーバンダの息子、アッバース1世です。 彼の治世(1588-1629)は、サファヴィー朝の歴史における頂点、すなわち黄金時代と見なされています。 アッバース1世は、卓越した軍事的才能と政治的手腕を発揮し、内外の危機を克服して、イランを強大な国家へと押し上げました。
アッバース1世が即位して最初に取り組んだ課題は、国内の混乱を収拾し、中央権力を回復することでした。彼は、シャーの権威を脅かすクズルバシュの有力部族長たちを容赦なく粛清しました。 そして、クズルバシュへの依存から脱却するために、大規模な軍制改革と社会改革を断行しました。
軍制改革の核心は、「第三勢力」の創設でした。 これは、主にカフカース地方(グルジア、アルメニア、チェルケスなど)出身のキリスト教徒の子弟をイスラームに改宗させ、シャーに絶対的な忠誠を誓うエリート兵士として育成するものでした。 彼らは「グラーム(王の奴隷)」と呼ばれ、オスマン帝国のイェニチェリに類似した制度でした。 グラームは部族的なしがらみを持たず、その忠誠心はシャー個人にのみ向けられていました。 アッバース1世は、このグラームからなる騎兵隊(15,000人)と王室護衛隊(3,000人)を創設し、軍の中核に据えました。
さらに、彼は火器の重要性を深く認識し、ヨーロッパの軍事顧問(特にイギリス人のシャーリー兄弟が有名)の助けを借りて、軍の近代化を進めました。 12,000人規模のマスケット銃歩兵部隊(トファンチー)と、12,000人規模の砲兵部隊(トップチー)が新たに創設されました。 これらの常備軍は、土地の代わりに王室の金庫から給与が支払われ、シャーの直接的な統制下にありました。 この改革により、クズルバシュの軍事的な重要性は相対的に低下し、シャーの権力基盤は飛躍的に強化されました。
国内の権力基盤を固めたアッバース1世は、次に失われた領土の回復に着手しました。彼はまず、東方のウズベクとの戦いに集中するため、1590年にオスマン帝国と不利な条件で和約を結びました。 その後、近代化された新軍を率いてウズベクに反撃し、1598年にはヘラートを奪還、ホラーサーン地方からウズベク勢力を駆逐しました。
東方の安全を確保すると、アッバース1世は満を持して西方のオスマン帝国に矛先を向けました。1603年に始まった戦争で、サファヴィー軍は次々と勝利を収め、タブリーズ、エレバン、シルヴァーンなど、かつてオスマン帝国に奪われた領土をすべて奪回しました。 1623年には、シーア派にとって聖地であるカルバラーやナジャフを含むバグダードを再征服するという快挙を成し遂げました。 また、ペルシャ湾では、16世紀初頭からホルムズ島を占拠していたポルトガル勢力を、イギリス東インド会社の支援を得て1602年と1622年に追放し、ペルシャ湾の支配権を確立しました。 これらの輝かしい軍事的成功により、アッバース1世はイランを大国の地位へと引き上げました。
アッバース1世の功績は軍事面にとどまりません。彼は1598年に首都をガズヴィーンから、より中央に位置するイスファハーンへと移しました。 この遷都には、オスマン帝国の脅威から距離を置くという安全保障上の理由だけでなく、シルクロード交易路の中心に首都を置くことで経済的な利益を独占するという狙いもありました。 アッバース1世は、イスファハーンを世界で最も壮麗な都市の一つに作り変えるべく、壮大な都市計画を実行しました。
都市の中心には、広大なナクシェ・ジャハーン広場(世界の模様の広場、現在のイマーム広場)が建設されました。 この広場は、ポロ競技や軍事パレード、市場として利用され、市民生活の中心となりました。広場を囲むように、精緻なタイル装飾で知られるシェイフ・ロトフォッラー・モスク、壮大なイマーム・モスク(旧シャー・モスク)、そして王宮であるアーリー・カープー宮殿が配置されました。 これらの建築物は、サファヴィー朝の建築と芸術の粋を集めたものであり、その壮麗さは「イスファハーンは世界の半分」というペルシア語のことわざを生み出しました。
経済政策においても、アッバース1世は優れた手腕を発揮しました。彼は、国の主要な輸出品であった絹の生産と貿易を国家の独占事業とし、莫大な利益を上げました。 オスマン帝国が陸路での絹の輸出を妨害すると、彼はキリスト教徒であるアルメニア人商人を保護し、彼らをイスファハーン郊外のニュー・ジュルファ地区に集住させ、彼らの交易網を利用してヨーロッパへの新たな貿易ルートを開拓しました。 また、国内の道路網や隊商宿を整備して交易の安全を確保し、国内外の商人を積極的に誘致しました。 これらの政策により、サファヴィー朝の経済は飛躍的に発展し、国庫は潤いました。
アッバース1世は、宗教的には敬虔なシーア派信者でしたが、比較的寛容な政策をとりました。彼は、経済的な理由からアルメニア人キリスト教徒を保護しただけでなく、ヨーロッパ諸国との関係を重視し、キリスト教の使節団や教会の設立を許可しました。 彼の治世中、多くのヨーロッパ人旅行者や外交官がイスファハーンを訪れ、その繁栄ぶりを記録に残しています。
しかし、アッバース1世の治世には暗い側面もありました。彼は非常に猜疑心が強く、息子たちが自らの権力を脅かすことを恐れました。 その結果、長男を殺害し、他の息子たちを盲目にするか幽閉するという悲劇を引き起こしました。 この冷酷な行為は、有能な後継者を王朝から奪い、後の衰退の遠因となりました。
1629年にアッバース1世が亡くなった時、サファヴィー朝は領土的にも、経済的にも、文化的にも、その絶頂期にありました。彼が築き上げた強力な中央集権国家と効率的な行政システム、近代化された軍隊、そして壮麗な首都イスファハーンは、彼の偉大な治世の証です。 アッバース1世は、その功績から「大王」と称され、イラン史上最も偉大な君主の一人として記憶されています。

サファヴィー朝の社会と文化

サファヴィー朝時代のイラン社会は、多様な民族、言語、宗教が共存する複合的な構造を持っていました。その頂点に立つのはペルシア語を公用語とする宮廷と官僚機構でしたが、軍事と政治の領域ではテュルク系のクズルバシュが、そして後にはカフカース系のグラームが大きな力を持っていました。
社会階層は、大きく分けて「剣の人々」と「ペンの人々」という二つのエリート層と、大多数を占める一般民衆から構成されていました。「剣の人々」とは、主にテュルク系のクズルバシュの部族長たちであり、王朝の軍事力を担っていました。 彼らは土地を与えられ、その見返りとしてシャーに兵士と軍需品を提供する義務を負っていました。 一方、「ペンの人々」は、主にペルシア系の官僚やウラマー(宗教法学者)であり、行政と司法を司っていました。 サファヴィー朝の歴代シャーは、これら二つの勢力のバランスをとりながら統治を行う必要がありました。特にアッバース1世は、クズルバシュの力を削ぐために、カフカース出身のグラームを登用し、「第三勢力」として彼らに対抗させました。 このグラームたちは、官僚や軍の要職に就き、新たなエリート層を形成しました。
宗教は、サファヴィー社会を理解する上で最も重要な要素です。イスマーイール1世による十二イマーム派シーア派イスラームの国教化は、イラン社会の根幹を揺るがす大変革でした。 当初、イラン国内にはシーア派の法学者はほとんどいなかったため、サファヴィー朝はレバノンやイラクといったアラブ地域のシーア派の中心地から、多くのウラマーを招聘しました。 これらの移住してきたウラマーは、国家の支援を受けてシーア派の教義を広め、宗教教育機関(マドラサ)を設立し、司法制度を整備しました。
時が経つにつれて、ウラマーの社会的・政治的影響力は増大していきました。特に、王朝の後期になると、シャーの権威が弱まるにつれて、ウラマーは民衆の精神的な指導者として、また時には政治的な権力者として、シャーと対峙するほどの力を持つようになります。 このシャーとウラマーの二元的な権力構造は、その後のイランの歴史にも大きな影響を与えました。
サファヴィー朝は、シーア派を国教とする一方で、国内の非ムスリム、特にアルメニア人キリスト教徒、グルジア人キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒に対しては、比較的寛容な政策をとることがありました。 特にアッバース1世は、経済的な理由からアルメニア人商人を厚遇し、彼らの商業活動を保護しました。 イスファハーン郊外に建設されたアルメニア人居住区ニュー・ジュルファは、独自の教会や学校を持つ、活気あるコミュニティとして繁栄しました。 しかし、この寛容さは常に一貫していたわけではなく、時代や君主によっては、非ムスリムに対する迫害や強制改宗が行われることもありました。
文化面において、サファヴィー朝はイラン・イスラーム文化の黄金時代を築きました。特に建築、絵画、工芸の分野で目覚ましい発展が見られました。
建築では、アッバース1世が建設した新首都イスファハーンがその頂点を示しています。 ナクシェ・ジャハーン広場(イマーム広場)を中心に配置されたイマーム・モスク、シェイフ・ロトフォッラー・モスク、アーリー・カープー宮殿などは、壮大なスケール、調和のとれた設計、そして青を基調とした色鮮やかなタイル装飾によって、見る者を圧倒します。 サファヴィー建築の特徴は、巨大なドーム、高いミナレット(尖塔)、そして幾何学文様や植物文様、書道で飾られた精緻なタイルワークにあります。 これらの建築物は、サファヴィー朝の権力と富、そして美的センスを象徴するものでした。
絵画の分野では、ペルシア細密画(ミニアチュール)が絶頂期を迎えました。タフマースブ1世の治世に制作された『シャー・ナーメ』(王書)の写本は、その最高傑作とされています。 サファヴィー朝の細密画は、鮮やかな色彩、緻密な描写、そして物語性豊かな構成を特徴とします。 宮廷の工房では、多くの優れた画家が腕を競い合い、文学作品の挿絵や、独立した肖像画などを制作しました。 後期には、ヨーロッパ絵画の影響を受け、陰影法や遠近法を取り入れた新しい様式も現れました。
工芸分野では、絹織物、絨毯、陶器、金属細工などが高い水準に達しました。 特にペルシア絨毯は、サファヴィー朝時代にそのデザインと技術が完成され、ヨーロッパの王侯貴族の間でも珍重されました。 イスファハーンやカーシャーン、タブリーズといった都市には王立の工房が設けられ、最高品質の絨毯が生産されました。 絹織物もまた、国の重要な輸出品であり、複雑な文様と鮮やかな色彩で知られています。
哲学の分野でも、サファヴィー朝時代は重要な時期でした。シーア派神学と、イブン・スィーナー(アヴィセンナ)に代表される古代ギリシャ・イスラーム哲学、そしてイブン・アラビーの神秘主義思想(スーフィズム)を統合しようとする新しい思潮が生まれました。 この「イスファハーン学派」と呼ばれる知的運動の中心人物が、ミール・ダーマードや、その弟子であるモッラー・サドラーです。 特にモッラー・サドラーは、「存在の超越的統一体」という独自の哲学体系を打ち立て、後世のイスラーム思想に大きな影響を与えました。
このように、サファヴィー朝は、シーア派イスラームという新たな宗教的アイデンティティを軸に、多様な要素を内包しながら、政治、社会、そして文化の各分野で、後世に続く豊かな遺産を築き上げたのです。

衰退と崩壊

アッバース1世の治世に絶頂期を迎えたサファヴィー朝でしたが、彼の死後、その栄光は長くは続きませんでした。17世紀半ばから、王朝は緩やかな、しかし着実な衰退の道をたどります。その原因は、内政の弛緩、経済の悪化、そして外部からの圧力という、複合的な要因によるものでした。
衰退の最も大きな原因の一つは、有能な後継者を欠いたことにあります。アッバース1世は、自らの権力を脅かすことを恐れて息子たちを排除したため、彼の死後、王位を継いだのは、宮廷の奥深く(ハレム)で世間から隔離されて育ち、統治者としての教育や経験を全く積んでいない人物でした。 アッバース1世の孫であるサフィー1世(在位1629-1642)や、その息子アッバース2世(在位1642-1666)は、当初こそある程度の指導力を発揮しましたが、次第に国政への関心を失い、酒色や狩猟に耽るようになりました。
特に、アッバース2世以降のシャー、スライマーン1世(在位1666-1694)とスルターン・フサイン(在位1694-1722)の治世は、王朝の衰退を決定づけました。 彼らは政治のほとんどを大臣や宦官、そしてハレムの女性たちに委ね、自らは儀式的な存在に過ぎなくなりました。 宮廷では派閥争いが激化し、賄賂が横行し、国政は麻痺状態に陥りました。 シャーの権威が失墜するにつれて、地方の総督や部族長たちは自立性を強め、中央政府の統制は弱まっていきました。
経済の悪化も、衰退の深刻な要因でした。アッバース1世が築いた国家独占による絹貿易は、17世紀後半になると、インドやベンガル産の安価な絹との競争にさらされ、次第に衰退していきました。 また、ヨーロッパ諸国が喜望峰経由の海上ルートを確立したことで、イランを経由する伝統的な陸路のシルクロード貿易も重要性を失いました。 歳入の減少を補うため、政府は増税や貨幣の品質低下といった場当たり的な政策に頼りましたが、これはかえってインフレーションを招き、民衆の生活を圧迫しました。 地方では、重税に苦しむ農民の反乱が頻発するようになりました。
軍事力の低下も顕著でした。アッバース1世が創設した精強な常備軍は、平和が続いたことで次第に弱体化しました。 兵士の訓練は疎かになり、装備も旧式化していきました。 かつて王朝の力の源泉であったクズルバシュは、もはや過去の栄光を失い、グラームの兵士たちも宮廷政治に巻き込まれて堕落していきました。
このような内憂外患の状況の中、サファヴィー朝に最後のとどめを刺したのは、東方からの侵略でした。18世紀初頭、アフガニスタンのギルザイ部族に属するパシュトゥーン人たちが、カンダハールでサファヴィー朝の支配に対して反乱を起こしました。 反乱の指導者ミール・ワイス・ホータクは、スンニ派である自分たちに対するシーア派総督の圧政に反旗を翻し、1709年に独立を宣言しました。
ミール・ワイスの死後、その息子マフムード・ホータクが後を継ぎ、イラン本土への侵攻を開始しました。1722年、マフムード率いるアフガン軍は、ケルマーンとヤズドを占領した後、首都イスファハーンへと進軍しました。 サファヴィー軍はグルナーバードの戦いでアフガン軍に決定的な敗北を喫し、首都は包囲されました。
スルターン・フサイン政権は無力でした。数ヶ月にわたる絶望的な籠城戦の末、飢餓と疫病によって荒廃したイスファハーンは、1722年10月23日、ついに降伏しました。 スルターン・フサインは自らの手で王冠をマフムードに手渡し、ここで事実上、サファヴィー朝は終焉を迎えました。 アフガン軍による首都の占領は、略奪と虐殺を伴う悲惨なものであり、かつて世界の半分と謳われたイスファハーンの栄華は、灰燼に帰しました。
スルターン・フサインの息子タフマースブ2世は、首都陥落前に脱出し、北部で抵抗を続けましたが、彼の力は弱く、国内はアフガン勢力、オスマン帝国、そしてロシア帝国によって分割される無政府状態に陥りました。 この混乱の中から台頭したのが、後にナーディル・シャーとして知られることになる、テュルク系アフシャール族の指導者ナーディル・クリー・ベグでした。 彼はタフマースブ2世に仕え、その軍事的才能を発揮してアフガン勢力を駆逐し、オスマン帝国やロシアから失地を回復しました。 しかし、その権力はタフマースブ2世を凌駕し、1732年に彼を追放、そして1736年には、ついに自らがシャーとして即位し、アフシャール朝を開きました。 これにより、名実ともにサファヴィー朝は完全に滅亡したのです。

サファヴィー朝の遺産

1736年にナーディル・シャーによって正式に幕を閉じられたサファヴィー朝ですが、その235年間にわたる統治がイランの歴史に残した遺産は、計り知れないほど大きなものです。サファヴィー朝は、単なる一王朝にとどまらず、現代に至るイランという国家のアイデンティティの根幹を形成した時代でした。
最も重要かつ永続的な遺産は、十二イマーム派シーア派イスラームをイランの国教として確立したことです。 この決定は、イスラーム世界の宗教的地図を塗り替え、イランをスンニ派が多数を占める周辺諸国から明確に区別する、独自の宗教的・文化的アイデンティティを与えました。 サファヴィー朝による強制的な改宗政策は、当初こそ多くの抵抗と流血を伴いましたが、数世代を経るうちにシーア派はイラン人の精神に深く根付き、国民的な統合の基盤となりました。 アシューラーの儀式に代表されるシーア派特有の宗教行事は、イランの文化と不可分に結びつき、国民的な情念を形成する上で重要な役割を果たしています。 このシーア派というアイデンティティは、その後のザンド朝、カージャール朝、パフラヴィー朝を経て、1979年のイラン・イスラーム共和国の成立に至るまで、イランの政治と社会を規定し続ける中心的な要素となりました。
第二に、サファヴィー朝は、約900年ぶりにイラン高原を統一し、イラン人による独立した主権国家を再興しました。 アラブ、テュルク、モンゴルといった外来の支配が続いた後、サファヴィー朝はイランの地理的・政治的な一体性を回復させ、ペルシアの伝統的な君主制を復活させました。 彼らが確立した国境線は、若干の変動はあったものの、現代のイランの国境の基礎となっています。 サファヴィー朝は、オスマン帝国やムガル帝国といった強大な隣国と対等に渡り合う大国としての地位を築き、イラン人のナショナルな誇りを呼び覚ましました。
第三に、サファヴィー朝は、効率的で中央集権的な官僚国家のモデルを築きました。アッバース1世によって完成された行政システムは、「剣の人々」(軍人)と「ペンの人々」(官僚)の間の権力分担、そしてシャーに直属するグラーム(奴隷軍人)の登用といった特徴を持ち、その後のイランの諸王朝にも受け継がれました。 この統治機構は、多様な民族的・部族的要素を内包する広大な帝国を、比較的安定して統治することを可能にしました。
第四に、文化的な遺産もまた絶大です。アッバース1世が建設した首都イスファハーンの壮麗なモスクや宮殿は、イスラーム建築の最高傑作として今日でも多くの人々を魅了しています。 サファヴィー朝時代に頂点を極めたペルシア細密画、絨毯、陶芸、書道といった芸術は、イラン文化の象徴として世界的に知られています。 また、モッラー・サドラーに代表されるイスファハーン学派の哲学は、シーア派神学と思想の発展に大きく貢献しました。 これらの文化遺産は、イラン人の美的感覚や知的伝統を豊かにし、国民文化の重要な一部を構成しています。
サファヴィー朝の衰退と崩壊は、有能な指導者の不在、内部対立、経済の停滞といった、多くの帝国がたどる典型的なパターンを示しています。 しかし、その崩壊後も、彼らが築き上げた宗教的、政治的、文化的な枠組みは生き続けました。
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・サファヴィー朝とは わかりやすい世界史用語2347

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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